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不惑と知命

誕生日を無事迎えたので、年齢について思うことを書きたい。山籠もりのサンクスギビングとプレ・バースディの諸々はまた後日談にて。

気が付けば40歳を超えてもう知命を知るはずの50代だって見えてきた。46歳である。ちなみに私は、アラフォーとかアラフィフだのいう造語を嫌悪する。嫌いと書いたら気になったので調べたら、これAround の略でアラなのか。ますますイラリとする。Around [アラウンド]で、アラだけ発音しているのでは、ちっとも全然、Aroundではない。だいたい50とか、自分の年齢ぐらいはっきり言えや!……などと思うのだ。

Noteでも私はよく自分のことをババァとか、BBAと言うが、気に入って言っている。自分をババァ呼ばわりするのが。だって、ババァなのである、おばちゃんなのである。残念なことに、日本にいるわけでも、子供がいるわけでもないので、「おばちゃんは~」とか「おばちゃんが~」と子供(の友達とか)に対して話す機会もない。

アルゴは兄、弟と絶縁しているのでこちらには甥も姪もいない。いるのかもしれんが、会ったことがない。ので米人にAunty(おばさん)と呼ばれるチャンスもない。

日本にいる甥、姪たちは私のことをリンゴ(本名)さんと呼ぶ。『おばちゃんとかおばさんって呼んでよ!なんならおば様でもよくってよ!』と言ってみたが、「え~変じゃん?リンゴさんはリンゴさんじゃ~ん」と言われたので、「いやなんも変じゃないよ?我は君らのおばさんやぞ?」と言ったら、我とか、やぞ?とかおばさんは言わないものなのだと諭された。ほ~ん。

日本で甥、姪が産まれ、ぐんぐん成長していた頃、私は母親から絶縁されており、10年、日本の家族・親族とまったく連絡を取っていなかったので、まぁ確かにある日、やたらとデカくて陽気な黒人男性を連れ、フラリと帰国した謎の中年女性に「おばちゃん!」と言うのも何となく収まりが悪いのかもしれない。それに甥、姪はアルゴの事を「アルゴさん」と呼ぶので、おじちゃん・おばちゃん、のセットではなく、彼らの中ではアルゴさん・リンゴさんのセットなのであろう。無念。

自分が年相応かと言えば、落ち着きがないので、そうではないと思うが、私は「今の自分」がとても好きなので若い頃はよかったとか、若い頃に戻りたいとはちっとも思わない。やったぜ、46歳。

むしろ、若い頃の過剰すぎる自意識とか、はち切れそうな見栄だとか、将来への焦りだとかそんな諸々を抱えて過ごしていた日々には二度と戻りたくない。自分は自分、他人は他人。そんな風に言える今の自分が好きだ。

自分のことが大嫌いで、自己肯定感とか自信とか皆無で、無力で無意味な存在だなんて幼い頃から思い続けて、10代で拗らせて、20代でどん詰まりになって、30代で3回死にかけた人間がこんなことを言うのだから、46年という月日の積み重ねは大したものであると思う。我ながら。

見た目はいい具合のババァっぷりだし、白髪はあるし、健康面に不安はあるし、代謝低下のため、ふくよか(プッ)ではあるけれども、そんな部分をまるっと含めて今の自分が好きなのだ。いや、デブなのはいやだけども、アルゴがそれでいい、それがいい、というので良いということにしておく。

20代、30代の頃、好きなことを好きなようにして生きて今がある。頭のおかしくなるような事件満載ではあったけど、私にしろ、アルゴにしろ、死ななくてよかったよね!みたいな側面もある。実際、臨死体験なるものをすると、色んなことへの見方が変わる。

我が家の犬たちは、朝目覚めるたびに、毎日、毎日、ものすごい勢いで尻尾をプリプリ振って、おはよう!おはよう!とでも言っているのか顔を全力で舐めてくる。『寝てる間、顔みてなかっただけじゃん?このカワイコちゃんめ!(にやにや)』と思うが、おそらく、起きて飼い主の顔を見ることがとてつもなくうれしいことなのだろう。

夜寝て、朝起きること。それは当たり前のことであって、当たり前ではない。目を閉じたまま開けない、開けられないことだってある。それが死というもので、その手前を3回も経験したわけだから、私もまた、夜寝て、朝起きて、自分の目が開いた時、犬たちとアルゴにおはよう!おはよう!と全力でごろごろ転がって挨拶する。

