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短編小説:山辺さん

 いらんと言ったのに母に持たされたのだと仏頂面でフルーツ籠を差し出してきた吉岡真帆を前に、私はひとしきり笑った。退院祝いにフルーツ籠だなんて昭和かよ、と。私のお見舞いに行くと前日に話したら、近くに住む母親が朝七時に訪ねてきてフルーツ籠を置いていったらしい。ほぼ白一色と言っていい、病室のテーブルの上で、果物達は輝くような生命力を発散している。
 彼女の母親とも、十年以上会っていない。中学時代、バレー部で一緒だった吉岡の家に、時々泊まらせてもらうことがあった。その頃から彼女の母は少し世間ずれしているところがあった。ただ、いつも快く温かく、歓待してくれたことをよく覚えている。ひとしきり昔話に花を咲かせた後、吉岡が探るような沈黙の後に言った。
「そういえば、落ちたんだっけ、会社の屋上から」
 私は笑顔を貼り付ける。
 できるだけ明るい声を装って、
「そうそう。びっくりしたあ。結果的に死んじゃうような事になんなくてよかったけど。途中木にぶつからなかったらやばかったって、先生が言ってた」
「……なんで、とかって、聞いてもいい?」
「うーん、自殺とかそういうんじゃないんだけどさ。私にもよくわからなくて」
「どういうこと?」
 訝しげに首を捻った時に揺れた彼女のショートヘアは、しばらく会っていないうちに金に近い茶色になっていた。随分と大人っぽくなっている。今はアパレルメーカーに勤めていると言っていたが、確かに服装もシンプルながら洒落ている。十年近く会っていなかった間の、彼女の人生に思いを馳せる。
「……実はね」
 迷いながらも、言葉のほうが先に出ていた。口にしてしまってから、誰かに話を聞いて欲しいと思っていたということにようやく思い至る。付き合いが悪く、同級生達ともほとんど関係が切れている彼女にならば話してもリスクは低そうだ、という打算もあった。
 私は吉岡に、ベッドサイドの椅子を勧めた。

   ***

 数ヶ月前のこと。
 夏が終わり、秋に差し掛かった頃だった。
 私は初めて、会社の屋上に出た。
 そしてそこで、山辺さんに出会った。

   ***
 ある日、郵便局へのお遣いを済ませて戻る道すがら、屋上に人影を認めた。白いフェンスに、長い髪の女性が寄りかかっている。女性はブラウスにスカート姿で、風を感じているかのように、こちらに背を向けてじっとしていた。この会社に入ってしばらく経つが、屋上に出られるということ自体知らなかった。いつ建てられたのかわからないようなボロボロの建物であったが、そういえば自社ビルである。他のテナントは入っていない。屋上があるならば、そこに出てみる社員だっているだろう、ということに、その時初めて気づいた。
 発注書を持ってきた新入社員の相模君に聞いてみると、屋上は喫煙所代わりになっているという。
「僕、吸わないんで、新人研修の時にちらっと案内されただけですけど」
「なにそれ、私案内とかされてないよ」
「転職組だから、ですかねえ」
 相模君は、気弱そうな表情で曖昧に微笑んだ。
「でも、この会社の女の人で煙草吸う人、いるんですね」
「女だって吸う人は吸うでしょ」
「……まあ、それはそうですね」
 相模君は、そそくさと席に戻っていった。そうは言ったものの、さきほど見かけた女性は煙草を吸っている風にも見えなかった。それほど大きな会社ではない。建物だって、たったの四階建てだ。転職してからの半年で、社員の顔は多少なりとも覚えたつもりだったが、遠目で、後ろ姿だったせいか、誰だかわからなかった。喫煙者であると知っている女性社員を一人ずつ思い浮かべながら、相模君から受け取った発注書の処理に取りかかる。その後、次々と事務手続きの依頼が舞い込み、忙しくしているうちに屋上のことは忘れてしまっていた。

