見出し画像

生まれてきた理由

この前、自分の心を素直に見つめるということの重要さについて記事を書きました。(記事の後半部分)→https://note.com/kanadian/n/ne0cbcb948788

この記事には自分の心をどういうふうに見つめたらいいのか、なぜこれらのことが大事なのかなどといったことを書いたのですが、このことについてより多くの人を納得させられるであろう最強の記事を今回書こうと思います。

ただ、間違いなく最強記事なんですが人智を超えた内容すぎて、今回書くことが正しいかどうかは神のみぞ知る内容なのです。要はスピリチュアルな内容です。



それではどうぞ。




人が死ぬと、死後の世界へ行って、また生まれ変わって地上世界に戻ってくる。

これを証明することは不可能なので、これが真実なのかどうかはもはや議論のしようがない。

でも「人は生まれ変わる」と考えた方が1番僕は納得できる。


死後の世界、前世が存在することを信じる僕としてはやはり気になって仕方がない。


僕の前世はどんな人だろうか。



僕の予想は二つ。

一つは「たくさん人の心を傷つけた悪い人」

もう一つは、「人の気持ちが理解できる超優しい人」

二つの予想が真逆過ぎてどっちが前世なのか尚更分かりにくいんだが笑、



なぜそう予想するのか。
まず「たくさん人を傷つけた悪い人」だと思う理由は、

僕が優しいからです。



そもそも生まれ変わる理由はなんなのかというと、これは僕だけじゃなく全員共通で、

「魂の成長」が目的なんですね。


死後の世界は試練がないので楽なんですよ。金もいらない、病気もない、痛みもない、不安もない、嫌いな人がいない、時間の制約もない(時間という概念が無い)
もう幸せのピークなんですよ。

ただこの状況を悪く言うとしたら、もう成長が無いということなんです。

知性を鍛えようとしても、身体能力を高めようとしても、人格を高めようとしても、もう大して成長できないわけです。


更なる魂の成長を目的に、この地上世界へ生まれ直すんです。
こっちの世界に生きる方が人格を高めるには効率が良いわけです。
なぜならこの地上世界は試練で溢れてますからね。もう嫌なこと、苦しいことなんでも身に降りかかるとんでもない世界ですからね。ここは。

そして、自分の魂の状態をよく考えた上で、「この魂ならこの程度の試練まで耐えられる」ということを計算して人生設計があらかじめ行われた後、地上に生まれ変わると。

だからその人に耐えられる範囲内での試練が与えられるということです。(その人に乗り越えられない試練は起きない)


だって耐えられなくて自殺しちゃったら生まれ変わった人生がもったいないじゃないですか。


(じゃあなぜ自殺する人がいるのかというと、地上世界の人間の魂の成長が気に食わない低級霊が、ネガティブな低いエネルギーでいっぱいの人にイタズラできちゃうからです。自殺者は低級霊に殺されてるんです。)

話がそれましたが、その魂に必要な試練を経験して成長するために生まれるんです。

またの人生をどのような人間として生きるか。生まれる前から決まっているわけです。


ここで一つ。


地上世界へ降りてきて、どういう人間になるか、どういう性格の人間になるかを決めるのって何だと思いますか?


それは家庭環境、親ですよね。


どんな親の子として生まれるか。ここが重要なんです。

人は生まれ変わる時に、生まれてくる親を自分で選ぶ。


親選びをランダムにしたら人生設計図が崩れる可能性大ですから。


「こんな性格の人になるためにこの環境、この親の元に産まれよう。」

前世の魂はそう考えているのです。


僕の名前は「優輝」ですが、

もともとは「優」だった。

優しい人になってほしいという願いが込められている。

実際に親も優しい人だ。

画数の関係で「優輝」になったが、いずれにせよ「優」の念を強く受けた名前で僕は生きている。



優しい親はいくらでもいる。なぜその他の優しい親を選ばずに、うちの優しい親を選んだのか、

もっと言うと、優しい子に育ってほしいと願う親はいくらでもいる。だけど子の名前に「優」を付けるほどの親は非常に限られてる。

だからどうしてもこの親に生まれたかったと。相当優しい人として生まれたいという強い意志があったのではないか。

僕はどうしても生まれたくて生まれてきた人なのではないかと思う。そして、相当の想いで優しい人に生まれたかったのだと思う。

「優」の名をつける親の中にも多分、人並み程度の優しさをもつ親もいるだろう。でもうちの親は違うぞと。人並みではなく、めっちゃ優しい親やぞと。


きっと僕の前世は、過去に優しくないことで人を傷つけたこと(殺人、いじめ、騙し、何か分からないが。)への罪滅ぼしのために、次生まれ変わるときは絶対優しい人として人生を歩む必要があると思ったのか。
あるいは、前世からめっちゃ優しい人で、そのままの気質を受け継いだのか。さらなる優しさを求めて生まれてきたのか。


「来世は(も)ぜったいに、めっちゃ優しくなりたい。」


この意思を持つ理由を考えたらその二つかなと。


「もう一度生まれた方がいいよな」くらいのモチベーションで生まれた人もいると思う。なんならそういう人の方が多いのではないか。

だから魂の成長の過程には個人差がある。

人は大体何回生まれ変わるのかはわからないけど、人生2回目の人と50回目の人とでは魂レベルに差があるのは当たり前。

その差が人間性の格差として現世の人間同士に現れる。

だから他人との比較は意味がないのだろうし、人を見下してはいけないのだと思う。




大谷翔平とか人生100回目やねん。あんなん。
そう考えるのが1番辻褄が合うんですよ。



「何がなんでも生まれて大成長してやる」


そういう強い意思を持って生まれてきた魂は、より成長するために試練がたくさん訪れる人生を生きる。




苦労から逃げる人生はその試練に耐えなくてもいい魂だから別に悪いことじゃない。
人生の設計図に組み込まれてない試練だから避けて当然。
そこの試練に果敢に挑戦する人は元々自然に挑戦するもんだから。

だからこれを「逃げるな!」「泣くな!」「耐えろ」とか簡単に言う輩が多いが、そんなことを言う側が間違いであるケースがほとんど。

そんなこと言われんでも茨の道を行くという未来が事前に設計されてる魂の持ち主が行くだけ。




また話がそれてしまったが、僕が生まれた意義について。

僕は本物の優しさを手に入れるべくして生まれたということ。中途半端な優しさではなく、過剰な優しさでもなく。
強さを伴った優しさ。
それは何かというと、自分自身が身をもってたくさん傷ついて、傷つけて、強靭なメンタルを持つということ。

自我を通す時と他人に尽くす時の状況判断を正確にできるように、深く他人の感情の理解ができるように授かったこの感受性。

メンタルが弱いからこその優しさもあるが、それも立派な優しさだが、僕の場合は違う。メンタルが強いからこその優しさ。

優しい人であること、他人にその優しい愛情を注ぐこと。直接関わらない人にまで優しさが届くほどのパワーを手に入れろということ。

これが僕の本質であり生まれてきた使命。


みなさんも自分が生まれてきた意味、その使命を果たすための自分の気質を理解することに努める必要があると思います。



まとめると、親ガチャは存在しない。自分は生まれてくる親を選んでいる。そして他人との比較の中ではなく、自分個人にベクトルを向けた深淵なる自己理解によって、使命を理解するべき。試練をポジティブに捉えて定められた死まで、何がなんでも生き抜くということが人生なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?