見出し画像

波紋〜ただ、それだけだった。〜④

    

 僕が陽太の演奏を初めて聞いたのも、『さくら』だった。
 ある日、両端のお客さんと僕達以外の人が来店して来たんだ。
晴実はるみ! いらっしゃい」アルバイトの女子大生が、入店した人にそう声を掛けた。物腰の柔らかそうな雰囲気のその男性は、軽く片手を上げて彼女の言葉に返事をした。「今日はなんだか賑やかだね」「最近はずっとこんな感じだよ」
 そんなとりとめのない会話がされている時、男性の手に紙袋が握られていることに気付いた。A4サイズくらいの紙袋の中に、ピンクのバラと、白や赤の花で作られた小さなブーケが入ってた。
 アルバイトの女性は店主のおじいさんに呼ばれて店の奥に行った。男性を見ると、目が合った。彼は優しく笑って、紙袋を握っていない手の人差し指を口元に当てた。「彼女には内緒にしててね。おじいちゃんが花屋をやってて、たまに手伝いをしてるんだ。今日は綺麗なバラが入ってね。今ブーケ作りの練習させてもらってるんだけど、練習で作った物を、彼女にプレゼントしてるんだ」少し恥ずかしそうに、だけど明るい笑顔で、彼は言っていた。
最初は彼の片思いなのかと思ってたんだけど、二人は恋人同士だった。高校生の時に出逢って付き合い始めて、彼女は製菓学校へ、彼は泉音楽大学へ進学したらしい。時間が合う時は、コーヒーを飲む名目で、アルバイトの女性、花凛かりんさんに会いに来たり、バイト終わりにデートをするんだって、晴実さんは話してくれた。
 晴実さんと僕達が打ち解けるのに、時間はかからなかった。いつだって温かな微笑みを向ける彼は、桜の花のようにスッと心に溶け込んだ。
 彼は御影の中高を出て泉音大に入学したらしく、僕と陽太の先輩に当たる人だった。
 僕の隣か陽太の隣に座って、一緒に他愛も無い話をしているうちに自然と仲良くなったんだ。花凛さんも時々会話に混じって、僕達は店の中で一番賑やかにしていた。両端に座っているお客さん達は、そんな様子を気にせず、眼鏡の女性は黙々と紙束に目を通し、美形の男性はゆっくりとコーヒーを味わっていた。

 珍しく、いつもの両端のお客さんがいない、僕達三人だけの日があったんだ。来店した晴実さんは言った。「ねぇ花凛、ピアノ借りてもいい?」花凛さんは二つ返事で了承した。
 晴実さんは演奏の準備を整えると、椅子に座って、深呼吸をした。息を吐ききった時、彼を取り巻く空気が変わった。そっと鍵盤に指を置き、ゆっくりと体重を掛ける。
 優しい音色だった。彼の人柄を表すような、穏やかで、包み込むような温かさがあった。ダイヤモンドのように透き通っていて、ムーンストーンのように淡いピンクや緑や青色が混じっている……。そんな音だった。
 しなやかに動く腕と鍵盤を流れていく指、細身だけどしっかりとした背中。僕が音楽を〝綺麗〟だと思うきっかけになったのは、彼の演奏だったと、今でも思うよ。
 演奏が終わり、指が鍵盤を離れたところで、僕達は拍手を送った。「またその曲……」少し恥ずかしそうに笑いながら、花凛さんは拍手をしていた。その様子を見て、陽太は笑っていた。そして、花凛さんに言ったんだ。「俺も、一曲弾いてもいいですか?」花凛さんはすぐに了承して、陽太は演奏の準備を始めた。陽太はバイオリンを肩に置き、呼吸を整えた。次に息を吸った直後、弓が弦を撫でた。
 普段陽気で明るい彼とは、一切纏う空気が違っていた。
 僕は、この日の陽太の演奏を忘れられない。
 弓を持つ右手は優雅に動いているけれど、左手は対照的に忙しなく動いていた。
 アクアマリンみたいに爽やかで、サンストーンみたいな目映い輝きを持ったその音色は、繊細ながらも力強さがあった。
 陽太の髪の一本一本が繊細に揺れて、その柔らかさを想像してしまった。バイオリンを肩と頬で挟んでいる姿を見て、彼の顔の小ささを改めて認識した。肌の白さも、バイオリンの褐色と対照的で、より際立っていた。大きな目が軽く閉じられて、睫毛は差し込んでくる光で濡れたように光っていた。普通の人よりも整った顔立ちをしているとは思っていたけれど、彼自身が芸術品のように見えた。
 どこか色気さえ感じるその姿は、彼の奏でる音をより一層美しくしていたし、それに比例して、彼自身をも輝かせていた。
 この時だと思う。陽太を好きになったのは。
 ……さすがに、七美でも引くよね。こんな、急に、僕が陽太を、恋愛的に好きだ、なんて告白されても。七美の顔がこんなに引き攣ってるの、初めて見たよ。
 陽太の演奏が終わると、晴実さんが言ったんだ。「陽太君の演奏、素敵だね。ちょっと一曲合わせてみない?」そして、晴実さんと陽太の演奏が始まった。彼等が何を弾いていたのか、曲名はわからなかった。でも、どこかで聞いたことがある曲だった。
 初めて音楽を綺麗だと教えてくれた人と、初めて好きになった人の演奏。目の前で彼等の演奏を見られる僕は、最高の贅沢を味わった。