 数日後、また同じ女性をみかけた。今度は、ランチから戻ってくる最中だった。同じ営業事務の女性達とお昼に出かけ、帰ってくるタイミングのことだった。また同じように、女性はこちらに背を向けて、フェンスに寄りかかっている。
「屋上にいるあの人、だれでしたっけ」
 私が聞くと、一緒にいた三人は一斉に上を向いた。
「え、屋上? どこ?」
「どこって……あれ?」
 少し目線を外した一瞬のうちに、女性の姿はかき消えたように見えなくなっていた。
「確かにさっき、いたんですけど……」
 聞いてみると、以前はよくあそこでランチを食べていたと言う人もいた。屋上には自販機もあるのだという。なんとなく気になって、私はその日の夕方、屋上に出てみることにした。

 ガラス戸を押し開けると、外は終業後でも十分にまだ明るく、心地よい秋の風が頬を撫でた。
 屋上には誰もいなかった。
 すぐ横の喫煙スペースには、二台の喫煙台が置いてある。喫煙台の周囲は脂で黒くなっているし、何かのプラスチックゴミも落ちている。私は顔をしかめたが、気を取り直して屋上を見渡す。
 思いのほか広い。出口の横に、聞いていたとおり自販機があり、フェンス沿いにはいくつかのベンチが等間隔に置かれている。
 一番出口から遠いフェンスまで歩いて行って、下を覗いた。犬の散歩をしている人がいる。帰宅途上のビジネスマンと思われるスーツの人も、足早に通り過ぎていく。大きな音に目線を上げると、少し遠くで建物の隙間を電車が通り過ぎていく様が見えた。
 悪くない。昼休みにデスクで、空気を読まない営業部員から邪魔されながらランチを取るよりも、ここに来てしまった方が気分転換になるかもしれない。
 一番近くのベンチの上には少なくともゴミが落ちていないことを確認すると、私はフェンスに背を向けてそこに座った。

 座ってみて、気づく。
 いつの間にか、屋上に人影があった。
 屋上の真ん中辺りの椅子に人が座っている。
 経理の山辺さんだ、と思った。山辺さんは長い黒髪を風になびかせながら、静かにベンチに腰掛けている。知らぬ仲ではない。親しくはないけれど、経理と営業事務は請求書関係でのやりとりも多く、時折部署を行き来するから名前くらいは知っていた。
「山辺さん」
 謎が解けた気分で、私は彼女に呼びかけた。近づいて、隣に腰掛ける。
「今日、お昼にもここにいました? 私、屋上来たの初めてなんですけどいいですねー。この時期、風が気持ちいいですよね」
 少し、間があった。沈黙の後で、山辺さんはこくりと頷いた。こんなに大人しい人だっただろうか。仕事のやりとりしかしないから解らなかったけれど。
「……あっ、そういえば、経理の斉藤さん、辞めるらしいですね。彼女仕事できるから、いなくなると大変なんじゃないですか」
 また、沈黙。そして少したった後、頭がかくんと動いた。頷いた、と思ってよいのだろうか。困惑しながらも次の会話の糸口を探る中で、ふと私は、山辺さんがやけに綺麗な髪をしていることに気づいた。艶めいた黒髪と、膝に静かに載せられている指の長い手を見ていると、なんだか妙な気持ちになった。気まずいのに、その場を離れられない。
「えーと……」
 私は次々と話題を振り続けた。山辺さんは時折頭を揺らしながら、私の話を聞いてくれている。
 ブブブ、と鞄の中でスマホが鳴動した。取り出すとき、スマホの画面が光って、いつの間にか辺りが暗くなっていたことに気づく。私は山辺さんに別れを告げ、帰宅した。

