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Review 3-Poetry Review 種田山頭火 【逆輸入日本話】

Youtubeでの配信の折に話したのだけど、米国で暮らしだしてから知った日本のこと、文化だとか歴史だとかが沢山あって、種田山頭火という俳人と彼の作品もそのひとつ。今回は「英語の俳句と種田山頭火のレビュー話」。

Noteでもちょこちょこ書いているけれど、夫アルゴは詩人でもあるし、私はそもそも詩などを好んで読んでいるのだけど、ESL(外国人用英語クラス)にいる頃、自分の国の文化を紹介する的なプロジェクトがあり、そこで私が選んだのが俳句だった。その時に使用したパワーポイントが出てきたので、そこから抜き出しつつの記事にしていきたい。

何で俳句だったのか、理由はさっぱり覚えていないし、むしろ、別に俳句に詳しいわけでもないのに、当時の私が何を考えてトピックに俳句を選んだのかは謎である。本当に何でだろ……

This straight road, full of loneliness.
(まっすぐな道で さみしい)

このあまりにも有名すぎる山頭火の俳句。英語俳句で最も有名だと言っても過言ではないらしい。山頭火は、大正期から昭和初期に活躍した俳人の一人。彼の句の特徴は一切の技巧や約束事を排除し、自分自身の生の気持ちを表現するところ(=自由律俳句)なのである。

これは私の偏見であるのだが、おそらくこの山頭火の俳句が英語圏で有名なのは、自由律俳句であるゆえであると私は思う。

5・7・5の17音であること、季語を入れること、余韻を残すこと、切れ字(や、け、かな、といった切れを入れるための文字)を入れること、係り結びをいれること(ぞ・なむ・や・か・こそ)などこれらの事を守り詩作するというのは、英語は構造的に難しいのではないかと思うし、俳句という短い文章に込められた奥深い世界というのは、日本語ゆえ、俳句が生まれた背景・文化故のものではないかと思うからだ。

An old silent pond
A frog jumps into the pond—
Splash! Silence again.

これはあの有名すぎるにもほどがある芭蕉の「古池や~」のアレなのであるが、Splash!って何よ。Splash!じゃねぇよ!だがこの「Splash!=切れ字」として紹介されてある。むぅん。そんな「!」とか反則じゃん。芭蕉もびっくりだよ。

お次は、こちらは与謝蕪村の俳句。

The light of a candle
Is transferred to another candle—
Spring twilight

燭の火を燭にうつすや春の夕
春の日の夕暮れ。燭台から燭台へと灯りをうつしていく。
明るくなった室内もまた春らしくのどかであることだ

まぁそうよな、キャンドルに火をつけるって詩だもんな、間違ってはいない。けれどなぜかしっくりとはこない。なんとなくカジュアルな感じになってしまう。キャンドルってクリスマス?それとも部屋の匂い消し?そもそも「しょくのひをしょくにうつすやはるのゆう」この響きが良きなのである。しょく。「燭光」「華燭」「銀燭」「紙燭」「手燭」直訳、キャンドルなんだけども!でもなんだか違うじゃぁないか。和蝋燭とキャンドルって違うと思う。同じものだけれども。ちなみに燭魚とかけば「はたはた」と読むらしい。ほ~ん。

お次は小林一茶。

A world of dew,
And within every dewdrop
A world of struggle.

露の世は露の世ながらさりながら
露のようにはかなく消えるこの世の営みであることはわかっているが、
この世は捨てがたいものである。
いろいろな楽しみ、人との交わり、自然のめぐみ、悲しみやつらいことも一つの人生、精いっぱい生きようではないかという。

これは日本語でも現代訳すると「ふぁっ!!(驚)意味、込めすぎぃぃぃ!一茶ぁぁぁぁ!」となるほどに長い解釈なわけだが、英語でDew(露)などと書かれると、私はMountain Dewという毒々しい蛍光緑の炭酸飲料しか思い浮かばないのである。なんか神羅万象、生きることのつらさと美しさを同時に読み込んだ句も、もう蛍光色炭酸飲料の売り文句にしか見えなくなってくる。

デカビタCとかなんかそういう味がするMountain Dew

というわけで、先にあげた俳句ルールを入れて英語で伝統俳句を作るというのは困難であると思う。因みに英語がネィティブである人にとって日本語というのは中国語に並び、最も習得するのが困難な言語なのだという。

