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緑玉で君を想い眠る④

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 私はかつて、「お金持ちのお嬢様」に分類される属柄の人間だった。

 父は、城之しろの化粧品を一から立ち上げた。城之洗顔をはじめとした城之シリースと呼ばれる基礎化粧品は、十代から五十代まで幅広く愛される大ヒット商品となり、瞬く間に成功を収めた。

 おかげで私は、生まれた時から何不自由なく暮らさせてもらっていたし、贅沢もさせてもらっていた。

 日本経済に多大な影響を与えている桜錦さくらにしき家と、その縁戚えんせき関係にある人間が代々通っている、幼稚舎から大学までの一貫校、さくらみや学園に、初等部から通う、という贅沢を。

 未就学児の頃は自由にさせたいからと、親の方針で、初等部で入学試験を受けた。だから小学生になる前は、たくさん遊ばせてもらったし、周りの大人からもたくさん可愛がってもらった。特に父の兄――輝一郎きいちろうさんは、私を我が子のように面倒見てくれた。

 桜ノ宮学園は広い敷地を活かした、図工で使う落ち葉やどんぐり拾い、合同の体育といった、野外学習や特別授業で、他のクラスや学年との交流が自然と多くなる。だから一学年上の霧島守と知り合い、親しくなる機会は、いつでもあった。

 私は普通の生徒だったと思う。しかし、幼稚舎からの人間関係がそのまま初等部まで持ち上がったような環境では、少しばかり浮いていた。そんな私を気にかけてくれたのが、守だった。

 野外学習で、班の中で一人別のことに気を取られてはぐれそうになる私を、彼だけはいつも見逃さずにいた。「皆行っちゃうよ。何をしているんだい?」そう言って隣まで来て、二言三言私の話を聞く。そして「さ、もう行こう。次に来た時、また一緒に見に来ればいいだろう」そう言って私の手を引いて、歩き出す。

 会話の最中、特に大きく表情が変化することはなかったけれど、隣まで来てくれて、私が笑えば緩やかに口の端を上げて、冷たくあしらっているようで「次も一緒に」の約束をしてくれたし、実現してくれた。
 当時小学生ということもあったけれど、彼は男子の中でも小柄で、体格も私とあまり変わらなかった。はっきりとした二重、長い睫毛、ふわふわの白い肌、深い深い夜空を映したような、深藍ふかあいの瞳。

 今では私は平均より少し低いくらいの身長になるまで成長できたけれど、当時は背が低かった。身長順で並ぶと必ず前方に位置する。髪が肩甲骨くらいまであったその時のマイブームの髪型が、ハーフツインだった。背が低かった所為か、同級生の男子からはよく髪ゴムを取られてからかわれていた。驚きと悲しみで泣けば、「ブサイク」「泣き虫」と言われることを学んでからは、絶対に何をされたり言われたりしても、人前で泣かないと決めた。そもそも何をされてもやり返せないし言い返せないことが、からかわれる原因だったのかもしれないけれど。一人で泣いた後、駄目もとで保健室に行ったら、先生が結び直してくれた。高学年になってからは、泣いた後に自分で結び直していた。

 そんなこともあってか、異性に少し苦手意識があった。
 けれど守とは、同学年の同性の友達のような感覚で接することができた。
 面倒見のいい、頼りになる、綺麗で可愛い自慢の友達だった。
 そんな彼が、歳上で、異性だということを意識し始めたのは、彼が中等部に上がってから。

 制服は他の男子に比べても一層ぶかぶかだし、背もまだ伸びていない。それでも、黒のシャツに白のブレザーを着て、深緑色のネクタイを締めている少し大人になった彼を見て、ようやく「面倒見のいい、頼りになる、綺麗で可愛い先輩男子」ということに気付いた。

 そんな彼と付き合うようになったのは、私が中等部に上がってから。私から告白した。

 守のことが、ずっと好きだった。僕もだよ。
 文字にしてしまえば、こんなあっさりとした簡潔な告白だった。

 告白よりも、その後の方が長かった。嬉しさのあまり涙が出て、私はしばらくその場から動けなかった。

 彼は何も言わずにそっと私を抱き締めた。中等部になってからも、彼は相変わらず私よりも少しだけ背が高いくらいで、腕だって力強さは感じられない。それでも、彼の手は、決して私を離したりはしなかった。泣き止むまでずっと、頭を、背中を、あやすように優しく撫でてくれた。