 それからというもの、仕事終わりや、残業をする日の夕方の息抜きに、ちょくちょく屋上に来るようになった。煙草メンバーには、不思議と行き会うことはなかった。
 山辺さんは大抵そこにいて、私たちはよくお喋りをした。山辺さんには独特のリズムがあるし、とても言葉少なだけれど、最初の日に感じたような気詰まりな感じはすぐになくなった。きっと人見知りなのだろう。
 山辺さんは近くで肩を並べて話すととても綺麗な人だとわかった。あまり顔を上げてくれることはないが、風が吹いた拍子に黒髪の間から覗いた白い顔は、美しく整っていた。猫背でいつも俯いているのがもったいない。そう言うと、山辺さんは恥ずかしそうに肩を窄めた。そういう控えめなところも可愛らしいと思った。
 山辺さんは私の話を楽しげに聞いてくれた。上司の神経質な書類チェックが嫌だとか、社長の服の趣味が悪いとか、最初はたわいない愚痴だったと思う。
 やがて生い立ちの話になり、実家の家族の話になった。次第に込み入った話をするようになり、私はついに言ってしまった。

「誰にも言ったことないんだけど、私、女の人も男の人も好きになれるの」

 ──初めて、人に話した。その時には、山辺さんに、恋をしてしまっていたと思う。

 その頃は、「夜遊び」にすっかり飽きてしまっていたタイミングだった。社会人になってすぐ、都下の実家から出て、会社近くの二十三区内に暮らし始めた。煌びやかな夜の街に憧れがあったから、六本木や渋谷に出やすいところに家を借りた。女性向けの制服があるような古い体質の精密機器メーカーに勤めながらも、鞄の底には肩を出した服を、ロッカーには綺麗な高いヒールの靴を隠し持っていた。そうして定時で仕事を終えると、夜毎にはやりのバーやお洒落な人の集まるクラブに出かけていった。
 決してモテない方ではない。だから、黙っていれば男性と付き合うことになる。そういうところで出会う、派手で元気でおしゃれな男達と、何人か付き合った。一夜の相手であれば、もっと多い。その生活に、どこかむなしさを覚えるようになったのは、いつごろだっただろう。逞しい腕や胸板に抱かれる満足感が、いつの間にか一夜を過ごした後の体臭や、少し伸びた髭への嫌悪感に変わるようになっていた。
 大体男という生き物は人の話を聞かない。相槌は適当だし途中から強引に自分の話に話題をさらっていってしまう。そんな男性よりも、水がしみこむように私の話を聞いてくれて、そっと隣にいてくれる女性を求めるようになっていた。そう、例えば山辺さんのような。
 はじめてのカミングアウトは、さすがに緊張した。けれどそれも、山辺さんは静かに受け入れてくれた。私は有頂天になった。これを言っても、引かないでいてくれる。ありのままの私を受け入れてくれている。「でもやっぱり、結婚して家庭を作るほうが楽なんじゃないの?」とか、「わざわざ生きにくい方を選ばなくても」なんて、自分で自分にかけていたような声を、山辺さんからかけられることはなかった。そうしていつしか、山辺さんと恋人になる妄想までするようになっていった。

 一つだけ、不思議なことがあった。山辺さんと話し込んでいると、時間が経つにつれてなにかが腐ったような匂いが強く香ることがあるのだった。屋上のゴミ箱の中に、誰かが食べかけの弁当でも捨てているのかもしれない。腐臭が耐えられないほどになる頃、私は名残惜しさを振り切って、屋上を出る。そんなとき、階段を降りる途中で、決まって屋上を施錠しようとする警備員のおじさんとすれ違った。

