見出し画像

緋色の花⑬

2ー1 中編:赤名紗羅

 理科室から戻って来て教室へ入ろうとしたら、見覚えのある人物が廊下にいた。その人は別のクラスの久我くが君と話している。久我君は現実離れした綺麗な顔の男子生徒で、違うクラスなのにすぐに名前を覚えた。彼よりも数センチ背の低い、その人物がこちらを振り向いた。
 先週のこの時間に会った、神宮寺さんだ。思わず目を逸らして足早に教室に入ろうとしたら、
「ねぇ」
 声が聞こえてきた。それはきっとあたしを呼び止める声で、声の主は神宮寺さん。
 黄色いランプが脳内で点滅する。
 だが、明らかに目が合ったし、相手は先輩、そして政治家の息子。このまま気付かなかったフリをして去ってしまいたかったが、状況が許してくれない。
 立ち止まって彼の方を見ると、久我君が彼に会釈する。久我君に軽く手を振ってあたしのところに歩み寄って来た彼に訊ねる。
「神宮寺さん、あたしに何の用ですか? 生徒会だったら、先日お断りしましたよね」
「今日は勧誘じゃないよ。あと、司でいいよ。敬語も無くていいから」
「それはちょっと抵抗あるんですけど……」
「蓮さんにはそうしてるじゃん。それと一緒だよ。それとも、僕の父親が政治家だから?」
 否定できない。粗野な蓮ならまだしも、桜ノ宮の生徒らしい佇まいで、しかも政治家の息子となれば、いくらあたしでも身の程をわきまえる。
「言っとくけど、偉いのは僕の父であって僕自身ではない。今はだたの中学二年生の子供なんだからさ。そんな堅苦しくされるの、嫌なんだよね」
「……蓮も嫌がらない? なのに、蓮には敬称付けて敬語で話すの?」
「それは僕が落ち着かないんだよ。歳上には敬称を付けて敬語で話さないと」
 いい意味で言えば、親しき仲にも礼儀あり、を貫いている。だが、歳下ということを逆手に取り、彼の思うように相手を操作しているようにも見えた。
「紗羅、長崎から転校して来たんだよね?」
「……そうだけど」
「何でこのタイミングで――」
「だから、お前は紗羅に何の用なんだよ」
 話に割り込んできたのは蓮だった。神宮寺さんの肩に手を置いて、阻むように言葉を遮った。
「蓮さんこんにちは。僕は辰哉たつやに役員になってもらえるか確認しに来たのと、紗羅が異例の転校生だと知って、」
「辰哉がお前の頼み断るなんて滅多なことが無い限りありえないんだから、わざわざ確認しに来なくてもいいだろ」
「こういうのは本人にちゃんと確認しないと駄目じゃないですか」
「確認できたなら早く帰れよ」
「桜ノ宮に学力だけで入学できた人がいるだなんて、珍しいと思いません? どんなに優秀な人物なのか気になりますよ」
 ね、と無害な笑みであたしに声を掛ける。蓮が遮ろうとした話を無理矢理に再開する彼に対して、脳内で警鐘が鳴る。同意することも、初耳だと示すことも、どちらもしない方がいい気がした。反応せずにいると、あたしから意識を逸らさせるように、蓮が口を開く。
「そもそも、紗羅の出身地どこで知ったんだよ」
「彼女の出身地なんて、一年の間じゃ誰もが知ってるんじゃないですか?」
 綺麗な大人びた笑顔で蓮に微笑みかける。
 ほんの一瞬蓮が口を閉ざした隙に、彼は再びあたしに話し掛けた。
「冬休みは帰省するの?」
「いや――」
 思わず否定してしまった。帰る場所なんてないし、帰りたくなかったから。
 視界の端で蓮の顔が微かに歪む。
 あぁ、マズい。直感的にそう思った。そこに付け込むように彼は続けた。
「えぇ? ご両親、寂しがるんじゃない?」
 その言葉に、思わず吐き気がした。
「……事故で亡くなったから」
 この言葉を、ここへ来てから一つの武器にしていた。誰かが死んだ話は、避けられる傾向がある。それが近しい人だと、より一層踏み込んだ側は罪悪感に駆られ、自ら身を引いていく。