 その温もりが心地良くて、幸せで、しばらく涙が止まらなかった。

 そう、幸せだった。事件が起きるまでは。



 三月の初めの休日、私と守は校外へ出掛けていた。

 桜ノ宮学園は、中等部と高等部は全寮制となっている。理由は聞かされたことはない。だから生徒の間で様々な憶測が飛び交っている。学業に集中するため、一期一会で巡り合えた仲間達との絆を深めるため、大人になるまでに自分で時間の管理をできるようにするため。ごく少数だが、中にはこう考える人もいたようだ。財力も頭脳も同等の格を持ち合わせた者とだけ交流して、多感な時期に外界からの悪影響を受けないようにするため、と……。

 それでも、外出届さえ出せば、放課後でも休日でも外出はできた。だから私達は、軟禁されていたわけではない。届を出すのを面倒臭がってほとんどを敷地内で過ごす人もいたけれど、休日はクラシックコンサート、観劇、家の都合等で外出する人は普通にいた。外出の際は必ず私服に着替えるのが暗黙のルールとなっている。桜ノ宮生だとわかる姿でいると、身代金目的の事件に遭う可能性があるからだ。

 その日、私と守は鎌倉に行った。
 街を散策して、その後に父の別荘を訪れる予定だった。

 父は一躍時の人となったけれど、豪奢なものよりも、レトロでどこか素朴さがあるものを好んだ。一八八九年に裕福層が鎌倉に洋風建築の別荘を建てたように、父は自分へのご褒美として、鎌倉に洋風の別荘を建てていた。

 大きく立派だけど、華美ではない閑静な建物。表は広大な芝生と建物に続く舗装された一本道だけが続くシンプルな外観で、裏には五メートルほどの池と季節の花が咲く庭がある。庭の奥には森があって、木々の隙間を通って降り注ぐ光は、エメラルド色に染まる。

 初等部の頃は実家で暮らしていたから、長期休みの間だけでなく土日でも家族三人、別荘で過ごす日があった。けれど私が中等部に上がってからは、行く機会がほとんでなくなってしまった。家具には白い大きな布を被せて、埃を被らないようにしているとも聞いた。前まで頻繁に人が出入りしていたのに、空き家になってしまったようだと、近隣に住む地元住民も話していたそうだ。

 そこへ、守と一緒に行きたかった。家族で過ごした大好きな場所に、守とも一緒に行きたかっただけだ。春休みになる前に一足先に別荘に行って、室内を掃除して、春休みになったら私と、そして守の家族と一緒に過ごせたらいいと考えていた。輝一郎さんだって泊まったことがあるから、来客用の部屋があることは知っていた。守は「二人だけで行くなんて、大丈夫なの?」と困惑したように言っていた。「鍵は私ももらったし、先に掃除を済ませた方が、話が早そうだから」という私に、また困ったような顔をしながらも、「掃除は手伝うよ」と言ってくれたのだった。

 彼の了承を得られた瞬間から、当日の恰好をどうするか、何度も考えていた。気温が低かった時の羽織りや、雨だった時のボトムスと靴。様々なパターンの服装を考えた。けれど、髪型だけはハーフアップにしようと決めていた。初等部の頃は、一番可愛いと思っていたハーフツインを守に見て欲しくて、髪ゴムを取られても結び直していた。この時にはは少しでも大人っぽくしたくて、オシャレをする時はハーフアップにするようになっていた。

 鎌倉に着いた私達は、まず周辺を散策した。桜、抹茶、季節の果物を使った餡を付けた、カラフルな串団子。スティックに刺さったシラスの卵焼き。桜は咲いていなくても華やかな佇まいの鶴岡八幡宮。桜ノ宮の生徒にしては素朴かもしれないが、隣に守が居れば、季節の花を見つけられなくても、充分華やかな時間だった。

 しかしその最中に、私は誘拐された。
 お手洗いに行って守と離れていた時の出来事だった。

 女子トイレを出たところで気を失った私が次に目覚めた時には、目の前は真っ暗だった。体が思うように動かなくて、自分が今どういう状況にあるのかを飲み込むのに、少々時間がかかった。

 目元に何か巻かれている。口の中に何か詰められて、さらにその上から何かで口元も覆われている。首を捻るとガサという音が聞こえて、頭には紙袋のような物が被せられているのだと思った。手は前側で手首同士を合わせるように縛られていて、腕が胴体と一緒に縛られているようで、思うように手が上がらない。足も同じようにして足首で拘束されているらしい。そして、何か柔らかい物の上に寝かされているようだった。

 ここはいったいどこなのか。揺れている感覚はないから、どこかの建物だろうか。視界は勿論、頭から顔までを覆っている何かによって、周りの音も匂いもよくわからず、不安が一層強くなった。

