無題(生活への介入、恋、それから)

 食器を洗いながら、恋について考えていた。
 遠距離の恋人を思うのと、空想上の恋人を思うのは、何がどう違うだろう、どこに共通項があるだろう。
 最初に思いついたのは、「空想上の恋人とは電話はできないな」、だった。ひとりでご飯を食べているとき、今目の前にいない人のことを考えることはできるかもしれない。「あの人は今何をしてるだろう」「晩ご飯は何を食べるのかな、ちゃんと寝られてるかな」とか。自分の思考の中に、他人の生活が入ってくるのは、好きな相手のことならどことなく嬉しい。少しだけ寂しくもあるけれども。それは遠距離でも空想でも、あんまり違わないのかもしれない。

 今朝は、昨日作っておいたスープを食べた。昨日の夜、ものぐさして流し台に置きっぱなしだったお皿と一緒に洗う。少し油が多めについていた皿は、油が落ちるように二度洗いする。昔バイトしていたカフェで、オーナーに口酸っぱく言われてから、食器の油分はきちんと確認して洗い流すようになった。

 一息ついてパソコンに向かう前にお茶を淹れる。数日前、頂き物の緑茶の茶葉の封を開けたばかりだったのでそれを使う。緑茶も紅茶もコーヒーも好きだ。緑茶の茶葉を入れる茶筒をこの数年探していて、数か月前にやっとしっくりくるものを探して手に入れた。ステンレス製で、香りがつきにくく、密封性が高い茶筒。紅茶の茶葉はガラスのものを気に入って使っている。コーヒーは1杯ずつドリップできるパウチのもの。
 茶葉がまだ新鮮なので、急須にお湯を注ぐとしゅわしゅわと小さい泡が出る。お茶を淹れるときの音が好きだ。基本的に水の音が好きなのかもしれない。水に触れていると思考が淀みなく流れるので、停滞して鬱屈しにくく感じる。だからたぶん、お風呂に入ってるときとかトイレにいるときは物事がひらめきやすくなるんだと思う。料理をしているときや食器を洗っているときも、脳みその淀みがとけていく感じがする。あと、洗濯機の音を聞くのも好きだ。洗っている渦を見るのも好き。

 思えば、急須も気に入ったものをやっと見つけたのを、10年ほど愛用している。数年前に蓋を割ってしまったので、かわりになるものを探して、今はカップ用のほこりよけのシリコンカバーを上にのせている。これもデザインをいろいろ見繕って選んだ。
 基本的に、家の中に迎え入れる物は、自分のお眼鏡にかなったものでないと気が済まない。食器も、食材も、洋服も、日用品も。この前は箸を買い替えたくて、いろんな店をのぞき込んでは数ヶ月吟味した。やっと気に入ったものを見つけたので、同じシリーズのものを全種類買い揃えた。でないと、次にいつ気に入った箸が見つかるかはわからない。
 そういう意味で、恋人を選んだときも、自分の生活に介入する存在なだけあって慎重になったように思う。そこまで恋多き人生ではなかったので、とても新鮮だった。

 今日の晩ご飯は、野菜と厚揚げと肉を炒めたものにする予定で、それに取り掛かるまではお茶を飲みながらパソコンに向かう。そしてたぶん、料理をするときには、また恋のことを考えてしまう。ここに相手の身体はないのに、生活に介入してくる図々しい存在であることと、その存在が自分の中で予想以上に大きいことに、少し驚いている。

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