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短編小説『運命の女』



 その顔を見た途端、私は唐突に思い出した。
 運命の女だ。

 勢いよく地面を蹴って駆け出す。
「え、ちょっと! どこ行くの!」
 友人の戸惑う声が聞こえた気がしたがすぐに風の音にかき消された。全速力で走って走って、本校舎の敷地を出て、道路を超えて、柵をよじ登って超え、農学部のある方の敷地に逃げ込む。牛舎の裏まできて、ばくばくと跳ねる心臓をおさえながら後ろを振り返った。
 誰もついてきていない。
 深く息を吐いて、顎を滴り落ちる汗を拭う。
 ラボの冷蔵庫には、飲みかけのアクエリアスを冷やしていたはずだった。それを飲んで少し休憩したら、仕掛かり中の実験を一旦止めて、今日はもうアパートに帰ろう。これからどうするかは、それから考えればいい。そう考えながら私は、ラボの方に歩き出そうとした。
 「先輩! 松原さち先輩!」
 聞き慣れない声が私を呼んだ。もう一度振り返る。『運命の女』が、さっき自分も乗り越えてきた2メートルほどの柵を、パステルカラーに花を散らしたスカートが捲れるのも気にせず乗り越えようとしている。柵の向こうを歩くサラリーマンらしき男が、歩きながらそれを見上げている。パンツ見えるぞ早く降りろと反射的に声をあげかけてから、私は再び自分が逃げなくてはならない立場であることを思い出す。
 ラボを目指して、私は再び全力疾走を始めた。

* * * * *

 小学生の頃、こういう怖い話が流行ったことがあった。
『深夜零時に洗面器に水をはって、剃刀をくわえて覗き込むと、未来の結婚相手が見えるんだって』
 その話を初めて聞いた時、同じグループの三人で、一緒にやってみようという話になった。
 そもそも二十一時には布団に入っていたような健康優良児の私がそれを実行するのは難しいことだった。私は、トイレに起きたふりを装うことにした。きっかり零時、目を擦りながら居間に行くと、母は一足先に寝室に行っていたようで、父がひとりテレビを見ていた。父は、私の姿を認めると、おう、トイレか、と言う。私が頷くと、俺ももう寝るとテレビの電源を切って立ち上がった。電気消すの忘れるなよ、という父の言葉に、私は高揚する気持ちを押さえつけ、眠そうな声を作って、うん、と答えた。
 そして計画を実行した。風呂場から洗面器をとってきて、水を貼る。父がいつも使っている剃刀はT字型のもので、こんなのでいいのかなと思いながら口にくわえた。本当は銀色の刃が剥き出しになっている、昔の人が使っているような剃刀がよかったのだけれど、我が家には見当たらなかった。
 洗面器は緊張感のないピンク色で、怖いという気持ちは微塵も起こらなかった。ただのお遊びだ。きっと、何も映らずに終わるのだろう。そう思いながら、ゆっくりと洗面器を覗き込んだ。水は透明で、洗面器の底に描かれた花の絵がよく見える。私の顔すら写っていない。落胆しながら、顔を引こうとしたその時、変化が起きた。
 洗面器の水面が、波立った。
 見間違いかと思い、何度か瞬きをする。
 次の瞬間、見えていたのはピンク色の洗面器の底ではなく、女の人の顔だった。
 私は混乱しながらも、父のT字剃刀をしっかりとくわえ直した。その怖い話には続きがあって、驚いた拍子に剃刀を落としてしまうと、血のような赤い筋と共に、洗面器にうつった顔が消えるのという。そして十年後、結婚する予定の恋人がいつになってもマスクを外さないので、結婚前にどうしても素顔を見せて欲しいと懇願すると、刃物で傷ついた顔を見せながら相手が言うのだ。『お前がやったんだ!』と。
 じっと女の人の顔を見つめる。女の人は、洗面器の中で驚いたような顔をしている。優しそうな人だ。太っているわけではないけれどふっくらと柔らかそうな頬をしていて、目尻が垂れている。額にかかる前髪は栗色で、艶々としていた。しかしどういう訳なのだろう、結婚相手が映る水鏡のはずなのに、相手が女の人だというのは。ていうか、どうやって終わらせたらいいんだっけ、これ。
 戸惑っていると、女の人の口が動いた。
 もごもごっと動いたあと、少し間があいた。
 ぱく、ぱく、ぱく。
 三回、ぽってりとした唇が開閉され、ふっと水面が揺れた。そして、元々そこに顔なんてなかったかのようにまた洗面器の底には花柄だけが映っていた。

