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短編小説『茶筒の底』

 おばあちゃんの茶筒には、女の子が住んでいる。
 見せてもらったのは一度だけだったけれど、鮮明に記憶に焼き付いていた。
 深い茶色に、藤の花が垂れ落ちる図柄の茶筒だった。おばあちゃんちの居間の飾り棚に鎮座するそれは、ガラス扉の内側の一番目立つところに置かれているのに、どういうわけか家族の誰の目にも留まらず、誰も触れたことがなかった。

 二十年も前のこと。両親が何かの用事で不在にしていて、私はおばあちゃんの家に預けられていた。お風呂に入った後、子供向けのテレビ番組も尽きて、私は退屈していた。それでも、まだ眠りたくはなかった。おばあちゃんはそんな私を楽しませようと思ってくれたのだろう、
「おばあちゃんの秘密を見せてあげる」
 と私に目配せした。
 飾り棚の扉を引いて、おばあちゃんは大事そうに茶筒を取り出した。
「そっと見るんだよ。驚かせないように」
 優しく外蓋を外し、内蓋をつまんで取る。
 中をのぞき込み、私はあっと声を上げそうになって口をおさえた。
 茶筒の底には、ちいさな世界があった。
 それは、庭だった。
 茶筒の丸い縁の端には生け垣がある。反対側にはどこかへ繋がる小道が少しだけ見えていて、周辺に低木やちょっとした草花が整然と並んでいる。
 生け垣の手前には、藤棚があった。そのちいさな世界の中には風が吹いているらしい。たわわに垂れ下がった薄紫の房が、微風にそよいでいる。藤棚の対角線上にはブランコがある。公園にあるようなものとは違う。太い木を枠に組んで、そこに縄を渡してぺらぺらの板をつけただけのような、手作りのものだった。そこに女の子が座って、ブランコを揺らしている。
「へんな服だね」
 私は女の子を驚かせないよう、ひそひそ声でおばあちゃんにささやきかけた。
「もんぺっていうんだよ」
 私はまだ小学校に上がったばかりで、戦争のことを知らなかった。
「おばあちゃんが小さい頃は、みんなこの服を着ていたの」
 ささやき返すおばあちゃんの声は、いつも以上に柔らかかった。
「なんか、かわいそう」
 ひとりきりの女の子に、今日、両親と離れて眠らなければならない自分を重ねて、私は呟いた。
「でもね、自分でここにいたいって言ったのよ」
「この子、しゃべるの?」
 びっくりして私が尋ねた途端、女の子がぴょんとブランコを飛び降りた。
 彼女は急に上を向いた。──私たちの方を。
 ぐるりと茶筒を回すと、上を向いた女の子と目が合った気がした。意志の強そうな、真っ黒の瞳。
 女の子はこくりと頷いた。そうして小道の方へと歩いていき、茶筒の中から消えてしまった。

 なんだか聞いてはいけない気がして、それから茶筒の話をすることはなかった。大人になり、私は都会で一人暮らしを始めた。そうこうしているうちにひどい感染症が広がり、盆暮れ正月でも田舎に帰ることが憚られるようになった。
 ある日、おばあちゃんが死んだ。
 台所で倒れていたところを母が見つけたのだという。
 葬儀屋さんが家に来て、おばあちゃんを棺に納めた。お棺に入れたいものがありますかと聞かれて、私は茶筒のことを思い出した。葬儀屋さんは首を横に振った。金属が使われている可能性があるので、難しいのだという。それなら、と私は茶筒を引き取った。

 おばあちゃんの葬儀が終わるまで、茶筒はハンカチにくるんで、鞄の隅にしまっていた。すべてが終わり、一人暮らしの家に帰宅して、一息ついてからそれを取り出した。開ける決心がつかないまましばらく藤の花の絵を眺めていたが、いつの間にか二十四時を回ってしまい、ようやくそれに手を伸ばす。
 外蓋を両手で包んで、そっと上にずらす。プラスチックの内蓋を外すと、中が覗けた。ふわりと初夏の風が薫った気がした。
 庭には、二人の女の子がいた。色違いのモンペをはいている。ひとりがブランコにのり、一人が後ろから背を押してあげている。なんだかとても、楽しそうだった。
 私は胸が詰まって、すぐに蓋を閉めた。
 新入りの女の子は、きっと若い頃のおばあちゃんだ。

 それからずっと、おばあちゃんと女の子は私の家の隅で暮らしている。私は毎日のように茶筒の蓋を開けて、恋人のように仲のよい二人の様子を見守った。
 眺めていると、二人がうらやましくなってくる。
 私の恋はうまくいっていなかった。浮気性ですぐにふらふらとどこかに行ってしまう同性の恋人を、こんなふうに閉じ込められたらいいのにと、益体もない物思いが頭を巡る。
 もしかしておばあちゃんも、私と同じだったのではないか。私という人間がここにいるからにはおじいちゃんと結婚して子供を産んで、育て上げているのだけれど、それは時代が許さなかっただけのこと。本当は茶筒の女の子と二人きりで、生きたかったんじゃないか。
 いつのまにか藤棚の下には、二人がけのベンチができていた。
 茶筒の中の女の子たちは、時折こちらを手招きするようになっている。

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