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学ぶは【まねぶ】

「学ぶは【まねぶ】だ。早く仕事が出来るようになりたければ、先輩上司の真似をすること。これが一番の近道だ」

社会人なりたての頃、上司から繰り返し言われた言葉。仕事を早く覚えたくて必死だったわたしはこの教えを胸に刻み、自分なりに努力した。結局のところ、自己流より上手い人の真似をする方が、手っ取り早いし間違い無い。

子の成長においても、この「真似をする」というのはとても重要だと感じる。そもそも全てここから始まる。特に一歳九ヶ月の下の子は、身近な存在である四歳の姉のアレコレを真似ているのは明らかだ。コップ飲みや靴の履き方などの生活習慣は勿論、塗り絵、プリキュアのダンス(阿波踊りにしか見えなくて笑える)などなど、遊びにおいても長女の影響がほとんど。一方、真似される側はソレが気に食わないらしい。違う!やらないで!と、いちいち怒っていて笑える。

真似事の典型として「ごっこ遊び」があるが、この類(たぐい)の遊びは人間だからこそできる高度なものであるらしく、情操教育においても重要らしい。もっともらしいことを述べているが、何かで読んだ知識の受け売りで、根拠とかそんなもんは知らん。とにかく良い事なんだって。

年少の長女はこの「ごっこ遊び」が上達してきて、プリキュアごっこやらままごとやらは見ていて面白い。何が面白いってね、言葉使いや表情。よく観察してるなぁと感心する。長女は、次女に対してかなりの上から目線で「言って聞かせる」ような演出をする。わたしが娘たちに言ってるのを忠実に再現してんだな、と恐ろしくもある。凄まじい剣幕で怒るシーンが繰り広げられた時などは愕然、そして反省。

なりきり具合でいうと、大人の電話の再現も見事である。たいてい、幼稚園の先生方のやり取り(教室で、先生同士が諸々連絡を取り合うらしい)や、わたしと夫がイオンで別行動後に合流する流れなどで、よく特徴を捉えている。「あーうんうん」「えっとね」等の些細な相槌とか、「はい、はい、失礼しまーす」とか。

かく言うわたしも、母親然として我が子に接する姿は、実母にそっくりなんだとか。(夫談)
「人は、自分が接されてきたように他人にも接する」と聞いたことがあるが、わたしにとって母親のイメージは実母そのものなのでやはりそうなる。ならざるを得ない。子どもをあやす時や叱る時なんか、特にコテコテの熊本弁になってしまうのはそんな大人たちと接してきたからだろう。大人だって、無意識に真似をしているのだから愉快だ。

言葉使いといえば、どなたかのインスタでお見かけして面白かった事。普段、そのご家族は関西圏の方言で話しているのだが、お子さん達はままごと中に限り共通語、なんなら綺麗なお嬢様言葉を使うらしい。役作りはまずは口調から、なのか。思えばうちの子どもは、ままごと限定でちゃんと敬語を使っている。こういう形で言葉の使い方を覚えていくのだ。どういう場面で、誰に対して使うのか。遊びを通して無意識に、世の中での立ち振る舞い(みたいなもの)も学んでいるのかも。ごっこ遊びもある種の社会勉強か。

普段と違う役回り、という意味では、本人の願望も垣間見える気がする。わたし自身、家庭では四人きょうだいの一番上として仕切り屋・ジャイアン的な言動ばかりだったが、友人とのままごとでは赤ちゃんや末っ子役をやりたがる子どもだった。
これも成長と共に変わるのだろうが、今の長女は「お母さん」の真似をして、妹やぬいぐるみの面倒を見てあげる、という立ち回りがしたいらしい。小言を言ってみたり、よしよし撫でてあげたりと、母性らしきものが見えて可愛らしい。そんな時の次女は、まだまだ為されるがままだ。

我が子たちの姿に目尻の下がる思いでいると、長女が、おもちゃの具材を詰め込んだ小さな鍋を持ってきてわたしに言う。

「はい、おばあちゃん!これを食べてください!」

う、うん…。突然の、そして想定外の配役に、わたしは言葉を失った。まだそこまでの心構えは出来ていない。
とはいえ、ままごとの時くらい…飯炊きや掃除から解放されて、隠居婆役に徹するのも悪くはないかもしれん。

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