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2022年を終える

4年目になる “年記” を今年は古民家の掘りごたつの中で書き始めた。
新しい場所で今年を終え、次の年を迎えにいく。現在、大晦日の14:19。

※本投稿における「今年」とは「2022年」のことです。

月ごとのハイライト

1月|グループ展出展。アメリカ(ニュージャージー)へ
2月|Billy Joel を見る
3月|Billy Joel が見る(私を)
4月|帰国。ワーホリを断念する
5月|国内で移動生活を始める
6月|都内を中心に回る
7月|帰省。ライブ出演。移動生活を継続してみることにする
8月|神奈川を中心に回る
9月|グループ展「Aubade」出展。定住先が決まる
10月|関西・北陸・岐阜へ(電車を堪能)
11月|神奈川・神戸へ。仕事が一時暗転
12月|奄美・与論・沖縄・関西へ(飛行機とフェリーを堪能)。定住先へ引越す

住む場所のこと

今年、3か月間はアメリカに住み、8か月間は日本のさまざまな家を訪れて滞在した。住む場所を変えてみようと思えたのは、去年の夏に制作した『どこにいても』という作品のおかげだったように思う。
「(あなたが、わたしが、)どこにいても大丈夫」と信じたくて作ったこの作品が私自身に勇気をくれて、「どこにいても大丈夫、を体現してみよう」と思い至った。

その “実験” の第一弾として選んだのがアメリカであった。滞在先のニュージャージーと足繁く通ったニューヨークは、日本で言えば千葉と東京のような、「生活」と「仕事やおでかけ」の関係性がよく似ていた。
何を以て「大丈夫」とするかを決めないまま実験を始めたけれど、日本と14時間の時差があっても仕事ができ、衣食住に困らず、現地の人とコミュニケーションをとって生活ができたことを振り返ると、大丈夫だったな、と思える。

“実験” の第二弾になるはず・・だったのは、カナダ・トロント。アメリカでマイナス10℃の冬を過ごしたことで、寒い土地での生活に興味が湧いた(雪で視界が白くなると、しばしばそれを彩ろうという思考が働いた。その思考が私に、絵を描く時間や、ケーキの上のキャンドルや、散歩中のひとときの会話をもたらした)。しかし、世界の情勢と経済への不安から、ワーキングホリデーはひとまず断念することとなった。

トロントの代わりに、日本国内で “実験” をすることにした。多拠点生活をサポートするADDressというサービスでの移動生活。時々実家で息継ぎをしつつ、家から家へ移動する。5月から8か月間で44回の移動。36の家。13都府県。
始めは、「ひとりになりにいく」つもりで移動をしていた。人や外界(社会とか属性みたいなもの)から外れて生活をしてみることで、自分が大切にしたいもののことがわかるようになると思った。
途中から、「自分のスペースに人を受け容れる」ことが面白くなり、「人のスペースに自分が受け容れられる」ことがよろこびになった。料理やお話で交流したり、同じ部屋で別のことをするという時間を過ごして、ひとりでいるときにはない充足感を知った。ひとりになったときにもまだ一緒にいるような感じのするひとも、一緒にいるのにひとりでいるときみたいに、無理なエネルギーを使わないで過ごせるひともいた。
さらに移動を続けていると、「移動自体が目的になっている」ことに気がついた。好きな交通手段や路線を選ぶことや、あえて時間がかかるほうの道を選ぶことがそれにあたる。後者は、視界の端で変わっていく景色が語りかけてきているような気がした。

「あなたの知らないことはたくさんある」
「全部を知ろうとしなくていい」
「知らないことがあることだけ知っておけ」

第二弾の “実験” では、「ただいま」を言いたい場所が増えた。自分がいつもそこにいられる訳ではないけれど、いつでも帰れる場所が増えることは、まさしく「(わたしが)どこにいても大丈夫」と思えるということだと思う。

移動生活中のご縁で定住先が決まり、今はその古民家の掘りごたつ・・・をさっき出て、自室にてこれを書き進めている。定住先の話はのちほど。

食べるもののこと

今年はよくキッチンに立った。キッチンに立つときの気持ちにも変化があった。以前は食べられれば何でもいいという気持ちのもと、安くて日持ちのする食材を選び、材料を切ったり混ぜたり熱を加えたり何だりした。それは、自分にとっては洗濯などの他の家事とほぼ同列のものだった。

