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プライドと諦めの狭間でぐだぐだ考える

 認知が歪んでいる。そしてその自覚がある。

 たとえば、私は学歴も学力も教養もなく、社会から逃げて生きてきた(生きている)ため、世界中の誰よりも頭が悪い。
 だから私が知っていることを知らない人間は誰一人とてこの世にはいないし、私ができることは誰にだってできる簡単なこと。
 仮に幼稚園児でも、私ができることは簡単にこなすことができる。
 もちろんそんなわけがない。さすがに幼稚園児には真似できない技術をちゃんと持っている。車の運転とか。
 だけど幼稚園児にできるけど私にはできないこともたくさんある。英語とか水泳とか。
 頭の良し悪しは基準があいまいなうえに人それぞれ知識の偏りがあるため、一概に評価することはできない。
 私は日本の県庁所在地の八割以上を知らない(かどうかもわからないほど知識がない)が、地元の地理はかなり細かくわかるし、観光客が知らないであろう裏道や近道をいくつか知っている。

 たとえば、私は自分のことを太っていると感じている。腹は出ているし足は太い。おまけに下を向くと二重顎が生まれる。
 だからもっと痩せないといけないし、今より太るのがすごく怖い。街で見る人もテレビで見る人もみんな細くて奇麗な人ばかりだ。
 もちろん思い違いだ。私は肋骨が浮き出ているし、BMIに当てはめて判断すれば低体重である。
 下っ腹は確かに出ているがこれは弛んだ皮で、ズボンのサイズはSサイズでもぶかぶか。つまり太っているわけではない。二重顎も弛んだ皮だ。足の太さはわからん。本当に太い。ウエストでズボンを買うと太腿と脹脛がパツパツになる。ひどいときは入らない。なぜだ。
 他人については、全体を見渡してみれば外でもテレビでも雑誌でも全員が痩せているわけではない。いろんな体形の人がいるし、タレント業の人は痩せていることが仕事の一部である場合がある。

 たとえば、私は常識がなく言動も不気味であるために、人から遠巻きにされたり嫌われたりする。
 会話をしたこともない相手から嫌がらせをされるのは、私の外見が気持ち悪いからであり、無意識のうちに非常識な振る舞いをしてしまっていたせいだ。
 んなわきゃない。常識があるかどうかはわからないが、少なくとも人よりはTPOに気を配って生きている。挨拶はするし、人の邪魔にならないよう意識を周囲に向けて外を歩く。年に数回は道を訊かれることもある。
 おまけにここ数年は近所のスーパーで野菜や見切り品を物色していると、二週間に一度くらいの頻度で見知らぬマダムに声をかけられ雑談するようになった。
 そもそも外見が気持ち悪いから嫌がらせをしてもいい、という考えを持っている人間のほうが非常識で不気味だ。
 もしかしたらその人は過去に誰かから、同じことを何度もされてきたのかもしれない。それでもアウトなものはアウトだが、こういう人は結構かなり存在している気がする。それなりの人数見てきた。

 ……まだまだあるけど、まあ、そんな感じで歪んだ認知とともに、相反した考えが同時に体の中に存在している。人格が分離しているとか、片方の思考を別の意識から客観視しているとか、そういう病的なことではない。
 単純に、心が屁理屈をこねて現実を受け入れようとしないのだ。
 理解していてなお受け入れないのは、それをしてしまったら、自分はただの怠け者であり嘘つきであるという事実を認めなければいけないからだと思う。
 前にも書いた憶えがあるが、『できないからやれない』が『できるのにやらない』に変わってしまうのがとても恐ろしい。
 実際の私は自分が後者だということをよく知っているからこそ、前者を手放すことができないでいる。そうすることによって、罪悪感や自己嫌悪がわずかに和らぐのだ。
 一番楽なのは『できるからやる』になることだということも重々承知している。でもやらない。
『できるけど、できないということにして、やらない自分を許容する』ということが不可能になるから。
 これが不可能になるのは怖い。とても覚悟がいる。なけなしの自尊心が完全に消滅してしまうかもしれない。
 本当になにもできなかった場合、できない自分を許せる自信がない。

