玉砕パティシエ小豆田⑬
七.エクレールは君だから
六月が終わると同時に、モンブランが店頭から消えた。
秋の栗が美味しい季節に、また販売を再開するらしい。
しかし、その消失はついこの間まで足繁く通っていた志村様が、完全にこの店を立ち去ってしまったかのようで、私は何とも言えない虚しさを感じていた。
それと同時に、忘れていた痛みを思い出す。
志村様にとっての特別は森下様で、奥様にとっての特別も森下様だった。なら森下様にとっての特別は……?
私が考えても仕方ないことなのに。なぜか胸の奥底で引っかかって、なかなか外れない。
七月に入って新たに店頭に並んだのは、エクレアだ。
夏に向けて初夏から並んでいたヴェリーヌのグラスデザートと比べたら、華がない。夏のイメージも特に湧かない。中にはカスタードクリーム、上にはチョコレートがかかったエクレアは、夏に食べるには爽やかさに欠けるのではないだろうか。正直、意外だった。
例の如く新商品試食をさせてもらったが、構成に真新しさはない。普通のシュー生地、カスタード、チョコ。私の知っているエクレアだ。
一つ違うことは、これまで食べた物よりも美味しい、ということだろうか。
エクレアはこんなに美味しいお菓子だったのかと思ったのは事実だ。
香ばしいサクッとした食感の生地に、滑らかで甘さ控えめのカスタードクリーム。そこにほんのりチョコレートの香りが加わる。冷えたカスタードクリームにプラスされるチョコレートの風味が、暑くても嫌味なく楽しめて、甘党にはたまらない。
その味に、感動さえした。
「シンプルだからこそ、誤魔化しが効かないし、味がダイレクトに伝わってくる。職人の腕の見せ所だよね」
それを伝えると、小豆田さんは得意げにそう語ったのだ。
「正直ちょっと意外ではありました。先に販売してたヴェリーヌよりかは華が無いし、見た目も普通で……。ちょっと、地味というか……」
話していて、ふと、こうも思った。
自分みたいだ、と。
これといった特技は無い。接客スキルが高いわけでもない。知識も豊富ではない。
新人だから、これから学べばいいところもあるが、私はどう足掻いても、わらびさんのような販売員にはなれない。
感じの良さや嫌悪感を与えずに相手と距離を詰める方法、それらは練習したらある程度誰にでも可能かもしれない。しかし、その人が持ち合わせている、独自の空気感が大きく関係している面が大きい。
人は見た目ではない、というのは理想論で、見た目や雰囲気がイメージに繋がっていることは否定できない。
前職でも感じていたが……。
『果たして私は、この集団において、どれだけ必要な存在なのだろう』
自分が唯一無二の存在ではないことは、大学生になったくらいから自覚した。
高校生くらいまでは、いつかは自分も、仕事や私生活において、誰かにとっての『特別』になれると思っていた。
しかし大学生になって上京してみると、自分なんて、その他大勢の中の一人であることを、嫌でも自覚させられた。
社会人になると、自分はもっと平凡なのだと思い知った。
自分の替わりは、いくらでも存る。
慣れれば誰もができる仕事で、それは同時に、自分自身の価値の低さを示している。
わらびさんがここ辞めたら、皆困るだろう。彼女ほどの接客ができる人はいないだろうし、そんな彼女を他の店にとられるだなんて。損失だ。
しかし……私が辞めても大きなダメージは受けない。
「燈架ちゃん、馬鹿にしてる?」
自己嫌悪と軽い鬱感に浸っているところに、小豆田さんに言われて、ハッとした。
「何をですか?」
「エクレアだよ。エクレアの話してたでしょ?」
「エクレアは馬鹿にしてないです」
「でも今、地味って言ってたじゃん」
「それは……他のお菓子に華やかな物が多いからで……。エクレアは期間限定商品ですよね? なのに、通年商品のシュークリームやプリンみたいに、インパクトがないと感じただけで……」
