あなたの生きる未来を創るー『シン・ニホン』を読んで


雨の匂いがする。雲の流れが早い。なんだか嵐でも来そうな雰囲気だ。
外に洗濯物を干してきてしまったことを思い出す。慌てて帰れば、濡れる前に取り込めるかもしれない。わたしは、今駅に着いたばかりだ。このずっしりとしたバッグを抱えて家まで戻るのは、正直結構面倒くさい。
例によって仕事は溜まっている。早めに出社して、コーヒーでも飲みながら、積み上がったメールを少しでも消化したい。もしかしたら雨は降らないかもしれないし、降ったとしても、小降りくらいで済むかもしれない。
気づかなかったフリをして、いつもの目まぐるしい日常に逃げ込んでしまおうか。

いつかのわたしは、来たるべき未来に対して、こんなふうに目を逸らしていたように思う。

漠然とした恐怖から目を背けよう

「AIが社会のありかたを抜本的に変える」
「20年後には、今当たり前に存在する職業の多くが消えてしまう」
「アマゾン熱帯雨林で火災が発生」
「少子高齢化により、年金制度は崩壊してしまう」
「日本のジェンダー・ギャップ指数は121位に転落」etc…

センセーショナルなタイムラインは、あらゆる角度からわたしたちを煽り立てる。そりゃあもちろん、わたしたちが直面する大きな課題に対して、一応の関心はある。だが、どこか一枚画面を挟んだような、他人事感は拭えない。どうしたって気を取られるのは、差し迫る日常の「ToDo」だ。難しそうなこと、大それたこと、未来のことを考えるのは、とりあえず後回しに。そうやっていれば、わたしなんかよりもはるかに頭の良い誰かが、素晴らしい解決策を考えておいてくれるだろうから。

そんなのは単なる希望的観測で、しかも言い訳でしかないことぐらい自分でもわかっている。
だというのに、つい目を逸らしたくなる。わからないことは怖い。でも、知ることだって怖い。そもそも課題を理解できたとして、わたしのような凡人に一体何ができるというのだろう。だったらいっそ、嵐には気づかないフリをしよう。漠然とした恐怖から目を背けよう。

これは逃げだ。いや、むしろ、逃げでさえないのかもしれない。何かが来るのを薄々気づいていながらも、そちらを見ず、近い物だけをみて、何の準備も構えもせず、ただひたすらその場に突っ立っているだけなのだから。

そんな自分にも、ひとつの転機が訪れる。子供が生まれたのだ。

あなたが幸せに生きていける未来を創るためには

昨年4月に生まれた息子は、もう1歳になる。目を離せば死んでしまいそうな、ふにゃふにゃとした弱々しい生き物だったのに、1年も経つと随分人間らしく成長した。子供がいる前の生活が遠い昔に感じられるくらい、濃密で、刺激的で、やかましい毎日だ。

この子が幸せでありますように。親なら誰しもが持つ祈りだ。
彼が幸せに生きていくためには、彼自身が生きる力を身につけることが重要だと、わたしは思っていた。でも、はたしてそれだけで十分なんだろうか?彼が生きていく未来が不幸な社会だったら、いくら彼に力があっても、幸せにはなれないのではないだろうか?
そう思った瞬間、これまで漠然とした恐怖だったものが、リアリティのある課題にすり替わった。今まで近くしか見えなかったのに、急激に遠くが見えるようになった。ここで突っ立っていてはいけない。わたしたちは、親として、子供の世代が生きる未来が少しでも良いものになるように、何かしなければならない。
課題意識は持った。しかし、今まで突っ立ってきただけのわたしである。複合的な要素が絡み合う社会にアクションをおこそうとするには、あまりにも無知で無力だ。今まで思考放棄したツケが回ってきてしまった。さあ困った。どうしよう。

手触り感のある「日本の課題」

縁というのは面白いもので、本当に必要だと感じたものには、必要なときに出会えるようになっているようだ。わたしにとって、それは『シン・ニホン』という本だった。本を読んでもらえればわかると思うが、わたしの課題意識は、ほとんど「はじめに」に書かれていることと同じだ。

