玉砕パティシエ小豆田⑯(最終話)
présent
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
目の前に、自分の両手が合わさっている。
その向こう側に、墓がある。
この瞬間。
この、目を開けて、自分の両手の向こうにある墓が視界に入った瞬間。
これが、今では、最も現実を思い知る瞬間になっている。
都はもう、この世にいないという現実を。
まさか、出産で、ずっと会えるのを楽しみにしていた子供と、これからも変わらず毎日顔を合わせるはずだった都も、二人共存なくなってしまうなんて。
ダイヤのネックレスが墓石に変わるなんて、想像もしていなかった、否、できなかった。
二人暮らし用のマンションの家賃を払えるほどセレブじゃないから、早々に引っ越すことになったし、その際にある程度彼女の遺品も整理した。けれど、彼女が毎日のように触っていた画材だけは、未だに手元に遺っている。
あっという間に都が亡くなった時の年齢も追い越してしまった。二年の差はこんなにも容易く超えられるのかと落胆したし、それからさらに四年も経っている。
なのに何年経とうと、あんなに食べたがっていた僕のお菓子は、もう、食べてもらえない。
二人を失っても、何もかも嘘みたいで、仕事を休む気にもなれなかった。
もしかしたら閉店間際に店に駆け込む都にまた会える気もして、彼女と出逢った三月の、閉店三十分前には売り場に顔も出していた。フレジェも一つだけ残して。
「おい小豆田! そんな状態で仕事を続けるな! ましてや売り場に出ようとするな!」
柏森くんの制止をずっと聞いて、ずっと無視していた。
そんな日々は、柏森くんに強制終了させられた。一週間も続かなかった。
いつものように売り場に出て、ガミガミと怒る彼を宥めようと振り向いたら、彼の拳が思いっきり頬に直撃した。
「すまん! 顔を殴るつもりはなかったんだ!」
僕のことを殴るつもりではあったのかと、頭の片隅で思いながら、ジンジンと痛む頬を押さえた。
殴られるのは、これが人生で、最初で最後だと思う。一生忘れない。
「柏森くん、殴るなんて酷い……」
「酷いのはどっちだ」
嫌そうに顔を歪めている。
彼がそんな表情をする理由が思い当たらない。
むしろ、殴られた僕がしたいくらいだ。というか多分、していた。
彼は一度溜め息を吐いて、ただ一言だけ言った。
「鏡見て来い」
そんなに酷く頬が腫れたのだろうか。
でも確かに、痛みは続き、熱は溜まっていく一方だ。
バックヤードに行き、鏡を覗いた。
死人みたいな顔をして、笑顔とも何ともつかない表情の、自分がいた。
殴られた左頬は真っ赤になっている。そこだけ血が通っているように。
他は白いを通り越して青白い。唇の色も悪い。目元は黒い。そして、瞳に生気が無い。
本当に、酷い顔だった。
こんなの、きっと、都は望んでいない。
誰かを幸せにするには、まず僕が幸せになれと言っていた人なのだから――。
「都、僕は今、不幸ではないよ」
返事は決して返って来ない。返って来なくても、これだけはいつも伝えている。
幸福と不幸は交互にやってくるとか、人生全体で見たら同じ数だけやってくるとか。
僕はそうは思わない。
不幸は長期的で、幸福は瞬間的なものだと思うから。
それは僕が、都が言うようにネガティブだからかもしれないし、良くないことが記憶に残りやすい性質なのかもしれない。
こんなことを言ったら、「お前が?」と冗談だと受け取られるだろうけど。人間誰しも、暗い部分くらいあるだろう。柏森くんなら信じてくれるかもしれない。信じてほしいわけでもないけれど、今はそれで充分だ。一人だけでも、そういう部分を知っていてくれるだけで。
だから不幸ではない、というのもあるし、都と子供を亡くした以上の辛いことは起きていないから、というのもある。
『新たな幸福が訪れますように』
呪文のように唱える言葉は、長期的な不幸に見舞われていたとしても、一瞬だけでも、その辛さを忘れてもらえたらという願いがある。