「エクレアは平凡に見えるけど、充分特別なお菓子だと、僕は思うよ」
「ビュッシュ・ド・ノエるみたいに、お祝い事で食べたりするんですか?」
「いいや、祭事では食わん」
柏森さんが即答した。わらびさんはもう理由を知っているのか、美味しそうにエクレアを食べている。
「じゃあこれは、燈架ちゃんの宿題にしよう」
「ええぇっ、そんなっ!」
「たまにはいいだろう?」
意地悪をするわけではなく、いつもお菓子のこと教えてくれる時と同じように、楽しそうに微笑んだ。
ここで働くことになってから、お菓子について学ぶために図書館でいくつか本を借りたというわらびさんに倣って、私も図書館に行って、本を借りてみた。
エクレアは、「電光石火」という意味があるらしい。見た目からは、「雷」や「稲妻」から連想されたお菓子だとは、言われてもよくわからない。
生地が焼けた時の裂け目が稲妻のようだから、生地の上のフォンダンが稲妻のように光るから、中のクリームがはみ出さないうちに素早く食べないといけないから、といった意味で名付けられたらしい。
フレーズシャンティやモンブラン、フォレノワールもだが、当たり前に口に出すお菓子の名前の意味や由来を知るのは面白い。お菓子の成り立ちを知っていると、食べる際、そのお菓子との距離が少し縮まった気もする。より身近に、美味しさを感じられる。
しかし、エクレアのどこが「特別」なのかは、よくわからなかった。
製造方法が特別なのかと思ってレシピも検索してみた。が、シュークリームとほとんど変わりがないように思えた。
これのどこが、「特別」なのだろう。
「わらびさんは、どうしてエクレアが特別なのか、ご存知なんですか?」
「存じております」
今日も彼女はふんわりと微笑みながら答えた。
「燈架さんよりも早くここで働き始めまたので、昨年から販売しているものはわかります」
「わらびさん、今でもわからないことあるんですか?」
「作り方や細かい材料なんかは、まだ覚えていません。あとカロリーなんかも」
「もう十分に知識豊富だと思いますけど……」
「わたしの理想は、販売しているお菓子に関して、パティシエに聞かずに全てをお客様に説明できるようになることなんです」
常日頃から感じてはいたが、彼女は仕事に対する意欲がかなり高い。
「わらびさん、このお仕事が好きなんですね」
「仕事が好きというか、わたしは金銭的に自立していたいだけですよ。そのためには、どんなお仕事でもしっかりやります」
ふわぁっとした微笑みは、理想や夢を語っているようにも聞こえる。しかし、普段の仕事ぶりや小豆田さんを注意したりしているところから感じてはいたが、彼女はしっかりしているし、責任感も相当強い。そして、現実的だ。
「燈架さん、なぜエクレアが特別なのかわからなくて、苦戦していますか?」
「その通りです」
「じゃあ、わたしからヒントを出しましょう」
そうですねぇ、とどこか楽しそうに考え始めた。
「これはあくまで、小豆田さんがエクレアは特別なお菓子だと思っている、というだけなので……。小豆田さんが言いそうな単語を使ってヒントを出すならば、『ハレの日だけが特別とは限らない』でしょうか」
「つまり、ケの日、日常も特別、ということでしょうか」
「その調子です」
わらびさんは両手の拳をグッと握って、小首を傾げる。この仕草が許されるのは、私の知る限り、彼女だけだ。
日常が特別。いや、日常「も」特別?
いつの日か、お祝い事と日常のお菓子について話した気がする。
あれは、まだ四月末頃の、岸田様にフォレノワールを渡した時だ。
お菓子と言っても和菓子の話だったけれども。確か、お祝い事でも日頃食べるものも和菓子だった、そんな話だ。
エクレアは祭事では食べない、と柏森さんは言っていた。
ならば、「エクレアは日常で食べるお菓子」と決まっている……?