 その日を機に、『さくら』で時々晴実さんと陽太の演奏を聴くようになったんだ。
 晴実さんは、店に僕達しかいない時に演奏しているのかと思ったけど、両端のお客さんがいても演奏していた。二人ともそれが当たり前だとでも言うように過ごしていた。晴実さんの演奏は僕達だけのものじゃないとわかって、ちょっと残念な気分になったな。でも、一曲終わるごとに、奥の女性は紙束を置いて拍手を送っていたし、手前の男性も回数は少ないけれど、手を叩いていた。二人はいつも無表情だけど、コーヒーの香りが漂って、時々ピアノの音が鳴り響くこの店が気に入っていることは、一目瞭然だった。
僕も、間違いなくそのうちの一人だった。陽太が学校でバイオリンの練習をして帰る日でも、一人で『さくら』に行くほどに。
コーヒー特有の奥深い香りと、晴実さんの心地のいいピアノの音色を聞いていると、インスピレーションが刺激されたんだ。
だから家以外では、よく『さくら』で絵を描いていたんだ。アイディアが降ってきたらすぐさまスケッチブックを取り出して、鉛筆を走らせて、絵を描いていた。
 僕は、あそこで過ごす時間が大好きだった。絵を描くのも、完成した絵を陽太に見せるのも、陽太の演奏を聴くのも、陽太と話をするのも、全部全部、僕にとっては宝物だったんだ。
 今まで一人で、自分だけの世界を創って、外界とは一切関わろうとしなかった。ドアも窓も締め切って、カーテンも閉ざして人工的な明かりで自分だけを照らして生きてきた。
 けど、陽太と出逢って、僕の世界は変わった。
 彼に連れられて外に出てみたら、水に溶かした青が頭の上に広がっていて、眩しいくらい鮮やかな緑があって、白や黄色がひらひら舞っていて、それが心弾むピンクや赤やオレンジに留まっていく。そして見上げれば、一際輝く太陽が、そこにあった。
 僕が知った世界は、まだほんの一部だと思う。きっと世界は、もっともっと広くて果てしないと思う。
 それでも僕は、その太陽に、手を伸ばしたかった。ずっとそこにあってほしいと願った。それだけは、失いたくなかった。だって、太陽が、陽太が居なかったら、僕の世界はずっと狭くて暗いままだったから。
 僕は美しい世界を教えてくれた陽太と、出来れば、特別な関係になりたかった。晴実さんと花凛さんみたいに、手を繋いで帰りたかった。
 だけど、それが叶わないことくらい、とっくにわかってた。
 だって、僕達は男同士だから。
 そんなの無理だって、理解していた。だからせめて陽太と、少しでも長く一緒に居たかった。
 その年のクリスマスにね、二人でイルミネーションを見に行ったんだ。男二人でイルミネーションを見に行くなんて、気持ち悪いって思うかもしれないけど。翌年は進学試験でクリスマスには遊べないだろうから、って陽太が誘ってくれたんだ。
 シャンパンゴールドの灯りが参道を彩る中、僕達は歩いた。周りはカップルばかりで、男子中学生が二人なんていう光景は、明らかに浮いてた。陽太はそれを気にせず、眩い光を楽しそうに眺めていた。睫毛と瞳をイルミネーションと同じ色に濡らしながら、彼は僕の名前を呼んだ。何? って聞くと、やっぱり何でもない、なんて言って。その姿が何だか面白くて、つい笑っちゃったのを覚えてる。
 僕はね、これで充分だと思っていたんだ。絵が描けて、部屋以外の居場所が出来て、綺麗な音楽が聞けて、大好きな陽太が居る。そんな時間があるだけで、よかった。

   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?