これまでの人生で料理らしい料理をした記憶がなく、とはいえ野菜を切ったり肉を炒めたりしたことはあり、それを「調理」と呼んでいた。

「記録(1/22 - 1/31)」食事について より

しかし、9月ごろから献立を考えてスーパーへ行くようになったり、割高でも食べたいもの(季節の果物や調味料)を選んだり、盛り付けを工夫したりするようになった。自分が作ったものを人に出す機会もあり、それらを「調理」ではなく「料理」と呼べるようになった感覚がある。

いま気になっているのは、「スパイス」「フルーツ×野菜」「ポタージュ」の3つの軸で、来年はそれぞれの知識やレシピを増やしていきたい。

また、食に関してもう一つ。
自分の食欲をコントロールできないことが多々あり、苦心した。数か月おきに、あまり食べなくても気持ちが落ち着いているときと、食べても食べても食べたい気持ちが収まらないときとがあった。今年は例年よりも後者の頻度が高く、無視できないほどだったので時間をかけて考えた。
未来の自分のために対策(というか、考え方)を残しておく。

①食べることが好きなのを認める
②「食べたいかどうか(食欲)」ではなく「実際におなかが空いているかどうか」を判断基準にする
③白湯やコーヒーを飲む(食欲を落ち着かせる)
④食べるまでに時間がかかるものを作る(食欲を創作欲でごまかす)
⑤ゆっくり食べる(口に入れたものがおなかに届く時間をかせぐ)
⑥歯磨きをする(口にものを入れない状況を強制的に作る)
⑦それでも食べたかったら、食べていいことにする

我慢して食べないようにするとうまくいかないことが多かったけれど、理由をつけて自分がそれに納得すれば食べないという選択もできるのだと、いまは分かっている。来年もゆっくり観察したい(自分と自分の食欲を)。

着るもののこと

実家の自室で、洋服箪笥からあふれるほどの服を見るたびに溜め息が出た。年間を通して一度も着ない服が押入れに眠っているのを知りながら新しい服を購入する自分に、長いあいだ腹を立てていたような気もする。

12月、引越しを機にそれらの服を1軍から3軍に分け、3軍には一着ずつありがとうと言いながらついに処分した。2軍は帰省時のために実家に残し、1軍だけを連れてきた。それまで持っていた服の半分くらいの量にしたら、小さなダンボール3箱分(カラーボックス2段)くらいに収まりーーそれでも理想よりは多いのだけれどーーひとまずほっとしている。

9月に京都を訪れた時、インド綿の服を4着買った。その時はもちろん自室が大量の服であふれていた時だし、移動生活中でなるべく荷物を増やさないようにしていた時だった。「今じゃないよなあ」と思う自分が、触覚にも視覚にもやさしい綿生地に惹かれてやまない自分に説得されて、協議の結果、後者が勝った(そして買った)。ただ、翌日に早速インド綿の服で外出した自分を見て、「あ、今だったのか」と思い直った。もう着ない服をとっておくより、今着たい服を着ようと思った。ーーそれは服だけじゃなく身の回りのものすべてに言えそうだ、と思いながら、赤いワイドパンツを揺らして、鴨川沿いを進んだ。

水辺

今年はいろいろな水辺を訪れることがができてしあわせだった。

◆凡例:水辺の名称(見た場所)
・ハドソン川(ニュージャージー、ニューヨーク)
・相模湾(森戸海岸、酒匂海岸)
・富山湾(雨晴駅、漁火ロード)
・播磨灘/瀬戸内海(林崎漁港)
・大阪湾(神戸空港、なぎさ公園、関西空港ー三宮間の高速バス車窓)
・宮ヶ瀬湖(清川村)
・奄美大島の海
・与論島の海
・沖縄本島の海

意識的に水辺を訪れるようになって、それまで「川」や「海」で一緒くたにくくっていたものをグループ分けするようになった。都心部を流れる太い川、山間やまあいにある細い川。浜辺のある海、堤防のある海、消波ブロックのある海。対岸がある海、ない海。

ーーここまで書き、自分の「好き」に無意識的でいたことがたくさんあることを思い出してひやり・・・とした。そういうひやり・・・が時々あるけれど、それがどういうものなのかはよく説明できない。少なくとも、意識的でいたいと思っている。
「好き」の対象(ここでは「水辺」)をグループ分けすることで、自分がそれの何を好きなのかを分かっていくことは、きっと、今の私に必要なことだと、思う。

