もしも生きられたら自分の周りを笑顔と幸せでいっぱいにしたい
父が亡くなって5回目の月命日がやってきた。1日たりとも父を忘れたことはない。毎朝、空を見て話しかける。「お父さん、おはようございます。今日も見守っていてね」と。
61歳で亡くなった父。闘病生活1年6ヶ月だった。
本人には伝えず、家族だけ知っていた父の余命。昨年10月に医師から告げられた、1年という余命。それを知った次の日、父に会うと、にこっと微笑むその顔を見るだけで涙がこぼれそうになった。
入退院を繰り返す父に毎日会いに行った。悔いのないように。足のむくみとか、顔色とか毎日観察した。私には、1年後にいなくなってしまう人に見えなかった。だって、元気に笑ってるから。いつもの父だったから。
それなのに、昨年末、医師から告げられた。「あと3ヶ月です」と。ついこの前、1年だと言っていたじゃないか。あまりにも短すぎる余命。余命1年と言われたあのときなんて幸せだと思った。
それから迎えられるかわからなかった春が来た。もう祝えないかもしれないと思っていた6月の誕生日も。父が好きなブランドの服をプレゼントした。高級品だったけど、父のためにお金を使えるなら。父が喜んでくれるなら。もしかしたら、この服も一緒に棺桶に入ってしまうのかな、なんて思ったけど。
誕生日を盛大に祝った数日後、父は病院で亡くなった。
ベットサイドモニターの数字が0になった瞬間を忘れない。一度も泣かなかった母が泣き崩れ、病室の外に聞こえたであろう声で、「お父さん!お父さん!」と家族全員で叫び続けた。お世話になった看護師さんも泣いていた。穏やかな顔をして眠る父の手も、ほっぺたもまだ温かい。いくら手を握っても、握り返してくれることはなかった。いつもなら、大きくて分厚いその手でぎゅっと握ってくれるのに。
亡くなってからは、よいか悪いかわからないが忙しい。葬儀屋への連絡や、会社関係、親戚への連絡。毎日葬儀屋から言われたスケジュールをただこなす日々。遺影をどうするかとか、告別式会場に飾る父との思い出の品や写真を選ぶため、父の部屋にて作業をしていたときに父の手帳を見つけた。
そこには死を覚悟すると同時に、懸命に生きる覚悟をした父の文字があった。
父は誰からも余命について言われることはなかった。けれど、体の変化を1番よくわかるのは本人。もう長くないかもしれないと思いながらも、一度も家族の前で弱音を吐かなかった。さいごは食べることも、思うように動くこともできなかったのに。大好きな車を売ると言い出したときは、どんな気持ちだったのかな。
他に手帳に書かれていたのは有名な名言、私や母が病院に行った日にちなど、誰が会いに来てくれたとか。看護師さん全員の名前もメモしてあった。一生懸命覚えて、きちんと看護師さんのことを名前で呼んで、冗談まじりにくだらない話をしていたんだろうなと思う。
定年退職後も仕事を続けていた父のスケジュール帳は、6月まで会議などの予定で忙しそうだった。7月以降はもともと年間スケジュールに組み込まれていたんだろうなというような仕事の予定しか書かれていない。もう埋まる予定もないスケジュール帳を見ると、父はもう、いないのだと思わされる。
ときどき言われる。
「28歳でお父さんを亡くして可哀想ね」と。
私は可哀想?
告別式には500人が父に会いに来てくれた。200の花が飾られていた。300通の弔電が届いた。何時間もかけて、地方の田舎の葬儀場に来てくれる人がいた。父の会社の人が泣いていた。50代、60代、70代のおじさんがマスクをぐしょぐしょにして。何度も何度もまわって、お焼香してくれる人がいた。「初めての上司が○○さんだったんです。○○さんでよかった」と言ってくれる人がいた。
告別式で、父の幼なじみと名乗る人に言われた。
私は可哀想な子じゃない。
父の娘であることを誇りに思う。
ここで腐るわけにはいかないのだ。
自分に自信を持って生きていきたい。父が叶えたかったように、周りの人を笑顔と幸せでいっぱいにしたい。
本音を言うと、父に、もうまもなく産まれる赤ちゃんを見せたかった。抱っこさせてあげたかった。一緒にお出かけしたかった。父がいたら、きっと世界一優しくて面白いおじいちゃんになるんだろうなと思ってしまうけど。
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