立ち続けるために必要なこと
私は今、二十九歳だ。残りの稼働年数は、おそらく五十一年ほどだろう。
今は人生の半分も生きてない若造だけど、そのうち人間でなくなっていって、最終的にはこの世界のどこにも痕跡が残らない。
この世界に生まれ落ちたために、私を含む全ての人間が避けられないテーマ、それが「死」。
今でこそ軽くはなったものの、私はそれをずっと恐れている。
今回は、その恐れを抱くことになった経緯の解説と、その対処の一環である。
夜に駆ける若い人たち
どうしてかわからないけど、若い人たちは死ネタが大好物だ。
若きウェルテルの悩みを読んだ若者は、主人公と同じように身投げをしたという逸話が残っている。
有名人の自殺のニュースが流れるたびに、ほんのりと自殺者数は増える、というのもある種一定の需要がある結果なのだろう。
私が「死」を身近に感じたのは、十一年前に亡くなった有名人の自殺のニュースだった。
当時私は実生活のごたごたがあって、これからに対する不安が目の前に転がっていた。
生来の下手くそな生き方もそうだが、大地震で引っ越しして、ようやくアルバイトを初めて……そんな中迎えた五月。
私の4つ上のアイドルだった。貧乏な家庭出身であるものの、はつらつとした笑顔と明るさを売りに芸能界で戦っていた。
家が貧乏、という共通点。姉と同い年。実はちょっとだけそのアイドルに好感を持っていた。
そのアイドルが、自宅で首を吊って死んだ、なんてニュースを見ていた。
そのアイドルは将来に対する強い不安を感じていた。
当時二十歳の私は大いに共感した。しすぎてしまった。
「自分もこうなるかもしれない」
とあるゲームに出てくる死神がいる。その死神は使い魔で、主人公の心を象る虚像でもある。
そこまでかっこよくない、典型的な、ローブを纏って鎌を持った、下半分が見えない骸骨が、私の肩を叩いた。
ここより数年前は死ネタが大好物だった。ファッションのように死にたい、消えたいと口にしていた。
そこにわずかながらに漏れ出していた、底知れない恐怖が、突然形を持って目の前に現れたのだ。
タナトスくんといっしょ
形ができた死神に、私は恐怖していた。
仕事は手がつかなくなり、眠れなくなる。ストレスが止まらず、発散のために嗜好品に食らいつく。そしてまた体調を崩す。
そんな生活から抜け出せなくなった。
好きだった天文学や、歴史の話に触れたくなくなった。
だいたい150年ぐらいの年月の長さを感じるたび、心臓が止まるような思いをした。
吹き抜けの二階が恐ろしくて仕方なかった。
ここから落ちたらどうなるんだろう。私はもしかしたらそんな馬鹿な勘違いをしてしまうんじゃないのか?
そんな考えが現実性を持って私を蝕んだ。
橋を渡るのも恐ろしくて仕方なかった。
落ちる、絶対に落ちる。怖い。でも真ん中は車道だ。出来るならそこを這っていきたい。でもそんなことできるわけがない。
寒空の中、ストレス解消に出かけたはずの一場面だ。
どんな理由であれ、芸能人の訃報はその反応も含めて全てミュートワードに設定した。
暇つぶしのSNSのはずなのに、唐突に自分の恐怖を引っ張り出してくる対象を、見たいと思うわけがなかった。
時折引っかからなかったニュースで、やはり心臓が止まる思いをすることも多かった。
うっすらと感じる「死」を、死神は的確に拾って私の眼前に差し出す。
そんな死神に対抗するため、私はこの死神に名前をつけた。
「タナトスくん」だ。ギリシャ神話の死神の名前。さっき挙げたゲームの死神の元ネタでもある。
スタイリッシュに鎌をぶん回す、かっこいいやつだ。喋ることはないが。
そうでもしないと、この死の恐怖から逃げられるとは思えなかった。
当時は逃げ切ることなど夢のまた夢で、常に何かをすることでタナトスくんを意識しないというのが現実的な対策だった。
今はどんな恐怖もいずれ過ぎ去ることを覚え、不安やストレスの少ない生活を実現できたためにめったに現れることはなくなった。
それでも唐突に現れることはある。仕事中だろうと自転車を漕いでる時であろうと関係なく。