 翌日、学校で昨日の話をしようとしてみると、一緒にやるはずだった二人は眠ってしまって起きられなかったと口を揃えて言った。私も、その日見たものをなんと言ったらいいのかわからず口をつぐんだ。
 その後私は、名前も知らぬその女を『運命の女』と名付けた。時が経つにつれて、奇妙な経験をしたという記憶だけが残り、彼女の顔は朧げにしか思い出せなくなっていた……はずだった。
 瑠璃子と出会うまでは。

* * * * *

「で、ちゃんと謝ったの」
 トイレから戻ってきた聡美が言った。
 スーツ姿のおじさんたちがひしめき合う安居酒屋で、聡美の赤い髪は異彩を放っている。軽音サークルで一年の時から同じバンドにいた彼女の髪は、出会った時は黒かった。毎年少しずつ色が明るくなっていき、四年の今、とうとう赤くなった。就職先が決まったので四月までの間、やりたいようにやるのだという。
「謝ったよ」
 私がぶっきらぼうに言うのを、嘘くさいとでも言いたげな目で見てから、聡美は瑠璃子の方を向く。瑠璃子は柔らかく目を細めてうなずく。ようやく聡美は納得したようだった。
 瑠璃子を聡美から紹介され、ダッシュで逃げてから数日。私は聡美に首根っこを掴まれるようにしてこの居酒屋に連れてこられた。今日あの子呼んでるからちゃんと謝って、と告げられ、私はしばらくじたばたしたが、結局また逃げ出すよりも瑠璃子が到着する方が早かった。
 瑠璃子は、私のファンなのだという。
 聡美とは同じゼミの後輩で、配属になってすぐに、実は去年の学園祭のライブで見て以来、私たちのバンド──とりわけベースを担当している私のファンだと打ち明けたらしい。それなら三人で学食でお昼でも食べようということになり、あの日、本校舎の中庭で集まった。瑠璃子からしたら、憧れの先輩とご飯が食べられると思ったのに顔を見るなり逃げ出したのだから驚いただろうと思う。
「しかしあなたも、あそこでよく追いかけようと思ったよね」
「ちょっとびっくりしちゃって、反射的に」
 えへへ、と瑠璃子が笑う。こんなふうにどこもかしこもやわらかそうで優しげな瑠璃子が反射的にとる行動が『追いかける』だというのは面白く感じた。ギャップ萌え、というやつだ。人間は、生命が危ぶまれるような状況に陥ると、戦う、逃げる、固まる、のいずれかの行動を取るのだという。瑠璃子はきっと『戦う』を選ぶタイプなのだろう。
「でも、逃げた理由までは、ちゃんと聞いてないです」
 と瑠璃子が言うので、私は、ありえない話だってわかってるんだけど、と前置きしてから過去に洗面器の中に見た女の顔が瑠璃子に似ているのだと説明した。
「気のせいなんじゃないの? だってそんな昔見たものなんて覚えてるはずがない」
 聡美が言う。私はうんうん唸りながら、瑠璃子の顔をじっと見つめた。瑠璃子は困ったような顔で微笑む。その頬は、チークのせいか酒のせいか、微かに赤い。
「絶対あなただと思うんだけどな」
「でも逃げるってことは、私が結婚相手だと困るってこと、ですよね?」
 と瑠璃子が尋ねる。私は考え込んだ。
 正直に言うと困らない。瑠璃子は見た目だけでいえば私の好みど真ん中だった。小学生だったあの当時は初恋もまだで、自分が誰を好きになるのかなんて想像もつかなかったけれど、その後好きになった人の性別はすべて女だった。そのことを知っている聡美がちょっとにやにやしながらレモンサワーを煽った。もしや私のファンだとかいう女と会わせてくっつけようという魂胆だったのだろうか。とはいえ瑠璃子が恋愛的な意味で私を好きだと言っているようには思えなかったが。
「推理小説を読むとして、順番に前から読む? それとも途中で結末を確認する?」
 私が聞くと、
「よく犯人が気になっちゃって先に最後の方のページを読んだりしますね」
 と瑠璃子は答えた。
「私は絶対に前から順に読む派。ネタバレ厳禁。それと同じことだよ。結末が決まっていたら面白くもなんともないじゃん。だから決まっている運命があるとしたら全力で逃げる」
 瑠璃子は垂れ目をぱちくりさせたあと、なるほど、と呟いた。

