記録(1/16 - 1/21)
今回は日付ごとに事象と心象を追っていきたいと思う。
1/16|NYへ
マンハッタン
暖房の効いたバスがマイナス3度のマンハッタンまで連れていった。道中、ハドソン川を越えるときはトンネルに2分45秒くらい潜っていた。川幅が2キロを超えるのだそうだ。時間を数えたのは私ではなく、iPhone 12 miniだ。川幅を検索したのは私だ。川幅を計測したのは・・・。ぼんやりと景色眺めているうちに、バスはポート・オーソリティというターミナルに到着した。
いつも混乱するので整理しておきたい。マンハッタンは、ニューヨークに位置する「区」のようだ。また、ここでいう「ニューヨーク」とは、州であり市でもある。つまり、千葉県千葉市の花見川区のように、ニューヨーク州ニューヨーク市のマンハッタン区が存在する(面積は花見川区の2.5倍だが)。
バスを降ろされ、ニューヨーク・タイムズ社の本社ビルを見て、ようやく「アメリカに来たんだな」という気分になった。
ブロードウェイ
私は今まで「ブロードウェイ」が何なのかよく分かっていなかったのだが、どうやら「ブロードウェイ・シアター」と呼ばれる41の劇場群があり、「ブロードウェイ」はその略称らしい。もともとは、ハドソン川沿いを20km以上走る通りの名前だ。ちょっと違うが、宝塚みたいなものだと解釈した(宝塚という地名があるが、一般に「宝塚」と言えば劇団を指すという点において)。
いくつかの劇場の前を過ぎるとき、客と思われる人たちの列ならぬ列に押し返されそうになりながらも歩を進めた。
タイムズスクエア
私は今まで「タイムズスクエア」が何なのかよく分かっていなかったのだが、どうやら繁華街の名称らしい。渋谷の109を想像してほしい(しなくてもいい)。109を25階建ての高層ビル「ワン・タイムズスクエア」に置き換え、正面にあるY字路や広告(ビルボード)を携えたビル群全体が「タイムズスクエア」である。
現地の人ではなさそうな人々が建物群にカメラを向けていて、私もその一人になってみた。今の世相でなければ、多くの観光客であふれていたと想像される。
我に返る
このときの私は、ニューヨークの地に足をつけて興奮していた。しかし、「歩いた」以外の点では、街のようすを画像や映像で見たのとさして変わらない。つまり、まだ外側しか知らない。建物に入ったり、意匠や文化や考えに触れたり、それを受けて自分で考えたり、人と喋ったり、そういうことを残りの9週間でしたいと思った。
1/17 - 1/19|部屋で
書いてよい悩んだが、一連の記録が自分のための文章だったことを思い出し、書くことにした。
その3日間は肺が小さくなったかのように呼吸が浅く、思考回路もどこかで断線していて、頭が重かった。ひとしきり寝ると目が冴えて、それでも頭は冴えず、漫画を読んだ。
1/18、シェードカーテンをおろす際にたまたま満月を見て、ふたつのことを思った。
ひとつは、日本の友人が「夕暮れに見た満月がきれいだった」と言っていたこと。その言葉が、8時間後の私に満月を届けてくれたような気分になった。ハドソン川に光の道を作った満月は、とても大きく明るく感ぜられた。
もうひとつは、午前中に読んでいた漫画『進撃の巨人』のこと。“太陽の光のもとでしか活動できないと思われていた〈巨人〉が、実は雲のない月明かりのもとでも動けるとわかった”というような描写があり、たしかに、こんなに明るいんだもんなと妙に納得してしまう。「電球がいらない、月明かりだけでこと足りる」と思ったのは、たぶん初めてのことだった。
1/20|部屋で
ひたすら描く
絵を描くためのシャーペンを久しぶりに持った。「シャーペンは英語で mechanical pencil だったな」のような雑念も、そのときはなかった。
集中していたというよりも、夢中になっていたのだろう。
今、「集中」が「思考の対象を意識的に狭めること」なら「夢中」は「思考の対象が無意識的に狭まること」になろうと思い至り、後者の自動詞感が好きだなと感じた。
炭素(黒鉛)の塊で絵を描くとき、4つの言葉が浮かぶ。それぞれを自分の中で以下のように解釈して使うことが多い(対象/文脈/分野によって意味が変わるが、ここでは割愛)。
