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波紋〜ただ、それだけだった。〜⑭

     
 陽太の周りには誰もいなくなった。
 特に男子は必要以上に距離を取っていた。警戒するように、彼の半径一メートル以内には近付こうとしなかった。
 授業中は自席につかないといけないけれど、それすら抵抗するように、陽太の前後左右の席の人達は皆、彼とは反対方向に机をずらしていた。プリントを前列から後列の人へ回していく際も、彼の後ろに座っていた女子は、彼から回って来たプリントの端を摘まむように持ち、彼が触れていた箇所を手で払い、その部分を触った自らの手も払っていた。
 陽太が弁解する機会も無く、そういう行動が、徐々に蔓延していった。
 男子はふざけ合っている最中にふと身体が彼に当たろうものならば、飛び跳ねるようにしてその場を離れた。何かと理由をつけて彼の側へ近付いていた女子達も、彼に背を向け、遠巻きからヒソヒソと話をするようになった。
 彼を避けるのが当たり前になっていき、彼がいる空間は、誰もいないかのように空白となった。
 ぽつんと自席についている彼のもとに、私は行けなかった。「被害者」と認識された私が彼のもとへ行けば、事態は好転したかもしれないのに。
 その代わりに、人目をはばかるようにして、放課後にファミレスでこっそり会った。
 ドリンクバーとポテトを注文する高校生の男女は、店員から見たら、長居を兼ねた放課後デートにでも見えるのだろうか。水の入ったグラスを机に置く音は妙に大きく響いた。ハンディに打ち込んだメニューを復唱するやいなや、バタンとわざとらしく音を立てて閉じ、「ドリンクバーはあちらになります」とどこを指しているのかもわからない手を下ろし、早々に立ち去った。
「陽太はアイスココア?」
「俺も行くよ」
「私行くから、荷物見てて」
 教室で一言も話していないのが嘘のような会話だった。彼の返事を待たずに、席を立つ。
 一瞬でも彼の前からいなくなってしまいたかった。彼の視界に入るのが耐えられなかった。一、二分だとしても、彼の視線から逃れたかった。
 アイスココアを彼の前に置き、ウーロン茶を自分の前に置く。彼の「ありがとう」を聞きながら、ストローを包装していた薄い紙を千切り、ストローをコップに差し込んで飲む。焦げたような味が広がった。
 ドリンクを飲むのを言い訳に、二人して目を合わせず、ポテトを待っているようだった。数分後に「こちらフライドポテトになります」と言いながら真ん中に置かれた音は、やけに大きく聞こえた。油の匂いが鼻を刺激する。ドロドロドロドロと。まるで私みたいだ。
「……ごめんなさい」
 なおも私は卑怯だった。
 何に対して謝罪しているのかもわからない言葉を、彼に言った。
「教室ではこのまま俺に近付かない方がいいよ。怜奈まで変な目で見られちゃうから。それに、こういうのは大抵、ターゲットは一人って決まってる。庇うような態度を取ったら、怜奈が辛い思いをするよ」
 その言葉でゆっくりと顔を上げた。微笑をたたえるその表情は、痛々しかった。
「噂がなくなったら、また前みたいに話そうよ」
「……無くなる、のかな」
 そんな言葉を言う自分を、改めて酷く醜いと感じた。
 誤魔化そうとしてウーロン茶を飲む。喉に何かが詰まっているようで、二口飲み込むのが限界だった。
 陽太は、私の言葉になかなか返事をしない。
 彼もわかっているのだろうか。
 こういう状況になった時、真実や事実なんて、何の力も持たない。
〝正しい〟のは、〝多数派〟なのだから。
 それを、私はよく知っている。
「怜奈は、何も心配しないで」
 その言葉に、私は何も言えずにいた。
「ほら、ポテト、冷めちゃうよ」
 皿に伸びる手だけが視界に映る。なんともない、綺麗な右手。この手で弓を持ち、バイオリンを奏でていた。御影中に通うほど、音楽に命を燃やそうとしていた。
 そこまで考えて、ふと思った。
 陽太と陸は、なぜ、御影の高等部に進学しなかったのだろう。
 音楽も絵も、御影に行かないとできないわけではないが、環境を考えたら絶対高等部に進学していた方がよかった。
「ねぇ、陽太って何で――」
 そこまで言って、再び口を閉ざした。
 音楽に命を燃やそうとしていたのに、普通の公立高校に通っているんだ。
 相応の理由があるに違いない。
 私が無遠慮に立ち入っていい過去だとは、思えない。
「何?」
「ううん。やっぱり、何でもない」
 陽太は、夢破れてここへ来ているかもしれないのに、それを暴くなんて、私にできるわけがない。
 彼に倣って皿に盛られたポテトを摘まみ、口へ運ぶ。思っていたよりもしょっぱい。それでも陽太は平気そうに食べていた。