いや、そんなことは調べても出てこなかった。ビュッシュ・ド・ノエル、ガレット・デ・ロワなど、特定の時期に食べるお菓子はあっても、日常と限定されているお菓子は、聞いたことがない。
わらびさんは、「小豆田さんがエクレアは特別なお菓子だと思っている」と言っていた。
つまり、彼の思考をなぞらなければ、答えにはきっと、辿り着かない。
帰宅して再度借りた本を読んでみる。この中に、私が無意識のうちに関係無いと思って、削ぎ落とした情報があるかもしれない。ふと、こんな一文が目に留まった。
『フランスでは絶大な人気を誇る国民的お菓子』
日本では、エクレアよりもシュークリームの方がポピュラーな商品だ。思わず、「へー」と声も出た。
国民に人気だから、特別。
なんとなく、これが鍵になる気がした。いや、これが答えな気がした。
地味でも、構成がシンプルでも、多くの人から愛される。否、だからこそ誰からでも愛される。だから、特別。
「せいかーい!」
翌日小豆田さんにそれを伝えると、彼は嬉しそうに笑った。
しかし今は、その笑顔を見ても、今はとても笑う気にはなれなかった。
「どうしたの? 浮かない顔して。体調悪い?」
「いえ、大丈夫です」
『多くの人から愛される、特別なもの』
地味でもシンプルでも、誰かから愛されていたら、特別になれる。
なら、その『特別』には、どうやったらなれたのだろう。
どうやったら、『愛される』存在になれたのだろう。
「小豆田さんは、なぜエクレアがフランスで国民的お菓子になれたのだと思いますか?」
「なかなか難しい質問だね。でも、どうして?」
「……いえ、やっぱりいいです。忘れてください」
逃げるように、売り場に出た。
自分は『替えの利く人間』だ。
その証拠に、新卒の頃から務めていた前職は、私が退職すると言っても引き止められることはなかったし、引き継ぎだって済ませて無事に退職できている。
それらが完了せず、一向に退職できない方が問題なのは重々承知している。私ではない他の誰かが退職することになっても、当然同じような対応が取られていただろうし、実際に行われてきた。
けれど、あまりにも……。あっけなさ過ぎて、自分の価値を実感できない。
だから代わりに、誰かの特別になりたかった。
だが、それもあっけなく散った。
社会の歯車としてただ同じように毎日を過ごし、誰からも必要とされずに、ただただ、回り続ける。
これまでも、これからも。
閉店時間も迫ってきた頃。
「箱、今から補充しちゃいますね」
袋や箱をストックしている棚を整理していたわらびさんが、私を見て言った。ストックが少なくなっていたようで、他の在庫も一通り確認した後、バックヤードへ消えた。
一人になった売り場で、思わず溜め息が漏れた。それだけで、なんだか情けない気持ちになった。
不意に、店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
内心焦りながら、笑顔を作る。
「……甘樂さん?」
店に一歩入って立ち止まった彼女は、私を呼んだ。
「甘樂さんですよね。うっわー、凄い偶然」
中尾さんが、
「うわ、本当だ。久し振り」
の伊田君の手を引いて、店の中に入ってきた。
「何? バイト? 転職活動上手くいってないの?」
「……ここに転職したの」
「えっ! 同業他社とかじゃなく、まさかの接客業ですか?」
中尾さんが手で口元を押さえた。その拍子に首元が目に入る。キラリと光る、一粒の石が付いたネックレスを着けていた。
「わざわざ接客業に就くために辞めたの? あんなに引き継ぎしておいて?」
「でもナオくん、甘樂さんプランニングしてたわけじゃないから、転職フリなんじゃない?」
二人の笑い声が、やけに耳に響いてきた。続いて二人はショーケースを見る。
「あー、もう残り少ないな」
「えー、どうしよう。甘樂さん、オススメってあります?」