 十年近く前、メンタルクリニックで似た話をしたことがある。
 できないからやらないのなら諦めも付くが、できるけどやっていないのがわかっているから、そんな自分を許せない、という話だ。
 医者いわく、そこまで考えてるのにやってないんだから、そりゃあできないってことじゃないのかい? とのこと。
 いやいやいや、違うんだよ……私はできるんだよ……本気を出したらできるけど、怠惰が勝ってやらないでいるだけのどうしようもない人間なんだよ……と訴え、その場は頑として譲らなかった。
 今もこの考えは変わっていない。

 自分への期待値が高い。
 自分の能力を客観視できていない。
 この期に及んで自分というものを諦めきれていない。
 自分には人並み以下の能力しかないと知っていながら、気づいていないふりをして、本当はできるんだという設定を変えることができない。
 オレはまだ本気を出してないだけ、というアレ。そう思い込んで運良く事が運んでくれるのを期待している。
 授業中に教室に何者かが侵入してきて、それを自分ひとりで制圧することによりヒーローになるあの妄想。あれがずっと続いている。
 何者にもなれない自分を受け入れる、という人生における通過儀礼みたいなものがある(のかもしれない)けれど、そのさらに下位にある、『何者でもない自分にすらもなれない自分』を受け入れる必要がある。
 いわゆる普通のレールから外れてしまったことによって、何者でもない存在にさえなれなくなってしまい、そのことを悪足掻きのように否定し続けているのが現状。

 うーん、うーん、難しいな、この感じを言葉にするのって。
 普通というものに執着している、というのはある気がする。
 普通になりたいと思って図書館に通ったり、普通になりたかったと布団の中でひっそり泣いたり、そんなことばかりの毎日。
 あとなんだかんだで、結局自分のことが思いのほか好きなのかもしれない。だから人並みというものを諦めることができないのではないか。悪い意味での自己愛の強さ。
 私の場合はたぶん、幼いころの自分が可哀想で見捨てられないのだと思う。あんなに必死に生き延びてきたのに、その結果がこのザマなのはあまりに可哀想だ。あと親に対する罪悪感?
 そのへんが面倒な感じに入り混じって、人並みを諦めるのなら代わりになるなにかを見つけるなり得るなりしてからでないと駄目だ! となっているのかも。

 でも諦められないよなーーーーーーーーーーーー
 買ってもいない宝くじで七億円当たらないかなって思うし、偶然目の前を石油王が歩いていて、ハンカチを落として、それを私が拾って、そのハンカチが実は命にも代えがたい大切なもので、石油王はそれを拾った私に大層感謝して、お礼として油田を一つもらってくれないか、いやぜひもらってほしい、と言うのだけれど、それを持っていても私はどうすることもできなくて困るからと断り、ならばこれを代わりにと金額の書かれていない小切手を差し出してきて、私は「じゃあこれで」と10ドルと書くものの、石油王は「HAHAHAHAHA! ナイスジャパニーズジョーク!!」と追加でゼロを10個書き足す、みたいなことが起きる可能性だってゼロじゃないんだ……ほら、トンネル効果的な……可能性は無限大だから……壁だってすり抜けられるかもしれないじゃん……

 んんんんんんーーーーーーーーーーー
 チャンスを諦めきれないよおおおおおおおおおおおおおお
 でも一発逆転を狙いたいわけじゃないんだよおおおおおおおおおおおお
 普通になるきっかけが向こうから転がり込んできてほしいだけなんだよおおおおおおお
 それがめちゃくちゃ難しいんだよおおおおおおおおおおおおおおお
 集めたら願いが叶う玉とかどっかにないかなああああああああああああああ

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