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なぜ、電話演劇か ── 薄暗い場所から公共を生み出すこと

「コロナで劇場が使えないから、変わった演劇を始めた」

そのように直接言われたわけではないけれども、我々が行っている「電話演劇」という形に対して、少なくない人がきっとそのように受け取っているんじゃないかと思う。まあ、そりゃそうだ。「普通の演劇」とは異なって、劇場を使わずに電話ひとつでできるし、照明や音響なども必要ない。一回の上演につき、一人しか参加することはできない。リアルタイムで言葉が向けられるのは普通の演劇と一緒だが、「自分だけに対して」というシチュエーションはだいぶ意味合いが異なってくる。端的に言って「変わった演劇」だ。

でも、これは決して「変わった演劇をしたい」から生み出されたものではなく、「コロナ禍で緊急避難的に行われた演劇」でもない。「それでも、なお演劇を」という種類の情熱を、私は持ち合わせていない。

電話を使って演劇を上演することは、これまで、前提とされてきた「観客席」という場所を再考することにつながると考えている。そしてそれは、これまでとは別の公共の姿を発想していくことへとつながる。つまり、電話演劇というのは、演劇の根本なのである。

話を、一番はじめの緊急事態宣言中、2020年4月から始める。

(文責:萩原雄太)

オンライン演劇には観客席がない

新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、2020年4月7日、東京都に緊急事態宣言が発された。それによって、かもめマシーンでは春に予定していたルーマニアツアーを延期。プレ稽古を始めていた新作公演も中止された。世界中の多くの人々と同じように、東京に住む私もまた、ぼんやりと家にいるだけの生活を送ることになる。一人暮らしなので、喋る相手もいない。

そんな前例のない状況に即応して、演劇の世界では、様々な動きが行われた。ふじのくに世界演劇祭が「くものうえ⇅せかい演劇祭」と改め、すべてのプログラムをオンライン上で実施。また、ドイツのミュンヘン・カンマーシュピーレをはじめ、劇場が保管している記録映像をストリーミング配信する動きも見られた。また、記録映像の配信のみならず国内外のいくつもの劇団がZoomやYouTube Liveを活用したオンライン演劇の可能性を探っていた。

ただ、私個人としては前述のミュンヘンカンマーシュピーレやテアタートレッフェンが行ったような、劇場で行われた記録映像のストリーミング配信については「勉強」と思って頑張って視聴したものの、オンライン上における新たな演劇の試みの多くはどうしても視聴を続けることが難しく、追いかけるのをやめてしまった。それは、作品のクオリティという理由ではない。ここが、家だからだ。

劇場の観客席とは異なり、家の中は雑多な情報に溢れており、視聴者の集中が阻害される。ブラウザのタブをクリックすれば、別のサイトに飛ぶ。迂遠な情報を提示しながら進む演劇作品よりも、はるかに多くの刺激を短時間で得ることができる。それに、家では、劇場とは異なって何をしていてもいい。私には、演劇を見る他にも流しに重ねられた食器を洗うことや、床の拭き掃除をするといった些末な家事をする可能性もある(わたしの部屋は、いつもひどく散らかっている)。翻って、劇場の観客席では、あらゆるノイズともに、観客である私が持つあらゆる可能性が排除されていたことに気付かされる。

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ギリシャの劇場において「テアトロン」という言葉が観客席を意味したことが象徴するように、観客席は単に「多くの人が座る場所」ではなく、劇場の根拠となる場所だ。そこは「演劇」を作るための本質的な場所であり、だからこそ、多くの作家たちが「観客席」についての思考を巡らせてきた。

ワーグナーは、自らが理想とするバイトロイト祝祭劇場において、観客席の電気を消し、暗闇の中へと観客を放り込んだ。それによって、観客は、舞台に対して没入を求められることになる。それは、電気が消されることによって劇場内部の空間や他の観客たちが見えなくなるばかりでなく、それぞれの観客が、自らの身体をなくすことを意味する。今や、舞台芸術においては、身体を捨て、感覚器官のみになることが観客になるための必要条件となった。