「……今あるものだと、エクレールがオススメです。夏季限定商品になります」
「エクレアが?」
意外、という意味合いではなく、小馬鹿にするような言い方だった。
「あ、見てくださいよ、甘樂さん。これ、ナオくんがプレゼントしてくれたんですよ。ダイヤのネックレスです。やっぱりこういう一生物は、一つは持っておきたいですもんね」
そう言って、首元で光る小粒の石を指した。
「流美が欲しがってたやつ、ようやくネットで見つけたんだよ」
「ずっと探してくれてたなんて、嬉しい!」
笑い合う二人を直視できない。
「甘樂さんも早く相手見つけてくださいね」
「そうだぞー。婚活でも、女は三十になると見向きもされなくなるって言うしな。つか、三十すぎて独身の女とか終わってるだろ」
「……明日以降でしたら、今完売して――」
完売してしまっている商品でもお取り置きやご予約を承ることができますが。
そう言おうとしたのに、言葉が続かなかった。
「お菓子への批判でしたら、個人の好みによるものなので口出しできません。ですが、失礼なことをしたわけでもない従業員を悪く言われたとなると、こちらも黙っていられませんよ、お客様」
右肩に、体温が伝わった。
小豆田さんが私の左側に立ち、そのまま右の肩に手を回しているようだ。
中尾さんが一瞬、小豆田さんに見惚れるような目になった。
「そちらのネックレス、ダイヤモンドだとおっしゃいましたが、ダイヤにしては虹色の輝きがお強い気がいたします。輝きも随分と大胆だ。チェーンも光沢感があり過ぎる」
それに何の問題があるのか、私には勿論、中尾さんにもわからないようで、彼の言葉の続きを待った。
「ひょっとして、キュービックジルコニアのネックレスではないでしょうか。チェーンはプラチナではなくシルバー、もしくはただのメッキでしょうか。とても一生物のプレゼントには見えませんね」
私は思わず中尾さんのネックレスを見た。中尾さんも、ペンダントトップに確かめるように触れている。そして、視線を伊田君へ送った。伊田君は焦りよりも驚愕に近い表情をしている。
「最近は専門店に行かなくても、ネットで購入できますしね。フリマアプリでも出品されているくらいです。ブランドの箱や紙袋まで、何でも手に入りますよね。でも、ダイヤの一粒ネックレスなんていうシンプルで特徴の無いデザインは、簡単に擦り替えられる。鑑定書やギャランティカード付きで出品されていたとしても、素人相手だといくらでも誤魔化せる」
伊田君と中尾さんが、緊張感の籠もった眼差しで見つめ合っている。数分前の甘い雰囲気は一切無い。
「まぁ、僕はジュエリーの販売員でもなければバイヤーでもありません。ただのしがないパティシエですから、僕の目が間違っているのでしょう」
不意に、体が傾いたが、すぐに立て直す。と同時に、温もりに包まれたような感覚があった。
「特徴が無いからこそ、替えが利く。シンプルで洗練されたものだから、憧れる。紙一重ですよね。物は希少性によって価値が生じる。ですが人間の価値は、付けられるものではないと思いますよ」
右肩に回されていた手を引き寄せられたのだと気付くのに、時間がかかった。
左側が彼の体と密着して、喋る振動まで伝わってくる。
「誰かにとってはキュービックジルコニアで、誰かにとってはダイヤモンド。それは見る人次第です。日本でのエクレアとフランスでのエクレアくらい、認識が変わってきます」
「いや、最後の例えはよくわからんだろう」
良いことを聞いていたはずなのに、最後の一言で微妙な空気になったのを柏森さんが指摘した。厨房に繋がるドアのところに立っていたらしい彼が、売り場にやってくる。手には段ボール。続いてわらびさんもやってくる。包装紙のようなものを抱えている。二人でケーキを入れる箱やビニールの補充を持ってきたようだ。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
