自分を責めちゃうASDへ
自分の世界を壊された痛み
ある時、発達障害の傾向のある人が、自分の勝手な論理で相手がいかに酷い人物で自分はいかに傷つけられたかを言い募り罵倒する場面を目にした事がある。
その時わたしは「どうして貴方はさも自分が被害者であるかのように振る舞い、他者を裁き傷つけるような事が出来るのか」と不思議に思った。
きっとその人は、自他境界(バウンダリー)が緩かったのだ。
世界は自分の為にあり、世界は自分の思い通りになるべきだと思い込んでいる。
子どもの頃はみな多かれ少なかれこのような”全能感”を持って生まれるものだけど、多くの人はそのうちに気づく。
人それぞれに見ている世界が違うのだと。
だが自他境界が弱く他責思考が強い人だと、相手が気に食わなかった時他者を思い通りにする為に攻撃的な振る舞いに出る事がある。
そうつまりその人実は、「ショックを受けている」 のだ。
思い通りになると思っていた世界が、自分自身に牙を剥いてきた事に。
次の瞬間、わたしはハッと息を呑んだ。
わたしはこの人と、おなじだ。
その人は自分が加害者側であるにも関わらず、頭の中では相手に”自分の世界を壊された痛み”を抱いていたんだ。
そして身勝手にもそれを相手にぶつける事で、世界をどうにか変えてこの痛みを少しでも和らげようとしているんだ。
そしてその感覚を、わたしも同じように感じた事がある。
”自分の世界を壊された痛み”
わたしはずっと、この痛みと共に生きてきた。でもわたしの場合、この痛みの解消方法は彼らと違っている。
同じ点と違う点。
今回はここに焦点を当てて記事を書いていきたいと思う。
自分の"世界"しか見えていない人
わたしたちASDはバウンダリー(自他の境界線)が緩い。
それによって他人や社会が許せなくなってイライラしちゃう事ってあるよね、って話をこの前したよね。
この感情が行き過ぎると、わたしたちは時として人を傷つけてしまう事がある。
例えばこのツイート
このように他害する人は時として自分の方こそが被害者だと思い込んでいるケースがある。
この「信じていた世界に裏切られた」という身勝手な被害感情が激しい怒りとなって、時として裏切った世界へと牙を向く事がある。
普通の人なら「まあ、拒絶される事もあるよね。それぞれ違う人間だもの」
と割り切るところが、バウンダリーが緩い人だと
「相手は自分と同じように世界を見ている(認識している)に違いない」
と思い込んでいるから、ちょっとの違いに痛みを覚えて
「なんでそんな事を思うんだ!ありえない!」
と認知的不協和※を起こして「許せない!」になる。
悲しいけどASDの中にはそうやって無自覚に自分は被害者の立場から相手に過度な要求を突きつける形で相手を責めてる人たちもいるよね。
例えば私たちの身近な例で言えば高圧的な父親やヒステリックな母親なんかは、バウンダリーが緩く身内に攻撃的な人としてある人の人生には登場しているかもしれない。
彼らはいわば、他者に対して依存し、過度な期待をかけているとも言える。
それが近しい存在ー自分の子どものようなーであればあるほど、不躾にも自分の理想を投影していくる。
なぜ彼らはそうなったかと言うと、普通の人ならば「人それぞれ見えてる現実は違うよね」って事を理解しているんだけど、ASDには自分の世界しか見えていない人が多いから。
これを他者視点取得※というんだけど、これを柔軟に取り入れるのが苦手な特性がわたしたちASDにはある。
自分の見えている世界が全てで、他者には他者の世界がある、と言う事を理解できるようになるには実は相当な時間と経験、知識と訓練が必要になる。
ASDはこれを生まれつき持ちにくい為、特別な訓練や指導を受けない限り
「みんなわたしと同じ考え(彼彼女が考える正しさ)を持っているはずなのに、なぜ正しく(自分の思い通りに)動いてくれない?」
という怒りと困惑で何度もつまずく事になる。
これは周りにとってストレスなだけではなく、本人にとっても過大なストレスになるんだろうね。
これの対処法については前回の記事を参考にして。
ここまでが前の記事の補足ね。
ここから先が、今回の記事の要。
バウンダリーが緩いと他者に過度に期待を掛けてしまい、拒否されると「裏切られた」という激しい感情を勝手に抱き、人を責めてしまう人がいる。
それに対して同じくASD当事者のわたしの場合、「世界から拒絶された」強い痛みや深い悲しみを感じる場面は多くなるが、だからといって他者を責める方向へ痛み解消の為の攻撃性が向かう事は滅多にない。
だがその痛みと攻撃性は、別のベクトルへと向かっていたのだ。それは
”自分自身”へ
それは例えば何かが上手くいかなかった、出来なかった時に自分自身に対して感じる
「なんでももっとちゃんと出来ないの?」という自責の念ー自分で自分を責めてしまう感情だ。
攻撃のベクトルが自分へと向かう人
わたしの場合、世界や他人に拒否された時に感じるその激しい痛みは、他人や社会よりも自分自身へと向かい、「そんなのおかしいから自分自身を変えろ」という自分を攻撃する大きな圧力となる。
一見、それは内省的で環境に適応しようとする合理的な行動に見えるがその実、心の中には「そんな自分はおかしいから変えなければいけない、許されない」というとてつもない葛藤が生まれる事になる。