「携帯電話の電源を切る」「私語を慎む」といった明文化されている規則。「動いてはいけない」「存在感を消さなければいけない」等の、明文化されていないけれども確かにある規則。それらの繊細かつ暴力的な仕掛けを積み重ねることによって「観客席」がつくられ、その上で演劇は成立している。そのような「観客席」がない場所では、これまでと同様の効果を持つ「演劇」を届けようと、どんなに劇作や演出における工夫を凝らしても、それを達成することはできない。自室は、わたしたちの身体を奪ってくれないのである。オンライン作品においては、しばしば「ヘッドフォンで聞いてください」とか「フルスクリーンにして観てください」という指示が行われる。目と耳を外界から塞ぐことによって、観客は、擬似的に、従来型の観客席にいるように身体を奪われる。そして、観客は作品に没入し、家とは異なったレイヤーの場所へと身体を移していく。

けれども、そうやって目や耳を塞ぐことは、家にいる観客に対して演劇を届けるという魅力を活用していない。せっかくなら、この状況に対して適切な解答を提示し、この状況でしか生み出せないことをやりたい。さもなくば、この1年以上にわたる時間は、ただの「停滞」でしかなくなる。

では、いったいどのようにすれば、家という私的空間に観客席をつくることができるのか?

そのような問いに進む前に、まず、この「私的」という言葉の意味を確認しておきたい。「私的」という言葉は、英語なら「プライベート」あるいは「パーソナル」という言葉に翻訳される言葉である。いったい、どうして類似した2つの言葉があるのだろう? そう不思議に思って検索してみたところ、PRIVATEという言葉の語源には「奪う」というイメージが重ねられていた。

「private「プライベート、私的の」の語源はL.privare「奪う」です。民主主義のはるか前の時代は、多くの物は王や国の物でした。国・公の所有しているものを奪って個人の物にしたのが、プライバシーです。」(語源の広場 https://gogen-wisdom.hatenablog.com/entry/2019/05/03/120000 )

封建制の時代、領主や貴族という存在こそがPUBLICなものであった。人々は、彼ら=PUBLICから「奪う」ことによって、個人の所有=PRIVATEを獲得していく。オンライン作品における「ヘッドフォンとフルスクリーンで見てほしい」という要請は、別の言葉で言えば「家の中に、劇場から観客席を奪ってきてほしい」という要請のことだろう。

一方、同じく「私的な」という意味を共有する単語でも、PERSONALという言葉の語源は全く異なる。この言葉には「声」あるいは「音」というラテン語「son」が含まれているという。

「ラテン語L.sonare「声、鳴る、音、響く」が語源です。派生語の代表はsound「音」ですが15世紀以降に語源のsonをもとにdが付きました。人personと音とは関係がなさそうですが、L.persona(役者の仮面)が語源です。仮面を通して(per)、声が出てくる(son)イメージからperson(人)、personality(人の性格)が出来ていたのです」(語源の広場)

ここでは、PUBLICの存在を前提としたPRIVATEという、相補的な対立軸ではなく、「音を立てる存在」「声を出す存在」としての人間のあり方がイメージされている。もちろん、「音を立てる」「声を出す」とも、観客席においては忌避されている行為である。

これまで、劇場の観客席はPRIVATEとしての身体を受け止めてきた。演劇は、不特定多数に対して上演されるものであり、観客席に座る時には、ほとんど必ず別の観客たちに囲まれている。そもそも、外出できるような衣服に着替えなければ、劇場にまでたどり着くこともできない。他者との関わりの中で生活を送る我々は、他者との関わりの中で演劇を見る。演劇を見る時に、わたしたちは他者との関わりの中にある身体を使っている。

コロナ禍で、家の中に演劇がやってきた。それは、これまで他者との関係の中で作られてきた「プライベートな身体」ではなく、他者と関わりのない、ただ音を出すものとしての「パーソナルな身体」を演劇に触れさせるという、史上稀に見る事態なのではないか。

