Twitterと少し距離を置いた話。

 最近Twitter(Xと呼び替えるタイミングを逃し、そのまま旧称を使い続けている)を見ないようにしている。
 正確に言うと、Twitterの、ひきこもり生活やメンタル関係のことを呟いているアカウントを、だ。

 サービス開始まもなく始めたアカウントなので、もう十年以上動かしている。
 当初からの相互フォロワーさんも数名いて、仲良くしてもらっている。嬉しい。数人とは実際に会ったり通話をしたりした。嬉しい。
 が、フォロワーさんの中には同じひきこもり、無職、精神疾患を縁として繋がった相手も多く、十数年の歳月が経てばほとんどの人が社会復帰を果たしているのが現状。
 にもかかわらず、なーんにも進歩せずに相変わらず無職のひきこもりうつ病をしている自分が、ほとほと嫌になってしまった。
 そして焦燥感と自己嫌悪が募り、果てに出てきたのは劣等感と嫉妬。
 これはよくない。人の努力にいちゃもんをつけるようになるのは本当にまずい。人格云々の話ではなく、精神面の健康に関しての話だ。
 私はかつて本当に本当にクズな時代があって(まるで現在はクズではないような言い草である)、自分よりもまともな環境にいるのに文句を言ったり悲観したりしている人はポンポコポン(仮)だ、と思っていたことがある。
 そして自分よりも悪環境で似たような状況の人だけしか見えないようにして、自分はまだマシ、と下の存在に安心していた。

 これはよろしくない。今ならわかる。ただの嫉妬だ。
 なにもしていない自分は、なにかをできている、なにかをしようとしている人が羨ましいのだ。置いていかれるのが恐いのだ。負けるのが嫌なのだ。
 このときと似たような気持ちに、ここ数ヶ月なりかけていることに気がついた。
 ゆえにTwitterと距離を置き、他人の状況に惑わされないよう努めているのが現在だ。

 そもそも昔から想像力が逞しく、書かれていること、聞いていることの裏を勝手に作り出しては「自虐と見せかけた自慢だな」とか「どうせ嘘か誇張だな」とか、そういう嫌な捉え方をして心を守る傾向があった。古い言葉で言うならゲスパーというやつが近い。
 当然ながら自虐風自慢をする人は実際にいるし、嘘や誇張は前提で考えなければ情弱と呼ばれる立場になるのもわかる。
 でもな、でもなー、交友関係でくらいは、そういうのを抜きに考えられるようになったほうがいいと思ったんだよ。

 そんなこんなで、お世話になった人を妬む自分になるのが嫌だという理由から、ひきこもり&メンタル関連のアカウントを休止したのではないかと予想している。
 他人事のような表現だが、休止を決めたときの私はもう過去の私であって今の自分ではないので仕方がない。
 本心は呟き復活させたいもん。愚痴を吐く場所がなくてイライラするし、あったことをメモする場所にもしていたから日記を書くときにその日の出来事を思い出せなくてものすごく困る。
 けれども誰かを羨む自分が心から嫌いなのも事実。
 もう少し懐が広く、それでいて心に余裕ができるその日まで、人の姿が見えない場所で己だけと向き合っていようと思うのだ。

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