緑玉で君を想い眠る⑥
二話:暗い森に迷い込む
1
彼女は、いつも一人だった。
その姿が、孤独なウサギのように見えた。
梅雨の時期だった。
連日の雨でグラウンドが使えず、体育館を二年女子の先輩達と半分ずつ使っていた期間がある。一年の女子と二年の男子の先輩は、第二体育館を使うことになっていた。運動部の上下関係でもう一つのコートに気を遣わなくてもいいように、という教師側の配慮だった。
その女子の先輩は、体育の授業中、他の生徒がバスケやバレーをしているのに、制服のまま壁際に座って、毎回ノートにペンを走らせていた。授業終わりにそのノートを体育教師に提出して、号令だけ他の生徒と一緒にしていた。
どこか体が悪いのだろうか。
その人のことを、クラスの男子にも話してみたことがある。「あぁ、なんか先輩が体育の授業に出れないクラスメイトがいるとか言ってた気ィする」「特待生で、めちゃくちゃ頭がいいとか」「シロなんとかさん。いや、なんとかシロさんだっけ?」「結構綺麗だよな」「俺はもうちょっとぽっちゃりしてるコの方が好きだわー」「お前が言いたいのは胸がデカい方がいい、だろ」「で、その先輩がどうかしたわけ?」「ああいう人がタイプなのか?」
「聞いたボクが馬鹿でしたー」
彼女のことが何かわからないかと思って話してみたのだけれど、収穫はなかったし、彼女に卑猥な目が向けられたことに苛立った。
同級生でも敬語で話すからという、ただそれだけの理由で変な奴扱いされるのも、納得がいかない。
中学生の時、怪我で部活を辞めて、マネージャーとして部に残っていた同級生がいた。その人は激しい運動はできないらしいが、体育の授業程度の運動なら問題無いらしく、普通に授業に参加していた。
心臓とか呼吸器官とか、そういう所が悪かったら、日常生活に支障はなくても、体育の授業は出られないかもしれない。
あの先輩は、きっと、そういうことなのだろう。
そう思っていたのに、卓球やマラソンは出席していた。卓球は素人がやったところで激しくならないから、まだわかる。しかし、マラソンは参加できるとなれば、話が見えてこない。他の人の半分以下の距離を走っていたならまだわかるが、皆と同じ、体育館の半分のコート十周を完走していた。
意味が分からなかった。
だからその日の授業では、いつも以上に、真ん中よりも向こう側にいるウサギ先輩を凝視していた。バスケのゲームのローテーションで自分のチームの番が来ても気付かないくらいに。
「おーい早くしろー。全チーム回せないだろー」
体育教師に呼ばれて、ようやくボクは我に返った。
「すみませーん」
そう言って立ち上がり、ぽてぽてと走りながらコートに向かった。その間も思考はウサギ先輩でいっぱいだったのに、彼女はボクなんて存在知りもしないで、無心で走り続けていた。
ボクばかりが彼女を気にしている現状を思い知って、少しだけ悔しくなった。だから、いつも指先しか出していない袖口を肘まで捲って、ゲームに臨んだ。
授業終わり、皆がバラバラと教室に戻って行き、それは次第に二年女子の先輩達と混じる。その瞬間を狙って、ボクは彼女に声を掛けた。
「すみませーん、せんぱーい」
そう言って彼女の左肩を突くと、彼女は振り返って、そのまま向き合う形で、足まで止めた。
「……何ですか?」
彼女の顔を見て、一瞬小さな違和感が生まれた。
初めて会った気がしなかったのだ。
「あの、どうかしましたか?」
彼女の声にハッとして、ようやく会話を始めた。
「あ、ボク一年なんで、敬語要らないですよ。森城先輩って言うんですね」
明条高校は、体育は指定のジャージに着替えることになっている。黒のジッパー付きの長袖ジャージの左の胸元に刺繍してある、彼女の苗字を読み上げた。
「貴女は……カエルダくん?」
「これ、カエダって読むんですよ。蛙の田んぼって書いて、蛙田。下の名前は、田んぼの上が付きだした『由』に高貴の『貴』って書くんです。何て読むと思いますか?」
「ユキって書いて、ヨシタカとかヨシキって読むんじゃないの?」
「残念です。ユキなんです」
「……で、蛙田くん、私に何か?」
森城先輩は、近くで見ると、随分と印象が違った。
白い肌に、小さな鼻と小さな口。くせ毛なのか、毛先にゆるりとウェーブのかかったショートカットは、ふわりと顎の辺りで収まっている。そこから少し大きめの耳が覗いている。ショートカットでよく目立つ大きな丸い目は、はっきりとボクと見つめている。