「あぁ、そうだったの。ごめんね、辛いこと思い出させて」
 本当に、嫌なことを思い出させる。
 瞼の裏にチカチカと光が走るように、途切れ途切れの光景が蘇る。
 水溜まりのような血……、暗闇、肩で息をする音、気が遠くなる痛み。
 体温が、二度下がった気がした。
「もういいだろ」
 再び蓮が遮るように言った。
「もし帰省するなら、お土産にカステラ買って来てほしかったんですけどね」
 今ではコンビニでも販売されるくらい身近なお菓子だが、昔は高価な品物だった。だから、長崎県民の間では贈り物やお祝いのために購入するのが一般的だ。
「長崎まで行かなくても買えるだろ。『文明堂』行けよ」
「……『福砂屋ふくさや』もオススメ」
『福砂屋』は一六二四年創業の最も歴史ある老舗だ。
「『文明堂』は生地がふわふわで甘さもしっかりあるから、疲れた時にいいかも。『福砂屋』は砂糖じゃなくて卵の柔らかい甘さが特徴かな」
 カステラの茶色く焼けた香ばしさと鮮やかな黄色の甘さは、口の中で幸福感のように広がり、満たされる。フォークで食べるよりも手で掴んで食べると、なお良い。
 キョトンとした顔で蓮と神宮寺さんが見つめてくる。先に表情を崩したのは神宮寺さんだった。面白そうに笑ったあとで、あたしに問い掛けた。
「長崎で他にオススメのものある?」
「『江山楼こうざんろう』とか? 長崎中華街に本店があって、ちゃんぽんが美味しいの。」
 懐かしい。夜は中華街一面にあるちょうちんが灯りを宿し、空が朱に染まっていた。店から漏れる光が黄金のように輝いていて、幼い時は中国のお城が光っていると思いながら眺めた。
「ちゃんぽん食べたか」
 一人呟いたあたしに、蓮と神宮寺さんが頭に疑問符を浮かべていた。
「ごめん、何でもない。長崎にしか店舗がないから、こっちでは食べられないんだよね」
「長崎にしか店舗がないとなると、長崎まで行かないといけないね」
 神宮寺さんは、あたしに語り掛けながら、様子を窺がうように視線だけ蓮に向けていた。
 どこか大人びた綺麗な笑顔で続ける。
「近々行ってみようかな。やっぱり、実際に行かないとわからないこともあるしね」
 それを言うなら、「本場の味を直接味わいたい」といった言い方になるのではないだろうか。
 まるで別の物事を探りに行くような口振りに、思わず身構えた。
「長期休みの間じゃないと行けないだろ。冬休みは親族会だってあるし、近々は無理だろ」
「そうでした。残念、ずっと先になっちゃいますね」
 蓮の方を向き、何事も無いかのように人畜無害な笑みに戻る。
 では僕はこれで、と会釈をして去る彼が見えなくなるまで、あたし達は黙ったままだった。
 彼がいなくなったことを確認して蓮を見ると、バチリと視線が合う。
 神宮寺さんは、何を聞き出したかったのだろう。
 先週は蓮が隠している何かについて、あたしから蓮に問わせる魂胆だったように見えた。
 今日は、あたしについても探りを入れている雰囲気だった。
 蓮はそんな彼をあたしから遠ざけようと会話しているようにも見えた。
『自分のやったこと一から思い出したら、わかるんじゃね?』
 蓮に言われた言葉を思い返す。
 あたしが失っている記憶は無い。ならば見落としているだけだ。
 そこには、あたしが知りたい蓮の真実もあるのだろうか。
 記憶を辿ろうにも、大した話もしていないのに疲れてしまった脳では、上手く思考が纏まらない。
 思わず苦笑いが零れた。そんなあたしを見て、蓮も呆れたように笑顔を零した。

   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?