仕事のこと

がらりと話を変えたい。
“実験” 中、すなわちアメリカ滞在中も移動生活中も、ほとんど毎日仕事をした。パソコン(と電気とインターネット環境)があればできる仕事のもとで私の行き当たりばったりの生活が成り立っていた。

その生活が危うくなったのが11月で、フリーランスという身分の危うさを痛感する出来事があった。簡単に言うと、仕事が減った。

それでも、企業に所属するのではなくフリーランスでいたいという自分を認めて、その海を泳ぐための筋力やゴーグルやウェットスーツや足ひれを付けなければ、という思いを強めた。

その出来事の直後には底なしの不安に襲われたけれど、近い人や偶然近くに居合わせた人にヘルプを出せたことで、なんとか底に足がつき、不安をそこに残して、浮上することができた。不安を自分の身から剥がして考えられるようになると、「仕事相手がハッピーなほうが、ハッピーに仕事ができる」ということを自然に(=無理なエネルギーをかけずに)思うことができ、「ならばハッピーな私でいよう」と気持ちに整理がつけられた。

余談だが、「ハッピー」をカタカナで表記すると、お祭りで屋台のお兄さんたちが着ているようなハッピ(法被)が連想され、チョコバナナと冷やしパインを両手に握ったときのよろこびを味わえるのでおすすめである。

新たな仕事のこと

5月、移動生活を始めて3拠点目で出会った方に言われた。

「こうごさんって家守さん*に向いてそうですね」
(*家守さん=拠点の管理人さんのこと。ADDressではこう呼ぶ)

その彼女自身も家守さんだった。この時はまだ、私の気持ちは全くそちらに向いていなかったものの、自分の足を進めた先でそういう選択肢が並んでいる可能性もあるなあとかすかに思った。

8月、彼女からメールが届いた。

「新しい物件で家守の募集をしています。
 その人物像にこうごさんがピンときたのです。
 ご興味ありましたらお返事ください」

このメールに心が惹かれるのを感じた。「まだ移動をしたい気持ち」と
「新しいご縁を選びたい気持ち」とで揺れながら、興味があります、と返信すると、9月上旬に物件のオーナーとの面談、下旬に現地訪問があれよあれよと決まった。訪問時はまだ工事中だったその家屋にたちこめる木の匂いが印象的だった。
けれども決定打は建物自体ではなかった。建物から徒歩40秒ほどのところに大きな湖がある。フェリーが停泊し、北側からの水流で湖面が揺れる。山間を縫うようにして広がる湖がうつくしく、みとれながら、ああ私はここに住もう、と思った。

そうして新たな仕事を得た。くだんの平屋に住み込み、訪れてくるゲストを迎える。洗濯をする。掃除をする。近隣の地理を知り、イベントの情報を共有し、交流の場にするーー。「仕事」というよりは、そういう「役割」である。

自分の生活の中に、新たな役割を持った。移動生活中にはできなかった、空の色の移ろいや植物たちの成長を定点観測できることをよろこびたい。

展示のこと

1月と9月、東京・馬喰町にあるギャラリーでグループ展に出展した。

(作り手の視点でそれぞれの展示や作品を振り返りたい気持ちもあるけれど、この投稿ではやはり日記的になっている)

◆2022.1.8〜1.15|福福エキシビション
2021年11月にお誘いいただいたグループ展。その時期は気分がハイになっており(?)、制作期間が2か月を切っていたのに即OKをした。
1月5日がアメリカへの出発日だったため、それまでに新作4点を完成させる必要があった。結果的に、「新年」「冬」というキーワードであまり苦悩せずに(=呼吸するように)制作できた。また、初めて「アンビグラム」という手法(ある文字を複数の方向から読み取れるようにした書き方)にも挑戦できた。
会期中に一度も在廊しないのは初めてのことで少々落ち着かなかったけれど、親しい友人から展示の様子が送られてきて、大丈夫になった。

Portfolio を貼ってみる

◆2022.9.11〜9.22|Aubade
3月下旬、アメリカ滞在期間がほどなく終わるというタイミングでお誘いいただいたグループ展。その時点では、自分が9月にどこで何をしているのか想像のしようもなかったが、「何かを作る自分でいたい」という気持ちに従って出展を決めた。
タイトルの「Aubade (オーバード, 仏)」は音楽用語で「夜明けにわかれる恋人たちの詩または歌」とのこと。夜明けや朝を「はじまり」や「おわり」と捉えることもできたけれど、私の中で「夜のつづき」と定義できたことで制作の手が進むようになった。年始の制作床とは異なり、思考に3か月超、制作に2か月超かかった。新作3点と旧作1点、すべて水に関連する作品になった。