これもまた私の超偏見的な感想であるが、俳句というのは日本独特の「察して文化」つまり、言葉にせず、いや、「言葉にしないがゆえに大事である」という事象だとか、本音と建て前といったような表立った言葉や表現の裏にある気持ちを読みなさいよ!という非常にセンシティブで複雑なあの文化の一部、もしくは源流なのではなかろうかと思う。句読点に意味を見出すといったような。

夫アルゴに連れられて行った詩の朗読会(バーやカフェなどである)でもこれからHAIKUを読みますって人が何人かいた。それを聞くたびに私は心の中で上に書いたようなツッコミを延々と繰り返すのである。

良いとか、悪いとかではない。単に文章・言語の構造上、俳句という文化をHAIKUとしてそのまま流用することは非常に困難であるが故に、定型にとらわれず、季語も切れ字も使わずに自由に詠む俳句に焦点があてられるのではないであろうかと思う。アメリカは、詩作・詩を作るというのが文化として根付いている国であるし。なんせ自由の国なのである。だから伝統俳句よりも自由律俳句の方が英語には向いているような気がするのだ。

……と、言うようなことを私は英語のクラスでプレゼンしたのである……

まったく今思えば、なんの知識もない小娘が偉そうなことを言っているものであるなぁ。くっ。

で、話を種田山頭火に戻そう。私は「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」という日記の一文を読んでから、彼の作品を読みまくった。自分の事を駄目人間と言い切り、つらつらと文章を綴るそれは、中島らも氏にも通じるような気がするし、リリーフランキー氏の昔のエッセイにも通じる気がする。

幼い頃に母親が目の前で自殺。酒癖によって身を持ち崩す。神経衰弱による大学退学、家業の倒産、父の行方不明、山頭火の家の店は経営難、弟の自殺、妻との離婚、自身の自殺未遂。お坊さんになりたいと言うも年齢を理由に断られ、托鉢の僧として行乞流転の旅をしながら俳句を詠んだ。享年は58歳。

今、自分が50がすぐそこという年になって改めて読んでみると、彼の俳句がどこまでも優しく、生に満ちていて、とても心地よいのである。生きるのに不器用で、生へのしがらみを捨てるために仏僧となって、それでも生きることやしがらみを捨てきれなかったのかなぁなどと思う。

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

これは母親の47回忌に作られた俳句。お米もないけれど、うどんを備えて母親の命日に一緒におうどんを食べるという晩年の作品なのだけれど。ずっと一緒に位牌を抱えて流浪の旅をしていたのだという。たったこれだけの言葉であるのに母を思う気持ちが溢れ出ている気がする。

酔うてこほろぎと寝ていたよ

すべつてころんで山がひつそり

へうへうとして水を味ふ

てふてふひらひらいらかをこえた

柔らかく、けれどまっすぐに響くこれらの俳句が特に好きなのであるが、日記もまた非常になごむ。ものすごい極貧生活だったらしいので、山頭火的にはなごまれても……って感じかもしれないけれど。

十月二日 犬に餅を貰う
十月五日 猫に御飯を食べられる
十月六日 猫の食い残しを食べる

と、こんな具合。野良猫、野良犬との交流が生き生きと描かれている。お酒をもらった、ラッキー!ごはんもろた!ラッキー!みたいな日記はもうただの駄目人間というか、ホームレスでアル中の人の話なのだけれど、私の中にもこういう弱さ、つまり「あぁ、なんたる駄目人間(嘆)」と自分を思う所や放浪に対するあこがれのようなものがあるから惹かれるのだと思う。私は仕事を退職する日が来たら犬たちと夫アルゴとキャンピングカーにでも乗ってさすらいの旅をしたいのだ。

種田山頭火の日記や作品は、青空文庫にて読める。短く、読みやすく、そして心に響く作品が多いと思うので是非読んでいただきたい。私もこのNoteを書くにあたり、再読している今日この頃。

最後に。これはアルゴが初めて作った俳句。「何を考えても、英語で俳句を作るというのは、伝統的なルールには従えないため、このようなものを作ってみたのだが、どう思うか?」と言われた作品。原文ママ。

たんぽぽが さんせいうの おふろにはいってる

どこで「さんせいう」酸性雨なる言葉を知ったのかは謎であるし、込められた意味は「あぁ、春がきたなぁ。たんぽぽが咲いているよぉ」と言っていたので、当時は「お、おぉぅ……かわいらしいな!」くらいの感想しかなかったが、今改めて見ると、え、なんかちょっと山頭火っぱくない?とニヤリとしてしまうのだ。

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