「ほとんどの人は、あまりにも多くのことが変数として一気に動く目まぐるしさの中で、変化が落ち着く日を待っている様だ。でも、残念ながら、そんな日は来ない。世界は昔も今もダイナミックに動いてきた。これからもそうだ。
 では、どうしたらいいのか。」(『シン・ニホン』p.003より)

この本では、日本が抱える重層的な課題を、冷静かつ俯瞰的に捉えた上で、大きく切りわけ、整理し、分析を行い、「これからの未来」について提言している。わたしのような知識量の少ない一般人でもキャッチアップできるよう、ファクトベースで丁寧に説明されていて、手触り感のある「日本の課題」をイメージすることができる。

「雨、降らないでくれよ…」と天に向かって祈るわたしに、「雨は降るし、嵐は来る」と認めさせたのがこの本だ。一度認めてしまえば、じっとりとした空気にも、風に押し出されて転がる空き缶にも、聞こえなくなったセミの鳴き声にも気づけるようになる。ふと、子供の頃を思い出す。嵐の前日、がたがたと音を立てる雨戸や、いつもよりも緊迫感のあるニュース。いつもと違う光景が、もちろん怖かったけれど、たしか、わたしは、その非日常にワクワクしていたはずだ。
来るものは来る。それならいっそ、その変化を受け入れて、できることなら楽しみたい。耳も目も塞ぐのではなく、来るものに意識を向けて、変化を見つけて、その上で自分が何を感じるのか、嵐が過ぎ去った後の空に、どんな未来を描くのかを考えたい。それは、周りから目を背けて、積み上がった受信ボックスのメールをぽちぽち開くより、よっぽど楽しそうだ。

シン・ニホンというプラットフォーム

『シン・ニホン』が、たった3ヶ月半で10万部を突破したらしい。
多くの人が、シン・ニホンを読んで、得た知識をベースとして、それぞれの立場で物事を考えようとしている。この、「多くの人が同じ土俵で何かを考えようとする」ということ自体が、ものすごく意味のあることなんじゃないか、とわたしは思う。同じ課題を考えているつもりで、実は全然別のレイヤーで物事を話していることは、会社という限られた組織の中だってよくある話だ。しかも、我々が直面しているのは、会社の中よりもはるかに広範囲で、しかも根深い問題だ。それぞれに専門家がいるし、一般人でも、世代やバックグラウンドによって感じ方や価値観が全く異なる。意思決定どころか、前提や定義を揃えることすら困難だ。
ここに、ファクトとロジックで裏付けられた叩き台があることで、ある程度足並みを揃えることができる。みんなが同じ土俵で思考して、議論できるようになる。つまるところ、シン・ニホンはプラットフォームなんだと思う。

この本を読めば、多かれ少なかれ、何かの気づきを得ることができるだろう。ただ、わたしも含め、「さあ、行動だ。」と言われて、すぐに行動に移せる人ばかりではない。それでもプラットフォームは役に立つ。何ができるかわからなかったら、この本を媒介として、誰かと話してみればいい。あなたの気づきは誰かの刺激になるし、誰かの気づきはあなたの新たな視野につながる。対話の中から、全く新たなアイデアがうまれてくるかもしれない。行動している人の背中を押せるかもしれない。行動している人に刺激を受けて、小さなことならやってみよう、と思えるかもしれない。この行動の総量が臨界点に達するとき、社会は一気に変わるのだろう。

みんなで一緒にあっちにいこう

ここに道がある。なんだかでこぼこしていて、ジメジメしている。先は薄暗く霧がかかり、その先に何があるかはわからない。
わたしたちは、多分、この道を進みたい、と心から思っているわけではない。ただ、他の道をさがしたり、考えたりするのがめんどうだから、とりあえずこの道を進めばいいや、と思っているだけだ。

でも、どうやらあっちには、ここにある道を進むよりも、なんだか楽しそうで、明るくて、素敵な未来があるらしい。
わたしは単なる凡人だから、あっちに行くための道を、先陣切って自ら開拓する!なんていう大それたことはできないそうにないけれど、みんなに「あっちのほうが楽しそうだよ!みんなで一緒にあっちにいこうよ!」と声をかけることならできそうな気がする。

進むスピードや進むルートはみんな違っていていい。
みんながあっちをみて、あっちに向かうための一歩を踏み出せれば、きっといい未来になるはずだ。


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