Instagram も貼ってみる

移動生活をしながら制作をするというのは、想像したよりも簡単ではなかった。必要な道具を持ち歩くことはできるが、適切な制作環境(什器や湿度や空気の流れ)を持ち歩くことはできない。壁紙の色に思考を遮られたり、高さの合わない椅子にやる気をなくしたりすることもあった。同じ場所で制作をすることの意義(=アトリエを持つ意義)を大いに感じた。
一方で、ギャラリーのウェブサイトで作品の制作過程をご紹介いただく機会をいただき、それまでとは違った高揚感で制作に取り組める時間もあった。

2023年も早々に展示の予定がある。楽しみながら新しいことにも挑戦していく。

音楽のこと

2月に泣きながらニューヨークの街を歩き、楽器屋の門を叩いたのが懐かしい。

先の弦楽四重奏を聴いた私は、その場に留まりがたい気持ちになりイベント会場を出た。よい音楽に出合えた喜びとか寂しさとか、長らく誰かと音楽をしていない心細さとか不満感が心臓を貫いたまま抜けない、みたいな感覚で、取り乱していた。
マンションに帰ろうとしたが、帰ってもその剣が抜けそうにないことはわかっていた。ニューヨークの11番街から8番街までを大股で直進しながら、音楽に貫かれた穴は音楽で埋めよう、と思った。7番街に営業中の楽器屋があることを確認して、向かった。

「記録(2/1 - 2/11)」ふと - その8 より

7月、ついにライブをした。おそらく3年ぶりにステージの上でドラムを叩いた(最後のライブがいつどこであったのか、実は未だに思い出せないでいる)。たいへん楽しかった。ボーカリストの後ろでドラムを叩いているのがやっぱり好きだと思った。背中だけが見えているのに表情までわかるのは、その瞬間に一緒にひとつの音楽を作っているからだろう。
学生時代からの友人にも、ここ数年で交流を深めた方にもその演奏を見てもらえて、よかった。ーーこの「よかった」は、次の項ですこし具体的に言葉にしたい。

10月、11月、12月と神戸のライブバーのオープンマイクに出た。
ひとりのときでも音楽をする手段として、2020年の中ごろからガットギターを弾いている。歌もうたう。オリジナル曲を初めて完成させたのはもう1年前の冬のこと。

stand.fm(音声配信アプリ)で歌う以外に人前で歌うことはほとんどなかったのに、移動生活中にふと思い立って、三宮さんのみやの入り組んだ居酒屋街にあるそのバーを三度訪れた。「知らない土地で知らない人を相手にするからできること」があると思う。それまでの自分や他人が築いた「自分らしさ」のようなヴェールをまとわないでいられる。大胆になることもできる。自分の曲を歌うことも。
一度目と二度目は名乗らずに帰ったが、三度目のときは出身と名前を言ってから演奏を始めた。千葉から来ました、かなえですーー。終演後、マスターは私を「千葉ちゃん」と呼んだ。隣にいた女将さんが「まあこの人ったらなんてこと、かなえちゃんでしょう。あら、千葉ちゃんでいいの? そうなのね? じゃあ千葉ちゃん、またね」と百面相で見送ってくれた。
「その場所だけで呼ばれる名前」があるのは、私にとって、とても心地よいことなのだ。

ただ、来月(2023年1月)から神奈川に住むことを考えると、「神奈かなちゃん」と呼んでもらうほうが実際の名前に近かったな、とも思った。時すでにおすし。🍣。

私的なこと

名前の話を書いてみる。ここで話題にするのは、履歴書の一行目に書くような名前のことではなくて、いくつかの自分の人格を区別するときに私自身が自分に与えた名前のことである。高校のころから人格を区別するということをしていたけれど、名前を与えることにしたのは大学卒業後であったと記憶する。

2017年に初めて個展を行なったとき、作家名をコウゴ・カナエとした。当時の私は都内で会社員をしていて、漢字の名前を名乗り、漢字の名前で呼ばれた。そういう自分とは切り離された身で創作活動をしたいと思ったために、カタカナの名前を与えた。そのとき、ひらがなのかなえがいることにも気がついた。仕事をしていない、創作もしていない、食べたり、寝たり、散歩したり、友だちと話したりする、生活のなかのわたしがそれだった。