目を開けること、目をあけられたこと、それがうれしく、始まる1日が愛おしいのである。35歳の時に喘息大発作で死にかけた翌日から感じ始めたことである。まぁ、愛おしいとはいったけど、ダルい日もあれば、ぐったりしている日もあるわけだけれども。

しばらく前に1歳半下の弟と話したのだけど、自分が40になってもなんだか40という感じがしないし、40とか50とか言うのはもっと大人かと思っていたけど全然、そんなことないねぇ。と言う私の言葉に『そらぁ、お前。昔の人って寿命が短かったのもあるし、システムとか違うわけだから背負うものとか違うわけじゃん。戦争とか戦後復興とか経験してる人らの40代とかさ、明治大正の40代とかさ、そら違うよな。命の重さというか、死ってのが今より身近にあったわけで』などと言っていた。なるほど。弟は年下なのだが、兄のような言動をよくする。

論語に由来する年齢を称する語句がある。そもそもは男性のみに当てはめられていたものらしいが、お馴染みのフレーズのアレ。タイトルもソレ。それを挙げながら自分の人生を振り返ってみたい。なぜか20代を表す言葉がないのだが、20代の諸々はこれまでのNoteでうっとおしいほどに語りつくしているので省略。

志学(15歳)、吾十有五にして学を志す。これは当たっているような気がする(当たる、外れるとかいう問題でもないだろうけど)なんせ、14歳で初めてアメリカにホームスティした後、アメリカで学校に行きたいと思ったのも、がっつりどっぷりヴィジュアル系バンドという沼にハマったのも15歳の頃である。家から離れた私立の学校に行かされたので、家を出たのもこの年。考えてみれば、親と暮らした年数より、アルゴと暮らした年数の方が長いのである。

而立(30歳)、三十にして立つ。30歳になって学問の基礎ができて自立できるようになったという意味らしいが、これも当たっている。院でごたごたあって、なにやかんやで自力のみで働き、暮らせるようになったのは30くらいの時である。普通よりうんと遅いスピードだけど、なるほど、孔子。すごい。孔子だって私なんぞに言われたかないだろうけど。

不惑(40歳)、四十にして惑わず。40歳になると心に迷いが無くなったということだが、うむ……これはどうなのであろう。毎日、毎日、迷ってばかりで困ってしまう。むしろ、迷ってしかいない。

知命(50歳)、五十にして天命を知る。50歳の時、天が自分に与えた使命を自覚した、ということらしいが。どうなるのであろう。使命ねぇ。見つかるといいなぁ。

Noteに書き記している私とアルゴの日々と言うのは、本当にありえん……というようなアップ&ダウンの連続で。私たちは意図して子を持たない夫婦になったわけではないけれど、毎日、二人で生きることだけでいっぱい、いっぱい過ぎて、子供を持つことができなかった。

ここ数年、私の中にあった大きな迷い、悔いのようなものはここに渦巻いていた。

子を為さなかったことを悔いていないと言えば嘘になるし、アルゴもまたずっと子供を望んでいたから、そのことで何回も、何回も喧嘩になった。お互いがお互いに激しすぎる暴言を吐き散らかして、私も、彼もボロボロになるまで傷つけあい、落ち込んだりしてきた。

何より、周りの人たちに、20年も一緒にいるのに、あなたたちはそんなに仲良しなのに、なんで子供がいないの?と善意で言われるたびに、私たちはどす黒い気持ちになり、喧嘩を繰り返してきたのだ。

でも、何をどう考えても、ほぼ狂ったような毎日の中で、私には子を持つ余裕など全然なかった。気持ち的な意味でも、身体(健康)的な意味でも、そして経済的な意味でも。

誕生日の数日前に、アルゴと話していて『子供がいないことでアンタは自分を責めるし、俺の過去も責めた。俺も俺でアンタにずいぶんひどいことをしてきたし、苦労をかけたと思う。俺は本当にクソ野郎だと思う。アンタに今、幸せかって聞けば、幸せって答えるけど、本当か?と思えるくらいに俺はアンタにひどいことをしてきた。なんでアンタが俺といてくれるのか意味がわからない。現実的に考えた時に、これまでの暮らしの中で俺たちが子を持つことは本当に難しかったと思うし、無理だったとしか思えない。そういうことをようやく受け入れられつつある。俺らは幸せだけど、子供ということに関しては、船に乗り遅れちゃったってそんだけのことなんだと思う。ボートを逃しちゃったんだ。だから子供の話はもうおしまい』と、言うようなことを言われた。

