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波紋〜ただ、それだけだった。〜③

    

 二年生に進級して、クラス替えが行われることだけが希望だった。僕をいじめの標的にしている奴等とクラスが離れたら、普通に学校生活を送れると思っていたから。
 だけど、そんな希望も登校して数秒で、脆くも崩れ去った。昇降口の掲示板に貼り出されたクラス表を見ると、奴等の名前が僕と同じクラスの枠内に書かれていた。
 教室に行くと、ドアを開けた前方にある窓に寄りかかるようにして、奴等は立っていた。獲物を見つけた蛇のような目で捉えられて、その場から動けなくなった。これから一年間、またあの日々を繰り返さないといけないのかって思うだけで、胃がキリキリと痛んだ。
「ドアの前で立ち止まるなよ」後ろからそう声を掛けられて、僕の肩は跳び跳ねた。「そんなに驚かなくていいだろ。……あれ? 君、もしかして、一色陸くん? ほら、去年の春のコンクールで賞を取った絵、図書室に飾られてたよね? あれ描いたのって、君だよね?」って、一気に言われた。
 御影では、賞状や受賞作は、数カ月図書室に飾られることになっていて、僕の例の絵も、一時期飾られていたんだ。
 初対面の人に話し掛けられて困惑している僕を気にせず、彼は続けた。「俺、あの絵、すっごく好きなんだ! どこか光に満ちていて、優しい温もりに包まれるような……希望を感じたんだ!」
 それは、僕がテーマにして描いたものだった。皆、「春」をイメージして描いたものだと思ってたみたいだけと、僕がテーマにしたものは、「希望」だった。そんな、謝らないでよ。作品を持ち帰った時、七美も確かに「春」みたいだ、って言ったけど、僕、別に怒ってないよ。
 それよりも、僕は嬉しかったんだ。絵を褒められたことは勿論だけど、会ったことも話したことも無い人に、作品に込めたものを言い当てられたのが。
 だけど、手離しで喜べる訳でもなかった。だって、そう言ってきた彼は、僕とは明らかに住む世界が違ってた。
 モデルをしていると言われても納得するくらいに顔が小さくて、背もそれなりに高くて。目鼻立ちがはっきりしていて、アイドルみたいな甘い顔立ちをしていて……。
 どうしてこんな人が地味な僕に声を掛けたのか、理解出来なかった。
 僕の絵が好きだって言うけど、本心なのかは確かめようがないし。もしかしたら、僕をいじめている奴等が、僕をからかうように仕向けたのかもしれない。そう思うと、この喜びを外に出してもいいものなのか、躊躇われた。
結局、その場は適当に彼の話をかわしたんだ。とにかく、この一年間を平和に過ごせれば、それでよかった。
 だけど彼は、休み時間になる度に僕のところまで来たんだ。他の絵も見てみたいとか、僕の絵のどこが好きとか、そんな話をずっとされた。
 それから彼についてもいくつか話を聞くようになったんだ。
 たまに鞄の他に楽器ケースを持って登校していたから、何かを演奏するんだとは想像してたけど、バイオリンを弾くらしいんだ。部活動には所属していないみたいだけど、たまに練習室を借りてるって言ってた。彼はいずみ音学大学に行きたくて御影に来たんだって。御影は泉をはじめとした音大の合格者を多数輩出してたし、泉の指定校推薦もあったからね。
 話す内容はどれもとりとめもないものばかりだったんだけど、今まで誰かとあんな風に会話をした経験が無かったから、僕にとってはその些細な時間がとても新鮮だった。
 彼は女子にかなりモテていたけど、人懐っこくて明るい性格は、男子からも人気だった。
 見た目だけじゃなくて、性格まで正反対の彼がなぜ僕に構うのか、全くわからなかった。
 一方で、彼に声を掛けてもらえるのを嬉しく思っている自分もいた。日向にいる彼に話し掛けてもらえるのが嬉しかったのか、絵を褒めてもらえるのが嬉しかったのか、よくわからない。彼と行動を共にするようになってから、暴力を振るわれることも無くなった。物を隠されたりするのは続いていたから、いじめが完全になくなったわけじゃなかったけど、痛い思いをするよりはマシだった。