 こういう状況に陥って、どういう目に遭わされるのか。

 男性なら真っ先に死が思い浮かぶか。それとも拷問だろうか。

 女性の場合、嫌でもそれ以外のことが頭を過る。それは死と等しい恐怖だ。

 早くここから逃げなければ。

 しかし下手に動いて大丈夫なのだろうか。犯人は何人いるのか。逃げられたとしてどこへ逃げたらいいのか。守は私がいなくなったことに気付いてくれただろうか。私はこれからどうなってしまうのだろうか……。

 様々なことが頭を過り、次第に身体が震え始める。縄を解こうと藻掻く腕に、上手く力が入らなくなっていく。

 その時、ギシッと軋む音がした。咄嗟に眠っているフリをした。足音が近付いてくる。私が寝ている近くに別の人物の体重がかかって、体が傾いた。それと同時に、横たわっていた体の上半身が床と垂直になるように抱えられた。そのまま、抱き締めるように、相手と正面から体が密着する。守よりもずっと太い腕が、肩を、背中を通って、痛いくらい強く纏わりつく。ようやく離れたと思ったら、再び体を横に倒される。

 自分はこのまま、最悪の事態に陥るのだろう。

 そう思っていたのに、そのまま足音が遠ざかって行った。

 今のは、何が起きたのだろう。まだ眠っているのか確かめていたのだろうか。それとも、ただ体に触れたかっただけ? いずれにせよ、気持ち悪くて、全身に悪寒が走った。

 早く、ここから逃げなければ。まだ何もされないなら、今のうちに脱出しないと。

 先ほどよりも強くそう感じた。両手をじりながら強く外側へ引く。幸いにも、最初から少し余裕を持って縛られていたようで、手首の隙間がどんどん広がっていき、手首が輪の間を抜けて、両手が解放される。腕の拘束を解くように身をよじって、頭を覆っていた物を取り、目元を覆っていた物も取る。頭は紙袋で覆われて、目には真っ白な布、手と腕は細い紐で縛られていたようだ。口に巻かれていた物も外す。口にはガーゼが詰め込まれ、目元を覆っていた布と同じ布が上から巻かれていたようだ。足も手と同じ紐で隙間があるまま縛られていた。結び目は、ちょうちょ結びだ。

 おかしい。誘拐して拘束しているにしては、雑だ。
 犯人は、こういった犯罪に慣れていない、ド素人なのだろうか。

 意識を取り戻してからさほど時間は経っていないけれど、不可解なことの連続だった。
 しかし、それらについて深く考えている余裕は無い。一刻も早く、ここから出なければ。

 腕と足の紐を解いて、出口を探した。そしてふと、奇妙な感覚に陥った。
 見覚えがあったのだ。自分が今いる場所に。

 鎌倉の、父の別荘だ。

 白い布で所々何か大きな物を覆っているが、間取りからして今いるのは、二階の客間だ。客間のベッドに寝かされていたらしい。

 なぜ、自分はここに連れて来られているのだろう。
 今度こそ、思考が停止した。

 その時、奥の部屋から物音がして、我に返った。靴は脱がされていた。でも、探す時間なんて無い。ベッドから飛び降り、床を蹴る。扉を開いて、階段へ向かった。足音が聞こえたからか、奥の部屋から走って来る音が聞こえた。追いかけて来る。ドンドンと大きな音を立てて、こちらへ向かっている。振り返っては駄目だ。恐怖心と焦燥感をなんとか床を蹴るエネルギーに変えられている間は、ひたすらに足を動かして前へ進め。それだけを、脳から全身に向かって命令した。

 階段まで辿り着いた。そのままの勢いで駆け下りようとした。大きな窓から、光が差し込んでいる。キラリと光って、思わずそちらへ視線を向けた。まっすぐ前を見ていたのに、少しだけ、左方向に視線が移動した。窓に反射している、人影が見えた。犯人だ。すぐそこまで追い付いて来ている。早く、早く逃げなければ――。

 気持ちに対して体が追い付かなかったのか。
 単に余所見をしてしまったからなのか。
 原因はどちらなのかはわからない。

 けれどその時足を踏み外して、ここまで逃げてきた勢いのまま、私は階下まで転落した。全身よりも、左目に強い痛みを感じながら、そのまま意識を失った。



「叶羽……!」

 次に目を覚ましたら、守が泣きそうな顔で私を見ていた。

「救急車来たから……! もう大丈夫だから……! あと少し頑張って……!」

 ぼんやりと、体の感覚も戻ってくる。柔らかい物に接している感覚は無く、固い物の上に寝そべっているようだ。天井は、別荘の一階のもの。転落して、その状態から意識が戻ったらしい。右手は守が握り締めているようだ。関節がはっきりとわかる、細くて繊細で、それでも確かな温かさを持つ彼の手の感触がある。左目が、ドクドクとしてきた。何かと思って、触れてみる。ぬるりとした。何が付いたのだろう。手を離して見てみると、べったりと赤い液体が付着していた。階段から転落したのだから、頭でも打ったのだろう。

