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緋色の花㉚

     
 零に真実を問うべく、白羽家をあとにして実家の奴の部屋に行くと、待っていたと言わんばかりに口角を上げた。
 俺がやって来るのを予見していたかのように、奴は待ち構えていた。
 片付いた室内で、机の上にノートと小型のナイフだけが置かれていた。鋭い銀が、窓から差し込む夏の日差しを痛いくらいに反射していた。これを使って珠莉を脅したりしたのだろうか。
「珠莉、自殺したんだってな」
 第一声がこれだ。
 先月は「珠莉ちゃん」と呼んでいたのに。わざと聞かせるように彼女を呼び捨てにした。
「……お前が珠莉の名前を口にするな」
 拳を握り締めて、必死に理性を保つ。爪が皮膚に食い込む。その痛みさえも、今では感情のブレーキとしては弱い。
「でも、もうずっとこう呼んでたからな」
 何も問わなくても、怒りに震える俺を見て、零は彼女の身に起きた全てを肯定していた。昼間なのに真っ白な三日月が浮かぶ彼の口元が、珠莉の遺書を肯定していた。
「何で、珠莉なんだよ」
「それは自分の彼女以外ならよかった、って言ってんのか?」
「話をすり替えんな!」
 声を荒げるが、それすら零にとっては愉快でたまらないらしい。押し殺した笑い声が響く。
「俺が気に食わねーなら、俺に何かしてこいよ。珠莉は関係無いだろ」
「だからだよ」
 何を言っているのかわからなかった。思わず口を閉ざして、言葉の続きを待ってしまった。
「関係無いと思ってる奴が、しかもそれが自分の彼女なら、なおさらお前は耐えられないだろ?」
 俺が珠莉と付き合っていなければ、こうはならなかった。
 彼女は今頃友人や家族と夏休みを満喫し、笑顔で新学期を迎えていたはずだ。白羽夫人も、端麗な顔立ちに深い闇を刻ますに済んだ。
 この罪悪を与えるためだけに、零は珠莉を何度も何度も傷付けたのか。
「教えてやろうか、珠莉がどんな様子だったか」
 俺は、呼吸ができているのだろうか。大きく息を吸い込まないと、脳に酸素が届いていない気がした。
「お前等、付き合ってたけどそういう関係じゃなかっただろ」
 耳が詰まったように、音が聞こえにくい。視界も定まっていない気がする。
 なのに、零の笑い声だけはよく響くし、顔も鮮明に見えた。
「珠莉の初めての相手、俺だったからな」
 こちらを見て愉快に口角を吊り上げ、声を抑えずに笑っていた。

 気付けば、机にあったナイフを手にしていた。
 迷いなく、零に向かっていた。
 真正面からぶつかるようにして、零の腹部に突き立てた。

 離れると、ナイフから貫いた肉が抜け落ちていく感覚がした。
 不愉快な笑みが視界に入って、また力いっぱい、別の場所に刺して、引き抜いた。
 緋色が、太陽の光を反射させながら宙を舞う。紅玉こうぎょくのようだった。
 ゴトリと、重みのあるものが倒れる音がした。
 それでも、脳髄が焼ける感覚は治まらなかった。
 何度も何度も、繰り返し繰り返し、引き裂いた。
 零の笑う口元まで赤くなって、水溜まりのように俺の足元が濡れて、緋色の虹が架かったように血が飛び散った。
 疲労を感じたからか、満足したのか、やがて手が止まった。肩で息をする自分の声だけが耳に届いた。どのくらいの時間が経ったのだろうか。
「ちょっと、凄い音したけど、大丈夫なの?」
 ドアのノックと共に、母親の声が聞こえた。ようやく、意識が現実に戻った気がした。
 返答が無いのを不審に思ったのか、一言声を掛け、ゆっくりとドアが開かれた。
 どんな光景だっただろう。制服姿でナイフを持って返り血を浴びた次男が、血肉になった長男に馬乗りになっていた様子は。
 両手で口を塞いで、そのまま膝を付き座り込んで、わなわなと瞳を揺らしていた。
 五人兄姉妹きょうだいの中でも一番自由奔放で飄々としていて、物事に動じている姿を見たことが無く、しがらみの多い血筋でも人生を謳歌しようという生き方をしている母親が、ボロボロと涙を流し始めたのは、正直意外だった。
 泣き叫ぶまではいかなかったけれど、混乱したように言葉にならない声を発し始めて、彼女にとっては、零も大事な子供だったのだと再認識して、少しだけ、申し訳ない気持ちになった。

   

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