オンライン演劇に対して「遠く離れた場所に住んでいる人、あるいは子育てや介護中で時間が取れない人など、演劇を見に行けない事情を持つ人にも演劇を届けられる」という言葉をよく耳にした。もちろん、それはそれで素晴らしいことだが、私はこの「これまで決して観客席に座ることができなかった、身体におけるパーソナルな側面」に対して、演劇がアクセスすることにおもしろさを感じる。コロナ禍で生まれたオンライン演劇とは、「観客席の問題」であり、「観客の身体の問題」なのである。

「薄暗い場所」に働きかける

しかし、家の中にいるパーソナルな身体に対して演劇を届けるにあたってはそもそも考慮すべきことがある。家の中で、「演劇」は「可能」なのか?

多くの演劇は、これまで「不特定多数」との関係を前提として上演されてきた。観客=不特定多数に届けられるから、一般的に、演劇は「誰が見ても大丈夫」であることを前提とする(※ただし、「誰が見ても」の内実を見ると、言語、健康状態、教育レベル、資産レベル等々に依拠するものであるが、ここではそれを問わない)。観客席に座ることによって、観客は、固有名を宙吊りにされた「不特定多数のひとつ」となる。この構造がなぜ重要なのかといえば、それが、「公共」と密接に関わるものだからだ。

演劇は、近代社会において公共を作り出すための重要な装置となってきた。劇場において、人々は、演劇作品を通じて、新たな考えや議論を行っていく。それだけでなく、観客としての振る舞いを獲得することによって、社会を担う身体を獲得していく。観客席でじっとする身体、喋らない身体、作品内容を理解して議論をする身体……。観客席に座ることによって、思考、振る舞いを獲得することによって、人々は固有名を持った個から、人々の間に生きる市民としての自己を確立する。劇場は、そのようにして個を「市民」として啓蒙し教化するための装置であり、だからこそ、演劇に対して公的助成金が支出されてきた(※もちろん、ここで使われる「演劇」とは「近代演劇」という特殊な形式におけるものであり、「演劇」という言葉に普遍的に妥当するものではない。独立行政法人日本芸術文化振興会では、「演劇」の他に「伝統芸能」という枠組みをつくり、歌舞伎、能楽、浄瑠璃などは、「演劇」とは異なった枠組みで助成金が支出されている)。

だが、家で演劇が上演されること、しかも、プライベートな身体ではなく、パーソナルな身体に対して働きかけること。そうすることによって、上記のような「演劇と公共」という枠組みの外側に出ざるを得ない。

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20世紀に活躍した哲学者ハンナ・アーレントはその主著『人間の条件』(ちくま学芸文庫)において、「公的領域」と「私的領域」との差異について記述している。

彼女は、ギリシャの社会システムを発想の基底としながら、「公的領域」と「私的領域」が、ギリシャにおいては「政治的組織を作る人間の能力は、家庭と家族を中心とする自然的な結合と異なっているばかりか、それと正面から対立している」「今やすべての市民は二種類の存在秩序に属している。そしてその生活において、自分自身のものと共同体のものとの間には、明白な区別がある」と記す。

アリストテレスを引用しながら、活動と言論によって構成された公的領域を、自由を前提とした領域であるとして記すアーレント。一方、家族などの小集団によって営まれる私的領域については、家長による不平等の領域であり、(食べるための)労働や生殖、生命といった必然によって支配された領域であると手厳しい。アーレントの視線には、私的領域は、決定的に「欠落した・奪われた=deprived」領域として映っている。

「他人によって、見られ、聞かれるということが重要であるというのは、すべての人がみなこのようにそれぞれ異なった立場から見聞きしているからである。これが公的生活の意味である。この生活に比べれば、最も豊かで最も満足すべき家庭生活でさえ、せいぜい自分の立場を拡大し、拡張するだけであり、同一の側面と遠近法を提供するだけである」

この他にも、アーレントは、公的領域と私的領域とを比較して「他人によって見られ、聞かれることから生じるリアリティを奪われていること」「他人との『客観的』関係を奪われていること」「生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること」と、ネガティブな側面を語る。公的領域が光に満ちた空間であるならば、私的領域とは公共の光の届かない「薄暗い場所」なのだ。

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では、リアリティ、他者との関係性などが奪われた私的領域において、演劇は、どのように存在することができるのだろうか?