手に持っていた補充分を後ろの作業台に置いたわらびさんは、補充そっちのけで接客を始めた。
美人で可愛らしい従業員に微笑みかけられて、伊田君の顔が緩んだ。わらびさんは同じ笑顔で中尾さんに微笑みかけながら、
「うふふ、お隣は彼女さんですか? 恋人でもない赤の他人に笑いかけられてデレデレするような男、やめておいた方がいいですよ」
中尾さんの眉が寄って伊田君の顔に焦りの色が出たのを見て、
「わざわざまさかの接客業に就いたら、普段近しい人には見せないようなお客様の反応がダイレクトに返ってくるので、サービス向上に役立てようとしたのですが……。あまりお役に立ちませんでしたでしょうか?」
……怒っている。
いつから聞いていたのかわからないが、接客業を馬鹿にされて、物凄く怒っている。
次に何を言い始めるかわからないわらびさんを、一人段ボールを開けて備品の補充に取りかかろうとしていた柏森さんが止めに入る。
「コラ、なんてこと言ってるんだ」
「わたしったら。お客様のためを思って申したつもりだったのですが」
「そんな婉曲なやり方するな」
レジ側に向き直った柏森さんは、その長身で伊田君を見下ろすように立つ。
「人の価値は結婚してるしてないなんかで決まらない。そもそも結婚は『生活』なんだ。好きになった相手との関係性の延長線上にあるものだ」
……怒っている。
なぜ柏森さんがこんなに怒っているのだろう。
「なのに勘違いしてその相手を若さだとか見て呉れで選んだり、世間的な体裁のために行う奴の方が、よほど価値が無いと思うが」
……もしかしたら、離婚して一人身になった朔乃さんを間接的に侮辱されたと感じているのだろうか。以前小豆田さんが言っていた「柏森くんに殺されちゃう」は、過言ではないのかもしれない。
フッと笑う声がすぐそこで聞こえた。
「ところでお客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
小豆田さんが営業スマイルで問いかける。
伊田君は言葉を濁して後退るように出口に行き、中尾さんも疑心に駆られながらも彼の後をついていく。そのまま二人は店を出て行った。店内がシンと静まる。
「もー、どうする? 今のSNSとかに書かれちゃったら」
「知りませんよ。最初に喧嘩を買ったのは小豆田さんですよ?」
「炎上したらお前の謝罪動画でもアップしとけ」
「一番のストレートパンチは柏森くんでしょ」
「ところで小豆田、お前いつまでそうしてるつもりだ?」
感じていた温もりが、離れた。
柏森さんが私の肩に回していた手を取り、わらびさんが小豆田さんを後方へ引っ張っていた。
「ちょ、ちょ、痛い痛い! 柏森くんがあらぬ方向に捻ってるのは職人の手だよ?」
「こんなふしだらな職人の手は要らん。新しい手を俺が作ってやる」
「僕の手はあんパンじゃないんだけど!」
「ほーら小豆田、新しい手だ」
柏森さんが空いていた左手で物を投げる仕草をした。随分投げやりな感じだった。
「柏森くんその投げ方絶対届いてない!」
「柏森さん、それだと投げるのはわたしの役目じゃありませんか?」
「わらびちゃんに任せたら僕キメラみたいになりそうで怖いんだけど」
「セクハラオーナー店長が何言ってるんですか。怖いものがないからやってるんですよね?」
そんな会話をしながら、二人がかりでズルズルと小豆田さんを厨房へ送り届……けているというより、連行している。「あああああぁぁぁ」という声が遠ざかる。……この人、これからバラバラにされたりしないだろうか。見ていて「可哀想」と「不安」の二つの気持ちが湧いてきた。
こんなことを思う私も十分酷い人だろうけど、おかげで劣等感や惨めさは、忘れられた。
就業後のバックヤードでは、なぜか柏森さんがイジられていた。