 数ヶ月後のある日、大きなトラブルが発覚した。私が、営業さんに頼まれた発注の、納品日を間違えていたのだ。システムを見てダブルチェックをしてくれたはずの上司も気づかなかった。そのトラブル対応をしているうちに夕方になっていたが、最後の報告を終えて席に戻ると、机上のトレーに今日中にこなさなければならない発注書がたまっていた。以前は綺麗にマニキュアを塗っていた爪には、山辺さんへの恋心に気づいてからは色を載せていない。私は生まれたままの色の親指の爪を噛んだ。
 十二月は元々繁忙期である。定時に帰れるどころか、数時間の残業が一ヶ月近く続くのが普通だった。このところ、夕方の休憩時間も取れず、仕事を終える頃には屋上は既に施錠され、山辺さんに会えていない。ランチどきに屋上に行ってみても、煙草を吸っているおじさんたちはいても、山辺さんに会えることはなかった。
 私は苛立ちを抑えながら、猛スピードで発注処理に取りかかり始めた。
 「あのう」と声がかかり振り返ると、相模君だった。彼もこのところ毎日帰りが遅い。目には隈が浮いていた。
「忙しそうなところ本当にごめんなさい……あの、お客さんにどうしても明日の朝までにって頼まれちゃって」
 午後七時四十五分。あと十五分で屋上が施錠されるタイミングだった。残っている発注書はあと三枚。相模君の分までやっていたら、八時には間に合わない。
「……ふざけないでよ」
 私は毒づいた。相模君の肩がびくっと跳ねる。次いで大きな体を縮こまらせて、
「あ、あの、今日は早く帰る予定が……?」
 と消え入りそうな声で言った。
「小山内さん」
 隣の席から声がかかった。同じ営業事務の作倉さんだった。
「いいよ、わたしやっとく」
 彼女が、救世主に見えた。
 私は感謝を告げると、最低限の仕事を終えてすぐにパソコンをシャットダウンし、屋上への階段を駆け上がった。

 すっかり日が短くなり、屋上は闇に沈んでいる。入り口近くのライトをつける。ぼんやりと照らされた先、屋上中程のベンチに、山辺さんがいた。
 屋上に一歩踏み出すと、冷えた空気が肌を刺した。気持ちが焦って先に屋上に来てしまったけれど、ロッカーに寄ってコートを取ってくればよかったと後悔する。山辺さんはいつもと変わらない、ブラウスにスカート姿である。長く屋上にいた様子なのに、寒くないのだろうかと思いながら、私は山辺さんのほうへ歩いていった。
 ちか、ちか、と空気が明滅する。入り口の電気が切れかかっているようだった。振り返ると、すう、となんとか持ち直す。
 何度かそれを繰り返しながら、山辺さんの座るベンチにたどり着く。その瞬間、ふっと電気が消えた。
 心臓がぎゅっと縮まり、私は慌ててベンチに座る。肩が山辺さんに触れた。
「あっ、ごめんなさい」
 山辺さんは、気にしていない様子で座っている場所をずれる様子もみせなかった。
 入り口を見ると、硝子張りになっている入り口ドアの向こうだけが、ぼんやりと光っている。そちらを見ているうちに、徐々に暗闇に目が慣れてくる。
「はー、びっくりした。電気、消えちゃいましたね。山辺さん、私が来るまで電気つけないでいて、大丈夫だったんです、か?」
 変なところで言葉を句切ってしまったのは、今度は別の意味で、心臓が高鳴ったせいだった。
 山辺さんが、微かに身じろぎをしてこちらに頭を向けたのだった。今までになかったことだった。
「……山辺さん、そういえば、会うの久しぶりでしたね」
 私より背が低いため、俯いている彼女の表情はよくわからない。けれど、もしかして、私との逢瀬を楽しみにしていてくれたのだろうか。そんな風に勘違いしてしまいそうになる。会えない間の苛立ちは、冷たい空気に溶けてすぐに消えていった。膝に置いていた手に、山辺さんの手が触れて、また驚く。骨張った山辺さんの手は、何故かぬるぬるとしていた。
 ゆっくりと、山辺さんが顔を上げる。腐臭が漂った。山辺さんの口から漂っているとしか思えなかった。けれどそんなことを気にしている場合ではなかった。山辺さんが、綺麗に整った顔を上げて、出会ってから初めて、まっすぐにこちらを見てくれていた。彼女の髪に触れる。さらさらの黒髪が、私の指に絡みつき、そしてそのまま大量に抜けて、手の中に残った。暗闇だから気づかなかったけれど、目をこらして見てみればところどころ肌が腐って今にも肉が剥がれ落ちそうになっている。額からは血も流れている。肌が透き通るように青白いのはそういうことだったのかと一人納得する。私は山辺さんを壊さないようにそっと抱きしめた。初めて顔を上げて見せてくれて、自分から私に触れてくれて、本当の山辺さんを見せてくれた。その感動を伝えたかった。
「……山辺さん、私、山辺さんのことが……」
 遠くで金属音がして、屋上の入り口扉が施錠されるのがわかった。電気が消えていたから、私たちが屋上にいることに警備のおじさんが気づかなかったのだろう。
 構わない、と思った。少し寒いけれど、一晩中二人きりでいられるのならば。