結局のところ、私はこの死神をうまくやりこめる方法を覚えただけだ。
おそらく今も私の肩の後ろでにっこりしながら、私の心臓を掴んで、私の首に鎌をかけている。
「つながり」と「ひとやすみ」
私がこの死神と対抗する手段を得ることができた理由はいくつかある。
その1つに、友好関係が挙げられる。
当時の私は、現実でのつながりが「全て」(本当に文字通り全てである)うまく言っていなかった。
無敵の人、なんてワードが流行った時期もあった。私はその無敵の人予備軍だった。
誰も頼れる人がおらず、家族と一緒に暮らしているはずなのに、常に孤独。こんなことを語れる人などどこにも存在しない。
当然、私はニートになっていた。
そのニートであった間に、ネット上でTRPG―基本のルール以外は参加者が持ち寄って楽しむ、アナログなロールプレイングゲーム―をプレイする仲間ができた。
この人達とのロールプレイで、自分の中にあった吐き出しきれない感情を、少しづつ吐き出すことができるようになった。
もう数年来の仲になる。彼ら彼女らの存在が、居場所を確認できる機会になった。
何かあった時に相談に乗ってくれる人がそこにいたのだ。
これに気がついた時の体験に勝るほど、安堵を感じたことは人生で一度もなかった。
もう1つは、何もしないこと。文字通り、何もしないことである。
私はニートの間、何もしなかった。共に暮す家族が何を言おうとも、何もしなかった。
何もできなかった、のほうが正しい。ただ、もう生産性のあることなんて一切せず、ひたすらに休み、時に遊び、また休むことを繰り返した。
一日の大半、身体を起こさずにスマホを眺めるのが基本。
自助なんてする余裕などない。本当にひたすら、じっとしていた。
その代償として、基礎体力は恐ろしく低下した。実質寝たきり生活と変わらない日常を送っていたこともある。
だが、そこまでして集中的に休まなければ、行動することさえろくにできなかったのである。
誰かと信頼できるつながりを持つ。
一旦全て投げ出してひとやすみする。
この二つが、今なんとか生きていくことのできる大きな理由だ。
死を恐れるということ
実はこの話、死をネタにしてもうすこし鬱屈してる話をするつもりだった。
全く生産性のないことをしようとしたのだが、生に関する話にいつの間にか切り替わってしまっていた。
でも、健康な人間ならそれが当たり前であるように思う。
確かに死は誰にでも等しく訪れるモノだが、それよりも明日のことが気になるし、今日がどうだったかの方が気になるのが生き物なのだ。
とはいえ、ここまで「生きているぞ」アピールをしても、まだ死神はそこにいる。
それが現実であり、私は文字通り死ぬまでこの死神とうまくやっていかなくてはならない。
恐怖、不安、焦燥。私の死神が大好きな感情だ。
これは同時に、身体のどこかが悲鳴を上げているサインでもある。
この感情の対処にリソースを注いだ方が、早く心の調子は戻ってくる。
つまり、さっさとやることやって何もしないで寝るのが一番だということを、最近知った。
こんな風に自分の感情の正体を精査するのも、悪いことではない。
私は死神と付き合いながらうまくやっていくつもりである。
件のゲーム(ペルソナ3というゲームである。名作)のように、鏡に写した自分をいたわって、自分を大事にする方針だ。
正直こんなことを語っても自分のためにしかならない。
ただ、上の方針に従えば、これが自分にとってやっておいた方がいいことなわけである。
ここから何か、ここまで読んでくれた読者の”ためになる”ようなことをひねり出すとするなら……
・言いたいことを形にする
・やばいときはさっさと休む
・何も考えなくてもいいからとりあえず休む
・誰かを頼る
・誰かを頼る
・誰かを頼る
こんなものだろうか。
私達は常に何かしらの不安と戦っている。
その不安をこの一筆で多少なりとも紛らわせたなら、こんなにうれしいことはないかも知れない。
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