ジュエリーは特別な日だけでなく、日常使いしてもいい。何も無い普通の日常だからこそ、自分で特別な色合いに染めてしまえばいい。そう思いながらお菓子を作っている。
そうやって願いや想いを込めたお菓子は、誰かの特別に成れているだろうか。
『FUKUSHI』ができた時よりも、娯楽で溢れている世の中だ。
きっと、その場限りで消費されている。
それでも、ほんの一瞬でもその人の日常を彩れたら。長い間記憶に残って、人生の一部を彩れたのなら。きっと、僕のお菓子は、特別に成れた。
一番に僕のお菓子で幸せにしたい人は、もうこの世に存ないけれど。
けれど、その相手と辿ったお菓子の幸せな思い出は、僕の中にしっかり刻まれている。
刻まれた思い出と共に蘇るのは、その時の幸福な気持ちだ。
気持ちのない想いを告げても、拒否されるとそれなりに傷付く。
傷が増えた分だけ、僕は都以外の人を愛せないのだと自覚する。
自覚するたびに、僕の都への想いも僕自身も、生きていると実感できる。
その実感から自身の鼓動を意識して、もう動かない二つ心臓も、僕の心臓を介して、指輪が代わりに鼓動する。
その動きで、二人も、僕と一緒に生きていると感じられる。
……溜め息が漏れた。
柏森くんの言う通り、不治の病だ。
三月……都と出逢い、都と、まだ名前も決まっていない子供が亡くなった月。
今でも、幽霊でもいいから、彼女が来た時には一番に出迎えられるようにしているし、フレジェも用意している。
同じ月に、都のように、今にも泣き出しそうな顔をして現れた、甘樂燈架。
彼女は僕のケーキを見て、都みたいなことを言った。
その時、馬鹿みたいだけれど、都の生まれ変わりが現れたのかと思ったし、生まれ変わった都が、また会いに来てくれたのかとも思った。
そんな大馬鹿な話、あるわけがないのに。
彼女には、申し訳ないことをした。
元々勤めていた会社の方が給料も良かっただろうし、福利厚生だって充実していただろうに。
彼女が『FUKUSHI』を選択したことは間違っていないと主張したいがために、一昨日は肩を抱くなんていうセクハラまでしてしまった。
いや、僕が彼女を『FUKUSHI』に来るように誘ったことを否定されたくなかっただけかもしれない。
それだけの理由で、肩まで抱く必要は無かった。
ここ数日の、どこか自信無く俯いている姿が、都と重なってしまったんだ。
君の、小さくても、当たり前でも、目の前のことに誠実であろうとする姿は、ちゃんと見えてる。それを伝えたかっただけなのに。
本当に、申し訳ないことをした。明日、全てきちんと謝ろう。
「都もごめんね。浮気でも不倫でもないよ」
もう一度手を合わせて、目をギュッと瞑り、念じた。
人間いつか平等に死ぬけれど、僕が先じゃなくてよかった。
毎日大切に使っていた仕事道具、生み出した作品。都は、幸福以外にもたくさん遺してくれた。上手く使いこなせなくても、僕の家の中にはいつだって虹があるし、世の中に放たれた作品の原画があるし、非売品の落書きだってある。
僕じゃ、何も遺せなかった。
本当に、一瞬なんだ。僕のお菓子が、人を笑顔にできるのは。
僕が再婚しないことを、都は喜んでいるとか悲しんでいるとかは、考えても仕方が無い。どちらにしても、いくらでも、どうとでも想像できてしまうから。
確かなことは。
僕は、今でも幸せな瞬間は、ある。
それだけだ。
「じゃあ、行こうか」
心臓に手を当てる。
三つの指輪と心臓の鼓動が重なる。
「明日は『FUKUSHI』に会える日だよ」
欠けた半分は、僕が覚えている二人との思い出があれば、ダイヤモンドよりも光輝く。
もう半分は、僕が生きている限り、新しい幸福が詰まっていく。
僕だって、都だけでできているわけではないのだから。
そうやって満たされた幸福で、これからも、一瞬だけでも。
僕のお菓子で誰かを幸せにしていきたい。
玉砕パティシエ小豆田 了
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