もしも、演劇が、劇場のような公的領域で行われるのと変わらない「活動」であり「言論」であるならば、私的な薄暗い場所に眩しい光を照らすことになる。それは、近代主義が行ってきたような「啓蒙」と同様の行為であり、下品な介入、あるいは収奪ではないか。私は、絶対に、私自身を公的領域に奪われたくはない。

薄暗い私的領域に対して、公的領域の光を当てることなく、薄暗いままでコミュニケートすること。そのためには、演劇は、これまでとは別の姿に変わらなければならない。「活動」「言論」「自由」としての演劇ではなく、「必然」の演劇として。

では、それは演劇が「公共」を手放すことを意味するのだろうか?

アーレントは、公的領域と私的領域との対立とともに、近代の始まりとともに登場する「社会的領域」についても語る。「近代の私生活は、政治的領域よりもむしろ社会的領域の方に密接かつ確実に結びついている」という社会的領域とは、「現代社会で平等が勝利したというのは、社会が公的領域を征服し、その結果、区別と差異が個人の私的問題になったという事実を政治的・法的に承認した」ものであるという。

「近代の共同体はすべて、たちまちのうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心とするようになったのである。だから社会とは、ただ生命の維持のためのみに存在する相互依存の事実が公的な重要性を帯び、ただ生存にのみ結びついた活動力が公的領域に現れるのを許されている形式にほかならない」

かつて、公的領域と私的領域は、明確に区別されていた。しかし、近代においては「社会」という画一の領域が両者の境界を曖昧にし、私的領域にあった労働を再び奪っていった。「画一主義的」な社会は、まるで、大きな家族共同体(=私的領域)のように客観性を持てず、「食べるため」という必然に支配された労働をその中心に置く。今や、私たちは、公的領域と社会的領域をしばしば混同し、その区別が曖昧なままに私的領域が社会的領域へと吸い取られていく。

私的領域を私的領域として明確に区分けすること。それによって、私たちはもう一度「公的領域」というあり方を見直すことができるのではないか。

では、私的領域を区分けすることによって、見つけ出される公共とはどのような形をしているのだろうか? それは、もしかしたら、これまでのような発想の「公共」とは少し異なるかもしれない。そもそも、日本語における「公共」という言葉は、ひどく曖昧なものであり、そこには「OPEN」「COMMON」「OFFICIAL」というそれぞれ異なったイメージが共存している。現在使われている「公共」は、明治期に「PUBLIC」の翻訳にあてられた概念だが、そもそも、司馬遷による『史記』や朱子による朱子学においてもその言葉が使われており、その言葉が持っていたイメージは現在のものとは異なっているという。前近代における公共については、勉強不足なので語ることができないが、少なくとも、「公共」という言葉は、決して一義ではなく幅がある。そこには、介入し、意味をずらす余地がある。

「現れない場」の演劇論

電話演劇が、演劇の根本であると考える背景には、上記のような「観客席の問題」と「演劇と公共との関係」がある。最後に、我々はどのような形で作品として具体化しているのかを説明したい。

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まず、電話というメディアの特殊性について。今や、ほとんどの人がスマートフォンを使いながら生活を送っている。ほとんど肌身放さずに持っているそれは、デバイスでありながら、すでに私たちの身体に深く根付いているものだ(他人が自分の携帯電話を触っている時、悪いことをしているわけではなくても、なんだかとても居心地が悪い)。

