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喜ぶかどうかはわたしが決める

相手の気持ちを考えるということが、
デフォルトのようになりすぎて、
「感じる」という根源的な悦びを享受することが
難しくなっている、
というのは日本人の気質的に多いと感じる。

空気を読めるというのは才能でもあり、
でも、だからこそ、の葛藤もある。

相手の気持ちを考えることも、
大切なことではあると思う。



でも、だからと言って
感じたことをなかったことにするのは、
自分との不一致につながっていく。


小さな不一致も、
積もり積もれば大きな溝を生む。


夫が、「喜ぶと思ってやったのに」
と言ってわたしのためにしてくれたこと、があって。

でも、それはわたしにとって喜ばしいことではなかったの。


以前のわたしだったら、
「喜ぶと思ってやったのに」を感知して、
「ありがとう〜!」って、不一致を無視して受け取っていた。

でも、違う。って肚の声がした。

何が違うのか、どうして欲しいのかを、
そのまま言葉にして放った。

「喜ぶと思ってやってくれるのは、
あなたの自由だけれど、
喜ぶかどうかはわたしの領域だよ。」

わたしの神聖な領域で起きることは、
わたしが創造する。

受け取りたいものは、わたしが選ぶ。


そりゃ、戸惑うよよね、とも思う。

だって、わたしすごく変わった。

でも、これが今のわたし。