 そう思っていると、たくさんの足音が聞こえてきた。守が私の名前を呼び、頑張って、大丈夫、と私を励ます声と救急隊員の声が混じる。どいてください、と言われながら肩を掴まれた彼は、後ろへよろめき、その両手は私の右手から離れた。代わりに救急隊員の大丈夫ですか、という声が聞こえてくるが、再び意識が遠退いていった。



 私は左目を失った。
 転落した際に家財に打ち付けたらしい。
 損傷は酷く、完全に視力を失った。

 幸いと言うべきなのか、お金はあったから、義眼を入れて、見た目だけはこれまでとそこまで変わらなかった。

 私は誘拐されて、使われなくなった鎌倉の別荘に連れ去られた。人の出入りが無いと知った犯人が建物内に侵入し、暴行目的で私を連れ込んだという線で捜査された。

 守が言うには、私が戻って来なくて、スマホにメッセージを送っても既読が付かず、電話を掛けても出なかったため、周辺を探し回っていたらしい。そこへ私からのメッセージが来たそうだ。ここへ来てという短い文と、住所だけのメッセージが。そして、左目から血を流した私を見つけて、救急へ連絡したそうだ。

 メッセージは確かに私のスマホにも残っていた。しかし、送信した記憶はない。犯人が気を失った私の指で指紋認証のロックを解除して、守にメッセージを送ったのだろう。

 別荘の場所を知っている両親、輝一郎さん、その他両親の友人知人が犯人ではないかと疑われたが、住所など、位置情報で調べれば簡単にわかる。
 送信先も、現在進行形で私を探しているらしい人物からの未読のメッセージが、アプリ起動時に最上位に表示されていたら、その相手に送るのが発見は確実だと踏むのは当然だ。

 そのため、別荘の場所を知っている人や、私と守の関係性を知る人が、そのまま犯人になり得るわけではなかった。

 私は、犯人は恐らく男性、ということしかわかららず、捜査の手掛かりになるような証言はできなかった。目撃証言もなく、捜査は難航し、時効を迎えた。

 犯人が捕まらなかったのはやるせないが、それ以上に心を痛めた出来事がある。

 この事件が誰の責任で起きたのかという、大人達の争いだ。彼の両親、祖父母、私の両親、そして輝一郎さんまでもが、なりふり構わず声を荒げた。

 彼氏なのに娘を守ってくれなかった。成金娘のふしだらな考えが息子を巻き込んだ。いなくなったとわかってすぐに通報してくれていたらよかったんだ。小石の分際で息子の将来に泥を塗る気か。姪はお前達の息子の所為で左目を失った。

 本人達の目の前で、口論は繰り広げられた。

 輝一郎さんが言った「犯人はお前達の息子なんじゃないのか」という発言に、父が激しく賛同し、一時は守が疑われるハメにもなった。それが原因で、名誉棄損で訴えられそうにもなった。

 彼の家は、代々有名な弁護士一族だ。彼の父の治彦はるひこさんは、エスポワール法律事務所の所長を務めていて、母親の翔子しょうこさんはエスポワールのエースだ。

 裁判沙汰になったらこちらが不利だというのは、頭に血が昇っていても冷静に判断できたようで、守犯人説はすぐに争いの場からは消えた。

 慰謝料を払えという話だったのか、謝罪をしろという話だったのか、それとも単に責任を押し付けたかっただけなのか、よく覚えていない。

 覚えてはいないけど、家族以外に大切で、大好きで、一緒に居たいと想う人が、口汚く侮辱されていることだけはわかった。

 それは私の名誉を守るためでもあって、同じように口汚く侮辱されている私を、必死に庇おうとしているからだともわかっていた。

 わかっていたけど、被害に遭ったのは私で、大好きな人が疑われて、そんな私達の感情をなにもかも無視して、これ以上勝手に話を進めてほしくなかった。

 だけど、子を想う親の気持ちはまだ理解できなかったし、子を想ってくれる親以上に、彼を想っているかと問われたら、首肯できない。

 できないから、口を挟めなかった。ただ、唇を噛み締めて拳を握ることしか、できなかった。

 その中で、彼は大人達に気付かれないよう、体の後ろに隠すようにして、そっと私の右手を握ってくれた。

 骨張っていて薄い、けれども私よりは大きな手。指先に優しく触れた後、手全体を包み込むようにして、握られた。少しずつ力が込められる。決して痛くはない。あるのは、温かさだけ。その温度に触れ返すように、私も彼の指先に触れて、少しずつ、力を込めた。

   

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