「今日の柏森くんの名言もよかったねー」
「何でしたっけ。結婚で人の価値は決まらない、でしたっけ?」
「違う違う。『人の価値は結婚してるしてないなんかで決まらない』と『結婚は生活なんだ。好きになった相手との関係性の延長線上にあるものだ』だよ」
「……よく覚えてますね?」
ほぼ聞いた時のまま再生された言葉に、思わず口を挟んでしまった。
「僕柏森くんの名言だけはよく覚えていられるんだよ」
「覚えなくていい! 忘れろ!」
「今度色紙買ってまた筆で書いとくよ」
「また……?」
「偉大な人生の先輩の言葉は残しておかないと。家に筆と墨と硯くらいはあるからさ、百均で色紙買って、書き残してるんだよ。見る?」
「書くな残すな写真を撮るな!」
スマホを操作した小豆田さんが、柏森さんにスマホを取られる前に私に渡した。小豆田さんは柏森さんが私からスマホを奪わないように掴み合っている。わらびさんが私の手を取って移動し、二人と距離を取った。そのままスマホも取ってしまうのかと思ったが、私の隣で楽しそうに画面を覗き込んでいる。彼女の笑顔につられて、思わず画像をタップしてフリックし始めてしまった。
やたら達筆な毛筆で文字が書かれている。そして全てに「柏森青葉」と署名がある。本人ではない人によるフルネームの署名があるというのは、なんとも滑稽だった。時折「わたしこれ好きです」というわらびさんの感想も混じってくる。堪えきれない笑いをせめてもの気持ちで抑えるのに必死だった。
『他者との繋がりから断絶された生活っていうのは、想像するよりも何倍も孤独なんだよ。経験してない俺達はその孤独を受け止めるくらいしかできない』という言葉を見た時は、彼はどんな修行を積んで悟りを開いたのかと感じた。
その時ようやく小豆田さんから逃れられた柏森さんが来たので、画面を暗転させたスマホを渡しながら言った。
「……何も見てないです」
「あからさまな嘘を吐かれると逆にしんどいのだが」
帰り支度をして外に出ると、夏の香りが漂い始めていた。独特の蒸した空気が鼻腔を刺激する。空はまだほんのり青い。
「そうだ燈架ちゃん。エクレアがなぜ人気なのかっていうやつだけど、正直、僕もわからないや」
「すみません、考えてくださってたんですね」
「わからないけど、フォンダンがウケたのかもしれないなー、とは思ったよ」
「フォンダン?」
「エクレアの上にかかってるやつだよ」
「あぁ、あのチョコレート」
「チョコレートじゃなくて、フォンダンね」
「チョコレートとは違うんですか?」
「チョコレートは食材で、フォンダンはデコレーションの一つ、かな。砂糖を主な材料としてるんだ。風味を出すために、砂糖じゃなくて実際にチョコレートを使用している店もあるけどね」
「それが、なぜです?」
「ちょっとのひと手間だよ。そうやって華やかにして、食べる側をもてなす。まぁ、これはただの想像だから、単純に文化や味覚の違いが本当の理由かもしれないけどね」
前方にいるわらびさんが、柏森さんに今借りているレンガ本について話しているのが聞こえる。彼はその声に紛れるように、少し小さな声で続ける。
「でも、なんだか人間みたいだよね。最低限のことだけやってたらいいのに、誰かのためにそれ以上のことをする。わらびちゃんはまだ二年目なのに、自分で勉強して知識豊富だし、柏森くんは自分以外の人を優先できる、心の広い人だ。きっとこういうのはエクレアのフォンダンみたいに、その人を表す構成の一つだとしか認識されないけどさ。それが本来は絶対に必要とは限らないデコレーションだと気付いた時に、人は人に魅力や輝きを感じるのかもね」
「……だけど、そのデコレーションが初めから無い人は、どうしたらいいんでしょうか」