鉛筆画がいつも上記のどれかに当てはまるというわけではないが、私は描きながら「瞬間を切り取りたい」と思っていたと思う。
ともあれ、「絵を描く」という、私にとってとても複雑なことができたのはよかった。またタイミングが来るのを待つ。
1/21|部屋で
ひたすら読む
田中泰延(たなか・ひろのぶ)著『読みたいことを、書けばいい』(タイヤモンド社、2016年)を読んだ。出だしに〈ゴリラ〉が登場したかと思えば、〈著者に届いた編集者からの長文メールの全文〉が執筆経緯と称して4ページに渡って載せられており、当初の想像とは裏腹に笑いながら読み進めることとなった。
本はとてもよかったのだが、ここではその内容ではなく、読みながら内省したことを残しておきたい。
本を読めないでいた理由に気づいた
ある時期から、活字だけの本を読むことが減った。当時は、その理由を以下のどれかまたは全部だろうと思っていた。
でも、そのどれもちがっていて、本当の理由は以下だった。
メッセージ送信ツールや、テキストコミュニケーションツールのおかげで、私の生活(というか脳みそ)は文字でいっぱいだった。
文章を読むのがとても遅いので、本のきりのいいところまで読んで一度閉じると、その間に押し寄せる文字群によって、本のなかで使われていた言葉のニュアンスが分からなくなってしまう。
この「分からなくなってしまう」ことを、これまでは「忘れてしまう」のだと思っていた。さらに、それのことを集中力や記憶力のような見えないもののせいにしていた。
しかし、実際には「忘れてしまう」のではなく、「混ざってしまう」のだった。自分が見たものを写真的に記憶するので、シャッターを切るたびに文字が溜まる。たとえば、納品した画像にヒツジの写真を追加するようになどという仕事の依頼も、小説で描写される図書館の男女が密やかに過ごす時間も、翌日の飲み会の誘いも、全部同じように溜まる。こうして「飲み会で男女がヒツジの鳴き真似をさせられるイメージ」が混成されるのだった。
このことに気がついたのは、『読みたいことを、書けばいい』を半分ほど読み進めたところだった。そこで、「今回は栞を挟まず、まるまる1冊読み切ってしまおう」という考えに至った。
ほんとうは
ほんとうは、上記以外にもう一つ理由を見つけたような気がした。
しかし、それについて書こうとしても最後までたどりつけない。自分の言いたいことと全く違う文章が完成してしまうので、今回は諦める。
備忘録として、キーワードだけ書いておきたい。
人
印象的なこと。
①引っ越し業者のおじさんと
引っ越し業者の人と、エントランスのすぐ外ですれ違ったときのこと。お互い寒くてたまらないはずなのに、丸めた背中を一瞬のばして目線とともに交わした言葉。
「すれ違うときに挨拶をする」というだけのことが嬉しかった。
②清掃のお兄さんと
あるとき、なんの通知もなく、住まい(マンション)の廊下一体に敷かれた絨毯の清掃が入った。部屋で仕事をしていると、たびたび陽気な鼻歌が聞こえ、掃除機のブヲォーンという音やクレンジング剤のようなにおいが耳や鼻をつき、ときどき耳や鼻“に”ついた。
ごみ捨てのために私が部屋を出ると、お兄さんとすれ違った。そのときのやりとり。
意表を突かれ、ぶっきらぼうな返事になったことを後悔しながらエレベータに乗った。
さらに、ごみ捨てから戻ってきたとき。
また、私が部屋に入ったあと。
一連の短いやりとりを振り返って、まずは、お兄さんの名前が「清」に思えてきた。次に、そのお兄さんはすれ違う人に何かしら声をかけているのだろうと想像された。しかも、イヤホンを外したり、会話を中断したりして、だった。
この地域で挨拶が習慣化されているのか、単に彼の性格なのか、これだけではわかりようがないが、されてとても気持ちよかった。言葉を交わす前は、「清掃の人」だったのが、「清掃のお兄さん(笑顔付き)」と身近に感じられるようになった。単純だけど、簡単じゃないと思った。
今週始めたこと
・・・ないかな?
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