 あの日ヽヽヽから、体内に石でも詰め込まれたようにずっと重苦しかった。
 このまま真っ逆さまに落ちてしまいそうだった。深く暗い穴の底に。
 童話に出てくる悪い狼が、こうやって死ぬ物語があった気がする。私はこの先どうなるのだろう。悪い狼のような結末を迎えるのだろうか。それならこんなに相応しい結末はない。私には、ピッタリの役だ。
 夏休みが終わって三カ月目に入った。
 黒のセーターだけでは肌寒いと感じるようになり、紺のブレザーを羽織って登下校するようになっても、七美は学校に来なかった。
『陽太がいるなら嫌だ』
 陽太と距離を置いていると伝えても、彼女の意志は頑なだった。メールでただ一文だけ送られてきて、それがよくわかった。
 陽太の左手の包帯は無事に外され、両手を使った生活に戻っていた。心なしか、表情が幾分か柔らかくなった気がする。
 でも、それがよくなかった。
 帰る場所を失くした捨て犬のように、俯いて椅子に座っている彼を見て満足していた人達は、それが面白くなかった。
 彼の赤ペンが無くなったのが始まりだった。数学の授業中に気付いたらしい彼は、ペンケースの中をガチャガチャと探し、続いて机の中、鞄の中と探していたが、やがて諦めたように再びノートにペンを走らせていた。
 何かのタイミングで失くしたのだろう、と彼は言っていた。その日は、担当教員の都合による科目変更で、教室を移動して行う授業が四つもあった。その時に落としてしまったのかもしれない、と彼はなるべく気に留めないように言っていた。
 その、たった一本から始まり、マーカー、消しゴムと、ペンケースの中身が次々と紛失していった。物を失くすにしては、頻繁過ぎる。自分の不注意ではないと確信してからは、彼の顔色は悪くなっていった。
「また、何か失くなったの?」
 ファミレスの奥の席に向かい合って座った陽太に訊ねた。窓も隣の席を遮るガラスも磨りガラスで、向こう側の景色は見えない。昼下がりの午後というには遅く、夕暮れ時にはまだ早い時間帯。客層はまばらで、店内も落ち着いていた。そんな中であっても、自然と声のトーンが落ちてしまうのは、私達の間を、妙に重たい空気が漂っていたから。
「まぁ、でも、大した物じゃないし、買えば済むよ」
 それでも、私を心配させないためなのか、彼の声色は明るかった。明るい声とは対照的なぎこちない笑顔が、彼の精神状態を物語っていた。
 私の視線から逃げるように、彼はココアが入ったマグカップに口を付ける。
「甘いな」
「ココアだから」
「アイスは氷でいい具合に調和されてたのかな」
 その呟きを聞きながら、私はウーロン茶を飲んだ。
「同じ物でも、一回『凄く美味しい』って思う物を食べると、今まで普通に食べてた物があんまり美味しくなくなっちゃうってこと、ない?」
 以前食べたポテトを思い出す。あれは、少し塩気が多かった。
「これまで食べていた物が『普通』に美味しく感じる物だったらそうでもないのかもしれないけど、『それ以下』だったって気付いた時はさ、もう前の生活には戻れなくならない?」
「……そうかもしれない」
 彼は再びカップに口を付けようとしていた手を止めて、そのままココアを見つめるようにして、やがて机の上に置いた。
「満足している瞬間は幸福だけど、知ってしまうのって、時に残酷だよな」
「……」
「もう、知る前には戻れないんだよ」
「……ココアの話、よね……?」
 陽太と目が合った。
「これより美味しいココアを、飲んだことがあるんだ」
 大人っぽい笑顔だった。
「所詮、私達が飲んでるのはドリンクバーだもの」
 私の飲むウーロン茶は、どうせ市販のものだ。そんなに味の違いはない。
「安くて手軽で、好きだったのに」
 ドリンクバーのココアというよりも、ドリンクバーの味に満足していた自分自身を懐かしむような目だった。

   

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