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波紋〜ただ、それだけだった。〜⑮

   
 二週間後、彼への悪意は、次第に露骨に目に見える形となった。避けられていた時の方が、まだマシだと思えるほどに、その行為は残酷だった。
おはようと挨拶をしながら彼にぶつかり、鞄を背中に当てる。どこで買って来たのか、男性同士の恋愛を描いたR18指定の漫画を彼の机に詰め込んでその反応を窺がい、机から出すために手に取ろうものなら、
お前ホモだもんな。一色もだろ。気持ちわりぃな。
 などと声を掛け、彼が漫画を手に持っている場面を携帯で写真に撮り、プリクラのように落書きされた――しかしその内容は酷く悪質なものがクラスに一斉送信された。陽気な声が飛び交っているのに、その行動は異常だった。
 皆、この状況をたのしみ始めていた。日々の小さな鬱憤を晴らすように、常に誰かに取り囲まれていた華やかな彼が底辺に落ちたのを嘲笑するように、陽太を攻撃していた。
 このクラスで起きていることを外部に知られないために、暴行は最小限にとどめ、彼の精神を確実に刺していった。
 善と悪の境界線は簡単に分かって、でもふとした拍子に簡単に跳び超えられる。加害者にはいつだってなれる。それは、私も身を持って理解した。
 悪質さが増したクラスの行為は、陽太の首を真綿で締めるように追い詰めていった。
 顔から血の気は失せ、遅刻や授業の欠席が増えていった。
 それでも、彼は登校し続けた。毎日毎日。絶対に。

 同じファミレスで陽太と向かい合って座る。こうして向かい合うようになって、最初は私が彼から目を逸らしていたのに、今は彼が私から目を逸らしている。
 尊厳を傷つけられた人が辿る道を、私は知っているはずなのに、いざそういう人を見ると、不思議な気持ちになった。そこまで怯えなくていいのに、と。その感情が、安全圏に居る者の優越と配慮の無さなのだろうと、この立場になって気が付いた。
 席について、時間だけが随分と過ぎた。私から沈黙を破らないと、この場は何も進展しないだろう。
「陽太、ごめんなさい」
 以前よりもすんなりと出た言葉。私は、口だけの謝罪をした。
「……何で、怜奈が謝るの」
 それには答えなかった。
「怜那は、何も気にしないでよ」
 俯いたまま言って、彼は言葉を続けた。
「でも――」
 そこで言葉が区切られた。続きは待っても出てこない。
「何?」
「……やっぱり、何でもない」
 そう言って、一度も手をつけられていなかったミルクティーを口にした。そして、小さく顔を歪めた。彼のミルクティーは、きっともう冷めてしまっている。温め直すなんてできないそれは、もう捨ててしまうしかない。
「学校、休んだら?」
 彼がここまでして学校に来る理由はないはずだ。
 こんな中、無理して通わなくてもいい。
 通信制やフリースクールという選択だってある。傷付いてまで今の高校に通い続ける必要、どこにもない。
 頭が痛いでも、気持ち悪いでも、何でもいいから嘘を吐いて休めばいいのに。嘘は、時として自分自身を守る。嘘を吐かないと、守れないものだってある。
「駄目だよ。それは」
「……ノートのコピーなら届けるし、テストだって保健室で受けさせてもらえるじゃない」
 二年生に進級できるだけの単位はギリギリ取れるはずだ。
「そうじゃないんだ」
 磨りガラスになっていない窓の上部。外で、ギリギリ枝に付いていた枯れ葉が飛ばされた。剥き出しの枝が、冬がすぐそこまで近付いていることを如実に表している。
「これは、贖罪なんだよ」
 光なんて見えないその瞳の奥に、微かに希望のような灯りがあった。
「……何よ、それ。何のための贖罪なの」
 馬鹿げている。彼が、いったい誰に何をしたというのだろう。
 逃げる術を知らないのではなく、行使しない彼は、もうとっくに壊れていたのかもしれない。
「昔のことだよ」
 力無く上げられた口角。泣いているようにも見えた。
「そんなの、意味あるの?」
「自己満足だと思う」
 やけにはっきりした口調だった。
 妙に、イライラした。
「自己満足でこんなのに耐えるなんて、どうかしてる」
「こんなのって?」
 そんなの、今クラスで彼を取り巻いている悪意全てだ。
「ホモって言われていじめられてること?」
 あえてそこだけを抜き出し言葉にされると、何も言えなくなってしまう。
アレを書いた人ヽヽヽヽヽヽヽは凄いよ。よくわかってる。もう、の中にはどうやったって戻してもらえない」
「……馬鹿、関心するところじゃないでしょ」
「ただ、さ――」
 一度言葉が区切られる。彼はしっかりと私を見て、
何が目的ヽヽヽヽで書かれたのか、それがわからない」
 私を咎める言葉ではないのに、まっすぐなその目を前に、私は動けなかった。

   

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