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その優しさは、果たして?

昨年からずっと考えていたことの一つに、それは優しさなのだろうかと自分自身の言動を改めて振り返ってみるというのがありました。誰かに何か言われたわけでもないけど、このままではまずい気がして。なんとなくここで変わらなければ一生変わらない気もしてきて。何にも切羽詰まってないのですが、現時点の見解を記しておこうと思います。

優しさとは?善意とは? 結局誰かに向けたものではなく、自分自身を納得させたいだけで、私本位なのでは? でも私の人生だし! みたいなことをぐるぐる考えては、これって正解はないよなあと煮え切らず。正解がほしいわけではなく、きっと納得したいだけだし、起こった事実は変わらないのに、別のたらればを想像してはあの時の行動はあれで良かったのかと終わったことを迷宮入りさせてみたり。完全に血迷ってました。笑

優しさには方向性があるのかなと思います。その場だけ、今だけ、の点で見た優しさなのか。いつかたどり着くステージ、未来、の線で見た優しさなのか。これってきっと簡単な基本で、子育てやOJTを経験したことのある人なら当然すぎることだと思うけど、これを日常の人間関係に、はたまた近しい関係性の人とに置き換えるとハードルの高いことなのではと感じています。だってわざわざ感が満載だから。良い感じなのにわざわざ一石を投じるし、わざわざが無いほうが平和だったりするから。

歳を重ねれば重ねるほど、周りは注意してくれなくなるし、あえてふれないし、それでいて日常は回るから厄介で。裸の王様にはなりたくないし、パンドラの箱も持っていたくない。耳の痛くなるようなことや、傷つけてしまいそうなことに飛び込む必要はないけど、大切だからこそ、未来を思うからこそ、向き合う。優しさの反対は厳しさではなく無関心。ちゃんと思ってるから言うし、諦めたから言わない。優しさとは向き合うこと、今はこれに尽きるのかなと。そして、優しさとは恥ずかしさでもある気がします。向き合うってさらけ出さなきゃいけない場面もあるはずで、逃げたら意味がないから。だからすごく恥ずかしいと思います。

人生に決まっていることなんてなくて、選択の繰り返しで、何を選んだって正解不正解はなくて、重要なのはタイミング。だから私は迷うのだと思います。自分で選んだ道なのに勝手に苦しめてしまったり、そもそもの選択を見誤ったり。ただ、事実を事実として、結果を結果として受け止めるしかなくて、そこからどう舵を切るかはまだ選択の余地があるわけで、悲観するのは一瞬にしようと思います。

現時点の優しさとは、向き合うことで恥ずかしいことで、それでいて未来があることなのかなと。未来を信じているから、見守るという形もあるし、自由にさせてくれる、自由でいさせてくれる形もある。選択をしたならば応援し、失敗したならば次があるよと言える器を持てたらなと思います。なんだかずーっと引っかかってたことなので、ここに文章に落とし込めて良かったなと思ってます。コロナが蔓延する一方でなかなか対面で人と会うのも難しくなる中で、唯一このnoteが気持ちや考えを整理する拠り所になっている気がして頼もしい場だなと思っています。がしかし、毎回毎回改めて読み返すとこっぱずかしくもあり…。文章をうまく書く練習と思って割り切っていきたいと思います!

おわり。笑

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