* * * * *

 それからというもの、私と瑠璃子はよく遊ぶようになった。もちろん友人として。聡美と三人で飲むこともあれば、瑠璃子の就活の悩みを私が聞いてあげたり、気晴らしに出かけることもあった。
 そんな付き合いが社会人になってからも続き、数年が経った。
 ある時、瑠璃子は待ち合わせ場所に妙にうきうきとしながら現れた。スキップでもしそうな調子で隣を歩いている。
「やけにご機嫌じゃん」
 カフェに入り、今日のおススメランチと、瑠璃子は紅茶、私は珈琲を頼んだあとで聞いた。よくぞ聞いてくれたとばかりに、瑠璃子は前のめりになった。
「先輩、私、わかっちゃったんです。先輩が見た『運命の女』がなんて言ったか」
 そう言って瑠璃子はつい一週間前の、連休中の出来事を語り始めた。
 瑠璃子と実家の家族は、夏季休暇をあわせて九州旅行に行くことを決めていたという。そこで、とある神社に行くことになった。瑠璃子は敷地の大きな神社に行くと、本殿に参拝しお守りを買うだけではなく、末社までひとつひとつ見て回るのが好きだった。今回も、父母と妹が参道を囲む店で団子を食べている間、一人で神社の裏手を見て回った。
 そんな時、『来し方の杉』という古びた看板にいきあたった。看板に書いてあるところによると、その隣にある大きな杉のウロを覗くと、過去が見えると書いてある。ちょうど周囲にはほとんど人影がない。瑠璃子は、それを覗いてみることにした。その杉の木は、大人が手を回しても二人は必要なくらい幹が太く、表面はごわついていながらも肉厚で、長い刻を生きてきたのだろうという風格があった。瑠璃子は、ちょうど腰の高さくらいにぽっかりとあいたウロの周辺を、興味深げに撫で回した。そのあと、腰をかがめてウロを覗き込む。
 最初は、ただ暗いだけだった。だが、なあんだ何も見えないじゃん、と腰を引こうとして、上部から僅かに光が入った瞬間、何か白っぽいものが目の前に見えた。
 それは、人の顔だった。
 肌が浅黒く、勝気そうなつり目の女の子が、口になにかくわえている。目を細めてじっとみると、口にくわえたものがどうやらT字剃刀であることがわかった。
 ──小さい頃の松原先輩だ、と思ったという。
 少女はウロの底から困ったように瑠璃子のほうを見つめている。何か言ってあげなければと思ったが、私が声が聞こえなかったと言ったことを思い出し、喋ったところで伝わらないかもと思い始める。気持ちばかり焦り、何も思いつかない。
「にげて」
 ふと、言葉が口をついて出た。
 言ってしまってから、これ以上にふさわしい言葉はないという気がした。
「に・げ・て」
 唇の動きだけで伝わるように、もう一度ゆっくりと、言い直す。
 そうして瑠璃子はウロから顔を出した。心臓はばくばくと鳴っていたけれど、どこか爽やかで満足した気持ちだった。
「なんで逃げてなんて言ったの」
 私は茫然とそう呟いた。
 ぱく、ぱく、ぱく。
 あの時の運命の女の口の動きを思い出す。確かに、にげて、と言っていたように思えなくもない。
 瑠璃子は、少し迷うように視線を彷徨わせてから、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「先輩と最初に会ったときのことが忘れられなくて。またあの出会いをしたいし、運命から逃げようとする先輩を、ずっと追いかけていたいって思っちゃったんですよ。
 ねえ先輩、私はね、結婚するってたとえ運命で決まっていたとしても、その後離婚するかもしれないし、幸せな結婚生活じゃないかもしれないし、逆にものすごーく幸せになるかもしれないし、そこから先を作ってくのは自分たちだって思うんですよ。
 だから先輩が運命から逃げようとするなら私は全力で追いかけますし、掴まってくれるなら幸せにします。もしずーっと追いかけっこが続くとしたってそれはそれで幸せかなって思ったりもしてるんです」
 これは告白というやつなんだろうかと思いながら、私はどういう顔をしたらいいかわからなくなって顔を伏せた。
 目線の先には話しているうちに届いたランチプレートが、ほとんど手付かずのまま残っている。あ、瑠璃子の好きなプリンがおまけについてる、なんて思ってしまってからはもう頭の中には高らかに結婚行進曲が鳴り響き、いやいやそもそも日本の法律だと同性婚できないじゃんどうすんのたとえば海外逃亡したらこの子はほんとについてくるのかな、あっもしやそこで結婚てことなのかなどと思考が空回りし始めて、私は次に発する言葉を必死に考えながら無限に湧いてくる手汗をおしぼりで拭いた。

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