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発達障害、合理的配慮は傲慢?感謝を伝えたら優しさが返ってくる。

息子はADHDで文字の読み書きも苦手。なので学校ではノートが取れないとか、文字を読むことが困難なため、疲れすぎて集中が続かないとか、普通はこれくらいできるでしょと思うことでもできないことがある。本人の努力が足りない訳ではない。なんなら困難を抱えながら、むしろかなり頑張っている。なのでその特性を周りに理解してもらわないと、とても辛い学校生活になってしまう。

最近、理解とか配慮とかって学校なんかでは当然の権利のように主張される傾向が出てきたように思う。確かに足の不自由な子に走れとは言わないだろう。いつもお願いする立場なので配慮はありがたいし、必要なのだが、実際は結構エネルギーもいるし、大変なことかなと思う。家でも勉強を教えるのに工夫がいる。息子が理解できるように説明したり、疲れやすいので様子を見ながら教えたりするのには労力がいる。しかも一度理解したはずなのに忘れやすい特性のため、次の日になると覚えていなかったりする。根気よく優しく教える。そのうち記憶が定着するが、何かを習得するのにかなり時間がかかる。しんどい…。いやこれが愛情か…。愛情とは忍耐なのか?

相手を受け入れる時には少なからずどんな関係でも我慢だったり、寛大さが必要になる。理解や配慮とは相手にそれを要求することなんだろうか。そうだとしたら少し傲慢な気がした。

でも、悪いことばかりではない。学校の先生に感謝の気持ちを伝えたら大抵、良い言葉を返してくれる。頑張りましょうと言ってくれる。息子の成長を喜んでくれる。だから配慮をしてもらって、面倒をかけて申し訳ないと卑屈にならないで、理解してくれてありがとうと感謝を伝えていこうと思う。そして自分も周りの人を受け入れる努力をしようと思う。理解されることがとても嬉しいことだと知っているから。

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