 だからかな。彼と話しているうちに、僕をおとしめるために演技をしているわけじゃ無い、って信じたくなったんだ。
「なぁ陸、俺、陸の他の絵も見てみたいな。図書室の絵みたいに、どこかに展示されたりしてないのか? 何かの雑誌に投稿してたりとか」そんなことをずっと聞かれていたけれど、残念ながら僕の絵は、もうどこにも展示なんてされてなかったし、雑誌に投稿もしていなかった。ブログだってやっていなかったから、インターネット上でも勿論見られなかった。
 実物でしか見せられない僕の絵を、彼に、陽太ようたに見せてもいいかと思い始めたのは、期末テストと夏休みを意識し始める頃だった。
 見せる相手は陽太だけだったとしても、学校で僕の絵を見せる勇気なんてなかった。もし僕が絵を持って来ていると知られたら、奴等は絶対それを破り捨てるに決まってる。B5サイズのスケッチブックを鞄の奥に隠して、放課後まで過ごした。今日の帰りに絵を見せる、そう言うと、陽太は目を輝かせていた。陽太はずっと落ち着きのない様子で過ごしていて、その姿が微笑ましかった。
 放課後、絵を見せるために『さくら』っていう喫茶店まで足を運んだ。
アンティーク調の内装と食器で統一された、カウンターの六席しかない、小さな喫茶店なんだ。店内ではクラシックが小さい音量で流れてて、カウンターの反対側の壁際にはピアノが置かれていて、大人な雰囲気があった。
 コーヒーが美味しく飲めるような歳では無かったけど、学校から少し離れてるし、同級生は絶対に立ち寄らない店だったから、その店を選んだんだ。
「凄い! これ、全部鉛筆で描いたのか?」「自然が好きなのか? スケッチはほとんど植物だな」「今気付いたけど、このスケッチブックのカラーイラストは全部色鉛筆だな。図書室のは絵の具で塗ってなかったか?」「陸の使う色合い、やっぱり俺大好きだな」ってはしゃいだ様子で陽太は口々に言った。
 一番奥の席には厚い紙の束を見ている眼鏡を掛けた女性が、入り口に一番近い席には陽太以上に顔の整った男性がいた。店の雰囲気に溶け込んでいる大人が二人いる中、盛り上がるのは迷惑だとわかっていたし恥ずかしくもあった。
 だけど、陽太が目を輝かせながらそう言ってくれるのが、嬉しかった。彼の弾けるような笑顔に、僕は思わずはにかんだ。
 それから僕達は、絵を見せる時や、二人でゆっくり会話をしたい時は、『さくら』に行くようになったんだ。いつも一番奥の席にいる眼鏡の女性と、入ってすぐの席にいる美形の男性と、一席ずつ空けて真ん中の席に、僕達は座っていた。
 まだあどけなさを残した男子中学生が二人で並んで座るのは、端から見たらとても違和感があったと思う。でも、それをヒソヒソ話す客はいなかったし、『さくら』でアルバイトをしていた女子大生だって、異物を見るような目を決して向けてこなかった。「いらっしゃい。今日も来てくれたんだ」って言って、いつも歓迎してくれた。
 両端に座るお客さんは、この店のイチオシメニューのコーヒーをいつも注文していた。でも、中学二年生の僕達に、コーヒーを飲もうって味覚は、残念ながらまだ持ち合わせていなかった。さすがに、オレンジジュースやコーラなんかは置いてなくて、僕達が飲めるものはココアしかなかった。だから、夏にはアイスココアを、冬にはホットココアを頼んでいたんだ。
「陸! やっぱり陸は凄いよ! 天才だよ!」陽太は、僕の絵を見ていつもそう言っていた。目をキラキラと輝かせて、スケッチブックを捲っては、感嘆の声を上げた。
 そうやって、『さくら』で談笑したり、僕の絵を見せたりして過ごす時間が、大好きだったんだ。夏休みに入っても、僕達は予定が合えば一緒に映画を観たり美術館に行ったり、『さくら』で過ごしていた。二学期になっても、それは変わらなかった。

   

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