「そういうのは自分では気付かないものだよ。それに、見る人次第で見え方も変わる。だから、有るとか無いとかいう話じゃないんだ。自分では、自分が誰の特別なのかわからないのと同じだよ」
「……私も、誰かの特別なんでしょうか」
いつの日かみたいに、言葉が零れていく。
自己愛と自己嫌悪に満ちた、恥ずかしい言葉が。
「僕は燈架ちゃんに会えてよかったよ。忘れそうになることを思い出せる」
「忘れそうになること?」
「『お菓子は、人を笑顔にする』ってね」
口元に人差し指を当てながら、軽くウィンクされる。そんな仕草も違和感はない。が、出会った時のことを思い出し、羞恥心が込み上げる。
「……そんな、いつも『新たな幸福が訪れますように』って言ってるのに、忘れそうになることなんてあるんですか?」
「あるよあるよ。娯楽がどんどん増える中で、僕の作るお菓子の価値って何なんだろう、って。一番の目的も失くなったようなものなのに、何で作り続けてるんだろう、って」
何か違和感があった。
最初の言葉はいい。しかし、最後の言葉は、何なのだろう。
「でも、やっぱり、僕にはこれしかないんだよ。愚かだけど、お菓子を作ることしかできない。だから、また僕のお菓子が、誰かの特別に成るように、幸福を彩れるように、それだけを考えて毎日を生きるんだよ」
なぜ、生きるという話になっているのだろう。
確かに私は自分自身を否定していた。それを感じ取って励ますにしても、飛躍しすぎている。
なぜか小豆田さんから、死の香りがした。
「小豆田さ――」
「はーい、みんなー。燈架ちゃんの好きなところ言ってあげてー」
彼はその声と同時に手をぱちぱちと叩いた。柏森さんとわらびさんが足を止めて振り返る。
「な、何でそういうことになるんです⁉」
「燈架ちゃん最近元気ないし、今日なんて元カレと略奪彼女に会ってさらに落ち込んでるみたいだし」
「待ってください、私その話してませんよ⁉」
「あ、あれ? そうだっけ?」
「何でわかったんですか⁉」
「最初に会った時ちょっとフォーマルな恰好で、次に会った時がオフィスカジュアルっぽい服だったから、最初に会った時はもしかして平日デートだったけど、フラれたのかなーって。でもその時はまだ憶測で、えーと……、フォレノワールの時、三十までには結婚したかった、みたいな過去形の話してたから、やっぱりフラれたのかなーって。あと、今日の会話的に……」
私から目を逸らして申し訳なさそうに明かした。そして両手を合わせて頭を下げながら「ごめん」と言った。続いて「二人は何も聞かなかったことにして!」と言い、わらびさんが「了解です」と微笑む。柏森さんも私を見て、
「何も聞いてない」
「あからさまな嘘を吐かれると逆にしんどいですね……」
店とは逆のやり取りをする。「もう済んだ話はこのくらいにしましょう」と、今聞かなかったことになったはずのことを軽く掘り返したわらびさんが仕切り直す。
「燈架さん、わたしのこと聞いてこないところ好きですよ。本名も絶対聞いてきませんし」
「そ、そんなところが好きなんですか?」
「わたしにとっては重要ですよ。個人情報は話したくないって言っても、本名当てようとしたり住んでる場所聞いてこられたりすることありますもん」
「そ、そうですか……。ちなみに、個人情報を聞いちゃいけない理由は、聞いても大丈夫ですか?」
「DV夫から逃げています」
変わらぬ笑顔で答えられて、事の重大さを飲み込むのに少し時間がかかった。
「え、それ、そんな、あ、え、け、警察……」
「甘樂、残念ながらこの国にDV罪なんてものは無いんだ」
「シェルターも、条件とかいろいろあるみたいでね」
「夫は甘い物嫌いなので、ケーキ屋にはさすがに探しに来ないかなと思いまして。個人店だったら情報をあちこちで管理しないと思いますので、こちらに転職して参りました」