 気づくと私は山辺さんと固く手を握りあいながら、白いフェンスの前に立っていた。山辺さんが崩れた顔でこちらを見る。ここまで歩いてくる間に随分崩れてしまい、今は片目が眼窩から飛び出ている。首の角度もなんだかおかしい。山辺さんの視線に応えて、私は頷き返した。言葉はなくとも、山辺さんの求めていることが、手に取るようにわかった。
 私はフェンスを登り始めた。それほど高いフェンスではない。ぐらぐらとして途中不安になったが、難なく一番上にたどり着く。暗闇の向こうで、家々の灯りが美しく瞬いていた。たたん、たたん、と電車が通り過ぎる音がして、ビルとビルの間を光る車窓が通り過ぎてゆく。冷たい冬の風が、私の耳や手を冷やす。私は屋上を見下ろした。山辺さんが頷くのが見えた気がした。

 そして私は、フェンスの上から地面へと、身を躍らせた。

   ***

 フルーツ籠の中でとりわけ良い匂いを放っているのはバナナだった。バナナが発するエチレンはほかの果物の追熟も促すという。いい香りと共に、エチレンガスが放出されている様を想像する。今は皮の表面に心地よい緊張感が漂うぴかぴかのバナナも、きっとすぐに萎んで茶色くなり、周りの果物も腐らせてしまう。一番に食べた方がいいだろう、と今なら解る。けれどあの時の私は普通ではなかった。どういうわけか、そういった「正常な判断」ができない状態に陥っていた。山辺さんがそういう状態になってしまうのならば、私もそうなったほうがいい、つまり──死んで同じ状態になれば、と、無邪気に思い込んでいた。
「今思えばさ、経理の山辺さんなんていなかったの」
 私はシーツの上に投げ出された自分の手を見つめながら言った。
 あの日、山辺さんの手を握った手。救急車で運ばれた時、私の手の甲には自分のものでない血液がべっとりとついていたという。今は、血も肉片も髪も、山辺さんを思わせるものは何もついていない。寂しいような気もするし、ほっとするような気もする。
「私はあの女の人を経理の山辺さんとして認識してたんだけど、人事の人に聞いたら、そんな人いないって。あの時は変に思わなかったけどそういえば、うち、古い会社だからさあ、女の人は制服着ないといけないのに。山辺さんはいつも白いブラウスと花柄のスカート姿だった」
 吉岡は腕を巻き付けるようにして自分自身を抱いている。表情は強ばっているが、瞳にはどこか複雑な色を宿している。私は彼女が同性愛者らしいという噂を思い出していた。学生の頃、確かに彼女は女の子によくモテた。学生の頃彼女にきゃーきゃー言っていた子たちは今は皆男性と交際して、結婚して、幸せになっている子が多いけれど。もし彼女が本当にそうなのであれば、何年かぶりに、「恋バナ」もできるようになるだろうか。
「よくよく思い出すと、いつも私が一方的に話してただけで、……私、山辺さんの声、思い出せない。もしかしたら本当に独り言言ってただけだったのかな。……はは、そうだとしたら私めっちゃ寂しい女みたいじゃない?」
 吉岡は、返事に困っているようだった。
 少しの沈黙の後、彼女は視線をフルーツ籠に向けたまま、呟いた。
「誰だったんだろうね、その人」
「…………ほんとにね」
 会社はやめようと思っている、と私は付け足した。

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