安土城の石仏

安土城跡の正面の階段、大手道を上っていくと階段に使われている石の中には石仏を使ったものが多く見られます。安土城を築城する際に大量の石が必要で石材が不足したために石仏や墓石までも徴用して材料に使ったのだとか。前にも書いたとおり私も一度安土城に行ったことがあり、この階段に使われた石仏を実見しています。私は安土城に行く前からその逸話を知っていたので、実際に階段を上っていて石仏らしきものを見つけて感動していました。ネットで見ると今は当時よりも階段に石仏の所在を示す看板が多く出ているように思えます。当時は何も表示されていないものが多く「ここにもあった!」みたいに石仏を見つけながら上って行ったものでした。織田信長といえば教科書にも出てくる比叡山焼き討ちや、石山本願寺を長年に渡って攻撃し、また武田氏を攻めたときには武田の残党を匿った恵林寺を焼き討ちして快川和尚を焼死させた有名な事件もあります。キリスト教の宣教師を優遇したのも、敵対する仏教勢力を牽制するのが目的の1つだったとも言われており、織田信長は仏教を嫌って弾圧していたというイメージがあります。で、実際にどうだったのかということになると、まず前にも書きましたが安土城の中には現在も総見寺というお寺の建物が残っています。総見寺は信長が安土城を築いたときに一緒に造られたようで、安土城で信長に謁見しようとする武将は総見寺の境内を通らなければならなかったという記録が残っているようです。総見寺は本格的な伽藍を有する寺院だったようですが、城郭内にそのような大規模な寺院があるのというは他に例が無いようです。階段に石仏を使うようなことをしていながら城郭内にそのように立派な寺院を造るというのは矛盾していますね。また、安土城内部の障壁画には仏教をテーマにしたようなものもあったようです。信長と仏教との関わりといえば安土宗論が知られています。これは安土城下で信長の斡旋にて行われた法華宗と浄土宗の論争でした。これは信長が排他的な法華宗を嫌って法華宗が敗れるように仕組まれていたとも言われていますが、いずれにせよそんなところに介入しているのも、仏教の弾圧者というイメージとは全く違った一面です。また、先に信長が法華宗を嫌っていたという話を書きましたが、信長が気に入って何度か滞在していた本能寺は法華宗の寺院です。当時の寺は現在でいうところの旅館、ホテルのような役割も果たしていたようなところもあったのと、当時の本能寺は周囲に堀を巡らした要塞のような造りだったようで信長が本能寺に滞在したのは安全上の理由もあったものでしょう。また本能寺の地下には大規模な煙硝蔵、要するに火薬庫のようなものがあり信長が鉄砲や火薬を備蓄していたので、本能寺の変で焼かれたときには大爆発を起こしたという話もあります。色々書きましたが、結論としては織田信長は少なくとも仏教の弾圧者ではなかったということだけは間違いない、と私は思っています。

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