「ようこそ〜!」と小豆田さんが言い、柏森さんと二人で拍手している。小豆田さんは雇用主として本名と住所は把握していて、柏森さんは彼女の事情だけ知っているらしい。何かあれば彼女の履歴書で住所や本名を確認することになっているそうだ。前職では苗字が原因で職場がバレたそうなので、店の中でも外でも『わらび』と呼んでいるとか。
そういえば、わらびさんは最初、柏森さんを怖がっていたと小豆田さんに聞いた。柏森さんはお客様がいらっしゃるか否かではなく、わらびさんがその場にいるかいないかで小豆田さんに昭和の躾をしていた。小豆田さんが昔柏森さんに顔を殴られた話も、わらびさんには聞こえないようにしていた。何らかの形で生じた――きっと小豆田さんの所為で――柏森さんとわらびさんの溝は、現在では跡形も無く解消されている。
彼女の極度の写真嫌いとインドア生活も納得だ。
「事情を言えるくらいには、わたしは燈架さんのことを信用していますよ。嫌だということはしてきませんし、今日だって酷いこと言われてたのに言い返さずに丁寧に接客しようとしていましたし。わたしは燈架さんのそういうところが好きです」
ふんわりと、やさしく微笑まれる。その言葉に、他意は無い。
言い返さなかったのは、言い返す度胸が無かっただけだが、こういう形で評価してもらえるとは予想外だった。
「次は柏森さんですよー」と彼女がバトンをパスする。顎に手を当てて考え始めた。
「……正直、接客態度が悪いとか、商品の扱い方が雑とか、小豆田みたいに店の評判を悪くしそうな奴でなく、きちんと働く人だったら、好きとか嫌いとかあんまりないんだよな」
「……そんな気はしました」
私が言われているはずなのに、「待って、柏森くん僕のこと嫌いなの?」と、後ろで騒ぎ始めた人がいる。それを無視して、
「ただ、洋酒や特定原材料七品目が商品に含まれてるか否かを覚えるというのは、良い発想かもしれないな。口に入るものだからな。わらびとは違う視点で、お客様のことを考えている。あと朔乃とも仲良くしてるみたいだな。今後も、よろしく頼む」
「……すみません、褒めてもらえて嬉しいはずなんですけど。最後のがなんか、聞いてるだけでこっちが恥ずかしくなって、頭に入ってきません」
朔乃さんを大切に想っていることしか伝わってこない。
彼は本当に、あんな理由で離婚したのだろうか。表向きに用意した理由に思えてならない。
「はーい、皆ありがとー。進みましょー」
また手をぱちぱちと叩く。柏森さんとわらびさんは前を向いて再び歩き始めた。
「燈架ちゃん。答えになってないかもしれないけどね、僕は、『自分が誰かにとっての特別な存在かどうかは、自分ではわからない』んだと思ってるよ」
再び静かに話し始めた彼に、視線を向けた。
「相手を好意的に思ってる言葉なんて、告白や結婚の時くらいにしか言わないし。ましてや愛してるだなんて、日常的には言わないだろう? 歳を取れば取るほど、決定的な言葉から離れていく」
「……確かに、そうかもしれません」
伊田君と付き合っていた時でさえ、彼からも私からも言わなかった。
「芸能人みたいに常にスポットライトが当たるような人は話が別だけど、基本的に、結局皆、平凡でどこにでもいる人だと思うよ。そんな自分に魅力を感じてくれた人が、自分を特別な人にしてくれるんだと思うよ」
「……ちょっと難しい話になってきましたね」
「定義を曖昧にしちゃったからね」
小さな溜め息が漏れた。それを聞いた小豆田さんが、小さく笑った。
「でも、こうも言えるよ。『声に出して言わないだけで、その人を特別だと思ってる人はいる』」
「もー、声に出して言ってよー」
今度ははっきりと笑われた。
けれど。
きっと私も、『FUKUSHI』の一員として、ほんのわずかでも、離れたくないと思ってもらえる『仲間』にはなっているのかもしれない。
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