船に乗り遅れた……なるほど。そう思った後に、不意にジブリ映画ポニョの船と夫婦と赤ちゃんのシーンをぼんやりと思い出した。その会話をした後から数日して誕生日を迎えた。私の、否、私たちの大きな迷いのようなものは、この会話で少しだけ落ち着き先を見いだせた気がする。今年もアルゴは色々、誕生日プレゼントを用意してくれたのだけど、この会話が一番のプレゼントだったように思う。

好きなことを好きなようにして生きてきた、と前述したが。例えば、親に絶縁されたこと、子供ができなかったこと。これらの事は、もしかしたら私が何か、もう少し別の所で頑張っていれば、どうにかなったことかもしれない。だが、ここにくるまで、私はできるだけのことをしてきたし、精いっぱい生きてきて、振り返れば、どうやって生きてこれたのか……どうやって私とアルゴの関係は20年を超えることができたのか……と謎だらけなので、やっぱり無理だったのだと思うし、そう思うことを後悔はしたくない。だからそのうち、子を為さなかったことについてもそんな風に思えたら良いなと思う46歳という新たな日々なのである。

Noteを見ていると沢山の人が、沢山の人生指南や啓発記事を書いてらして、私はただただすごいなぁ、立派だなぁ(語彙よ……)と思うし、ためになることをいっぱい学んだし、毎日、何かしらのNote記事から元気やひらめきみたいなものをいただいている。私は自分がそういう指南をするようなガラでもないので、なんともかんともなのだけど。それっぽいことを〆に書いてみる。

好きなことをして好きなように生きるということは、同時に、あきらめなければならないこともいっぱいあるということ。そして、そのあきらめたもの、切り捨てたものに対して、後ろ髪をひかれるような後悔を持たない、ということが、好きなように生きることではなかろうかと思う。もちろん、大人、というか、人としての責任をもって。

下した決断に後悔を持たないなどとは、言うことは簡単だが、実際のところ、非常に難しい。例えば、私は自分の夢をあきらめたけど、それを後悔はしていない、と言い切るまでに10年以上の時間がかかった。アルゴにしたってパフォーマンスアーティストという夢をあきらめてから、新しい夢をみつけるまでに15年くらいの時間がかかっている。

あの時の決断が間違いではなかったと言い切り、そして確信を持つためには、何かをあきらめた時、切り捨てた時、それから先のことを見据え、少しづつでも前を向いて、自分に嘘をつかずに生きることだと思う。

やっぱりあの時〇〇しなければ~とか、あの選択は間違いだった、なんて思う日があっても(そんな風に思う日はあるのが当たり前のことなのだ)それを覆すために、自分とは?自分の幸せとは?なんてことを考え続け、自分にとって正しく、そして最適のチョイスであると思えることを取捨選択して生きていくことが、結局のところ、「好きなことをして、好きなように生きてきた」と言えることのような気がする。

↑ ここで、きっちりと、『なのである』とか『そうすべきである』、『ガンバロウ!』などとと言い切れないあたりが、私が迷ってばかりいる、ということの由縁であり、啓蒙啓発系のNote記事を書いたりする柄でも器でもない理由。なんせ私は、迷いっぱなしのババァなのである。

嵐山光三郎著作『不良中年は楽しい』では著者が、50歳を過ぎたら「マジメ人間よ、目ざめて不良になれ」とけしかけるのだが、私はあまりマジメ人間ではなかったので、不良中年になれるかは謎。だが、不良中年、言葉に憧れてれいる。いいじゃない、不良中年。チョイ悪なんて中途半端である。不良中年、響きが素敵ではないか。筆者によると、「人生は遊びだ」そうつぶやけたとき、あなたは不良中年の第一歩を踏み出している。だ、そうなので、知命に達するころくらいあたりにでもそう呟けるババァになりたいものだと思う今日この頃である。

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