体育の授業を見学している時があるくらいだから、ちょっと病弱そうな人だと思っていたのに。
生命力に満ち溢れているわけではないけど、かといってすぐに倒れるようにも見えない。
華奢だけど、儚くはない。
小動物のようだけど、繊細でもない。
「センパイ、何で今まで体育休んでたんですか?」
「左目が見え――」
「蛙田ー! お前今まで本気出してなかったのかよー!」
森城先輩の声が、同級生の声に搔き消された。「今まで手ェ抜き過ぎだろ」「真面目にやれよー」と笑いながら肩を叩かれる。それに対して眉を顰めて抗議の目を向けて、「空気読んでくださいよ」とぼやいた。それでようやく彼等も森城先輩に気付いたようだ。「スンマセン、コイツ変な奴ですけど、少し付き合ってやってください」「変かもしれないですけど、見た通り、顔は綺麗なんで」と森城先輩に言って、嵐のように去って行った。その背に溜め息を吐いて仕切り直す。
「すみません、もう一回言ってもらってもいいですか?」
「左目が見えないから」
どういう冗談なのだろう。
今こうして話している間も、彼女はボクを見ているではないか。
「これ、義眼なの」
ボクの思考を見透かしたような口調だった。
「ねぇ、着替えもあるし、歩きながらでもいい?」
そう言って彼女は、進行方向に向き直ろうとする。
「できれば右側に立って」
ボクが右側に来たのを確認してから、彼女は歩き始めた。
「……言われるまで、義眼って気付きませんでした」
「その人の瞳の大きさとか色とかに合わせて作る物だから、気付く人の方が少ないよ。ズレることも滅多に無いし、義眼を入れることで丸みが戻るから、瞬きもできるし、涙道は損傷してないから涙も出るし」
思ったことをすぐに口に出してしまう癖を反省し、同時に若干の気まずさを感じていたボクに気付いているのか、彼女は大したことではないというように、簡単に説明してくれた。
「親に、危ないからって、団体競技とか体育祭は止められてるの。接触して怪我する可能性は否定できないし」
体育祭も駄目なのか。それは、孤独感が募らないのだろうか。
「やっぱり、危ないんですか?」
「やったことないから、わからないかな」
「片目が見えないって、どんな感じなんですか?」
あ、これは聞いちゃ駄目なやつだったかもしれない。
そう思ったけれど、全て口から出てしまっている。
「片目、閉じてみて」
嫌な顔一つせず、彼女は言った。言われるままに、左目を閉じてみた。
「そんな感じの世界」
彼女の姿が、少しだけ黒く陰る。
左側だけ映像が消えてしまったように、黒い靄に隠れている。
靄を消そうとして、左側に顔を向けると、半分以上が隠れてしまった。
「逆かな。顔が内側にズレるとその分目が外に向いて内側が死角になって見えなくなるから、中央を見るように内側に視線を向けると、死角が少し消える」
言われた通りに、顔を右側に向けて、左を見るように視線をずらす。
先ほどの靄が、晴れていくようだった。
「おぉ! なるほどー。でもこれだと、今の立ち位置、見づらくないんですか?」
「でもそうすると、片目で無理矢理視野を広げてるから、疲れちゃうんだよね」
確かに、目を端に動かしたまま保つ、というのは、普段使わない筋肉を使うようだ。
疲れてきて、閉じていた左目を開ける。
左右で光を捉える量が食い違い、眩しさを感じると共に、少しだけ平衡感覚を失った。
何もない場所で、つまずく。
それを見て、先輩は小さく笑った。
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
カッコ悪い。
最悪だ。
別にカッコつけてたわけじゃないけど。
今日の体育だって、思わず本気でやってしまった。一回本気でやると、次も同じようにやらないと、ちゃんとやっていないと判断されてしまう。
いつもいつも本気でやるなんて、非効率的だし、疲れるだけなのに。
ほどよく手を抜いて、そこそこでやって、毎日を同じ調子で平均より少し上でいるのが、持続性だってあるし、一番楽だ。
ケロちゃんだとかケロリンだとか言われてきた難読苗字と、女の子みたいだねと悪気無く言われてきた名前で、少しでもボクのことが頭に残ればいいと思っていただけなのに。
安易に話しかけて、ボクの心はバランスを崩して、そのまま転んでしまったのかもしれない。
彼女に向かって。
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