つまり両者は向かうベクトルこそ違えど、認知的不協和が生じた時に「そんなのおかしいから変えろ」と”何かを攻撃している”という点で、他者に攻撃的な前者と、自分に攻撃的な私は何ら変わりはないと言うになる。
[ここまでまとめ]
バウンダリーが緩い人は、認知的不協和を起こすと強い痛みと共に「許せない」という感情に頭が支配され、攻撃的になる。
その矛先が他者に向かう人は被害者仕草で他責し、
自分に向かう人は自罰的になり、
あるいは「相手が悪い」「自分も悪い」と両方起こる事もままある。
両者は怒りを向ける矛先が相手か、自分かの違いでしかなく、その攻撃性が生まれる過程の精神構造は全く同じなのではないか。
内なる批判者
前回の記事で、バウンダリーが緩く他罰的に振る舞ってしまう人の場合、その対応策として「アドラーの課題の分離が有効である」と書いた。
相手が間違っているように感じたとしても、それは相手の課題だから、自分は深く介入したり口出しせず放っておく、というもの。
前回の記事はこちら↓
そして今回は、
「自罰的で自分を責めがちな人は、どうやって”内なる批判者※”を分離したらいいか?」
という話だ。
わたしは幼少期からこの者を”裁判官”と呼んで長く対峙し続けてきた。
内なる批判者との付き合い方
『このような”内なる批判者”をのさばらせない為に、相手との間にバウンダリーを設けるだけではなく、自分との間にもバウンダリーを設ける必要があるのではないだろうか』
というのが今回の記事の提案。
その為に『自分と内なる批判者との間にもバンダリーを設け自己批判をやめる意識を持つ』事が凄く大切だと思う。
セルフコンパッション
その為の考え方として、いわゆるセルフコンパッション※が有効だと考える。
つまり、「自分で自分に優しく接する」って事ね。
マインドフルネス
次にこのセルフコンパッションを行う為の方法を、今回は2つ提案します。
一つはマインドフルネス※、
もう一つは認知行動療法※ね。
要は”今”を深く味わい、ありのままに受け入れる、って事。
その為の訓練方法がマインドフルネスね。
本記事では特にこの中の「思考を観察する」が有効だと思い紹介しています。
認知行動療法
また認知行動療法も有効とされる。
これは自分の思考をモニタリングして自分の認知の歪みに気づき修正する為の方法。自意識から少し遠く離れた視点をもって評価、修正する点がおすすめで紹介しました。
自分との間にもバウンダリーを設ける
とここまで書いてきたけど要は「自分の思考から少し距離をとって、ありのままを受け入れ、今に集中しましょう」ってことだと思うんだよね。あんまり真面目に深く考え込み過ぎないでさ。
他者との間にバウンダリーを設ける必要性は何度も唱えてきたけど、自分との間にもバウンダリーは必要だと思うんだ。
自分に近づき過ぎず、期待し過ぎず、大切な人として大切に扱う意識。
その為の方法としてわたしが実践しているのは
何が起こっても視聴者目線で自分の人生を面白がること。
その為に自分の人生を実況中継してみると、自意識を俯瞰して見る事が出来て気持ちも落ち着くから、おすすめ。
まとめ
"世界"は絶対だ。
自分が見て、触れて、関わるこの世界は"絶対"。
わたしたちはしばしそんな感覚に陥る事がある。
だから、"世界"に拒絶されると、激しく動揺する。
世界=自分自身だから、自分が全否定されたような気持ちになるんだ。
その動揺や絶望の矛先が相手に向かうか、自分に向かうか
バウンダリーが緩く世界に過度な期待と絶望しがちなわたしたちは、
相手を責めたり/自分を責めたり、ベクトルが違うだけで、何かを攻撃せずにはいられないという脅迫観念を抱えている点では一緒。
"世界"は、たった一つなんかじゃない。
人の数ほど"世界"はあるのに、バウンダリーが緩いとそれが理解できない。
バウンダリーが緩いと[他者や自意識]と[自分]を同一視してしまい、そこに齟齬が生まれると認知的不協和から強い不快感や疎外感を覚える事になる。
その不快を解消する為に、人を変えようとしたり、自分を変えようとしたりして他責したり自責したりしてしまうけれど、
実はそのままでいい。変える必要などなかったんだ。
ただ、"距離"を置く事。
他人にも自分にも期待しない
あるべき姿を要求しない
変えようとしない
責めない
少し離れて遠くからそれを眺めながら、そのままを受け入れる
その結果得られるのがセルフコンパッション(自分に対する思いやり)に近い概念ーー手放すと言う事。
その為にマインドフルネスや認知行動療法がおすすめだけど、わたしは自分の人生の視聴者として自分の人生を実況中継する事で、自意識から距離をとって正気を保っている。
何が起ころうとも「面白くなってきたぞ」くらいのスタンスで
人生で消耗してしまわない為に。疲れてしまわない為に
今日から自分自身にもバウンダリーを設けよう。
最後まで読んでくれてありがとう♡₍₍ ◝(・ω・)◟ ⁾⁾♡
この記事面白かった!為になったって方は「スキ♡」おしてくれると嬉しいな。
またXもやってるから、リツイートや記事の感想コメント貰えると嬉しいです。
それじゃあまたね。
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