それらのどれでもいたくない、あるいはいられないと思ったパンデミックの当初、stand.fmを始めて、自分に新しい名前を与えた。静かな夜だったから、yorunokoeという名前にした。
1年目(2020年4月)は収録を数日から数週間に一度のペースで投稿。思考の記録のようなものだった。ただ春に新しいことを始めたかっただけかもしれない。
2年目(2021年2月)に思いつきでライブ配信をするようになり、3年目の今も継続中。その2年間で、新しい名前で呼ばれるようになった。koe、こえ、コエ、よるこえ、よる、などである。

ライブ配信中に複数の名前で呼ばれるようになってから、気づいたことがあった。呼ばれ方によって自分の人格(≒どんな自分でいたいかという気持ち)が変わっている、ということ。それはやがて、相手一人ひとりによって自分の人格が変わっているという気づきに繋がっていく。

どの人格も自分であることには違いない。でもその人格を自覚したり、区別したりするよりも前から自分を構成していたのが音楽だった。
ここで、前の項で触れたことに戻る。

7月、ライブをした。[中略]学生時代からの友人にも、ここ数年で交流を深めた方にもその演奏を見てもらえて、よかった。

この「よかった」というのは、私の人格のうち「カナエ」や「yorunokoe」を知っている方に、何の区別もない状態の私(=かなえ)を見てもらえてよかった、という感覚だった。そういうことを、ライブの帰り道に思った。以来、stand.fmで話すときに、かなえのままでいることが増えて、yorunokoeが表出する時間が相対的に減ったように思う。今後、再び人格が区別されたりしても、自分の感覚に沿ってい(きてい)くことになりそうである。

さらに私的なこと

未来の自分のためのメモ書きのようなもの。公開するには不親切かもしれない。今年の私の心が振れたこと。心を残してきたところ。ひと。もの。

◆行動
・初めての店でコーヒー豆を買うとよい
・定番のものと季節のものとに迷ったら「どっちも」をしてよい
・花を愛でる。最盛期も散りぎわも
・友人のギターを一緒に見に行く
・誰かと一緒にキッチンに立つ
・人が好きなことをしているときの姿を観察する

◆思考
・自分を物事の中心に置くのではなく、自然の中の一点に自分がいる
・自分の静寂を守る (independent, isolated, outsider)
・他人の静寂を侵さない
・知らない人と偶然のひとときを心地よく過ごすためのはからい・・・・
・Being Niceで
・特別な他人を大切に(関係のない関係のまま)

本と漫画

相変わらず漫画ばかり読んでいるが、本もいくつか読めた。私を支えたもの、あるいは心が刺されたものをいくつか。

『読みたいことを、書けばいい。』田中泰延
『地球にちりばめられて』多和田葉子
『100年後あなたもわたしもいない日に』土門蘭、寺田マユミ
『緑の歌 - 収集群風 -』高妍
『妖精のおきゃくさま』脇田茜
『言葉の獣』鯨庭
『エブリデイ』デイヴィッド・レヴィサン、三辺律子
『違国日記』ヤマシタトモコ

来年の漢字

11月、今年の漢字を考え始める前に、来年の漢字がふと降りてきた。
自然や人を大切にしたいという思いが、この字に辿り着いたのだと思う。

書き初め。筆ではなくドラムスティックの先端に墨をつけて

今年の漢字

今、前項を書きながら〈足〉という漢字が浮かんできた。今年はたくさん足を使った。自分の充足感の基準のようなものが見えたり増えたりした。シンプルだけれど、いいかもしれない。ずっと手ばかり気にかけてきたから、足のことも大事にしてやろう(もっと言うと腰や肩や首も)。

2022年は終わった

これを書き始めてから夜が3回訪れて、今は1月2日の24:29(1月3日の0:29)である(ぜんぜん大晦日に書き上がらなかった)。

メモ

2021年から2022年の自分へのメッセージはこうだった。

2022年の私へ。その調子で直感を信じていいよ。これまでけっこう駆け抜けて来たから、今度は歩いたり踊ったりスキップしたりしながら、周りを見る時間を増やしてみて。周りの人、景色、ものごとは、その時々の私が探していることへのヒントを持ってる。

2023年の私へ。定住先が決まったね。気持ちがくさくさしたときは、きっとあなたが部屋か自分の殻に閉じこも(りたくな)ってしまったときなので、ちょっと無理してでも湖まで足を伸ばしてください。徒歩40秒です。アトリエ探しはゆるやかに始めてみてもよいかもしれません。臨機応変な応対が必要になっていくけど、疲れを溜めず、寝てください。

以上。9,177文字。

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