我々の作品においては、そんな私的な端末に電話がかけられる。スマートフォンに直接「演劇」として電話がかかってくることによって、どこか「私」に入り込まれたような気持ちになる。そして、そのように「侵食された」という感覚を受けるためには、1対複数の構造では効果が半減する。そのため、観客の数は1対1に制限せざるを得なくなる。

また演技についても、これまでとは異なった演技術が必要になる。通常、演劇における演技は「明るい場所」で行われるために最適化されている。はっきりとした発話、明瞭な発音といった俳優術は、明るい場所で演じられることを前提に積み上げられてきた。けれども、観客は電話の向こうにある「薄暗い場所」にいる。そこに作品を届けるためには、注目をひきつけたり、ハキハキと語る必要はない。明瞭さ、明快さを「見せる」ことではなく、「そこにいる」こと、それによって関係性の網を生み出すことこそが必要になる。俳優の演技は、当初、通常の演劇作品のような強さを持ちながら演じられていたが、再演を重ねる度に、その演技はどんどんと弱いものになっていっていった。

では、そんな「薄暗い場所」において、観客席はどのように設えられるのか? この作品において、それに該当するのが、電話を耳に当てるという行為だ。片手と片耳を振り付けることによって、観客は、家でありながら完全な自由ではなくなる。しかし、観客席のように場所に縛り付けられることなく、作品に参加することになる(同じ通話でも、スピーカーフォンを使った場合、その体験は全く異なるものとなる)。そのように観客席が作られることによって、観客は、その参加形態を規定される。

また、受話器を耳に当てるという行為によって、別の効果も生み出される。

「受話器はお互いの口と耳のそばに位置している。それは、物理的に遠い場所であっても、心理的には極めて近い位置関係で会話ができることである。また、お互いに見えない状態で話し合うのであるから、話しながら相手をいろいろ想像しながら会話をすることでもある」(「改訂版 電話相談の実際」双文社)

電話は「視覚が欠落したコミュニケーション」ではない。むしろ、視覚を介在させるよりもはるかに相手との距離が近く、肉感的に相手のことを感じることができるコミュニケーションの方法である(だからこそ、電話相談の場面においては、テレフォンセックスをしようとする人が一定の割合で発生するのだが……)。相手がどこで話しているのか? どんな姿勢で話しているのか? どんな息遣いをしているのか? 視覚情報がないからこそ、些細な声の揺れのひとつ、息のひとつ、反響の具合によって、相手の身体が明確に伝わってしまう。当初、電話を使用するに至った背景には、オンライン演劇の数々を見ていても、どうしても「身体」を感じられないという課題意識があった。情報を聴覚のみに限定し、その発話を直接耳に入れることによって、発話者の身体は、オンライン演劇はもちろんのこと、通常の演劇よりもはるかに生々しく響いてきた。

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では、「演劇と公共」を巡る問題は、電話を使うことによって、どのように変化するのだろうか?

この1年半にわたって、わたしたちは「薄暗い部屋」に閉ざされてきた。その経験を経て、必要とされるのは、公共の光の中に出ていくことでも、薄暗い部屋に公共の光を注ぐことでもない。それは、同じく薄暗い部屋の中にいる他者の息遣いを感じること。別の薄暗い部屋にいる、別のパーソナルな身体同士が結びつくことが必要なのではないだろうか。それによって、感染症が結果的にもたらした、かつてないほどに強い「わたしたち」という輪郭線を解いていくことができるのではないか。

もう一度、アーレントの話に戻ろう。

アーレントは、第一の公共の次元として「現れの場」という言葉を用いて説明している。「私が他者に対して現れ、他者が私に対して現れる空間」であると定義される「現れの場」において「人々は行為し、語ることのうちで自らが誰であるかを示し、他に比類ないその人のアイデンティティを能動的に顕にし、人間の世界に現れる」と彼女は語る。

でも、「行為」以前に、「語る」以前に、「能動的に顕にする」以前に、わたしたちは、すでに存在している。能動的であるか否かに関わらず、すでに「ある」。アイデンティティを持ち、それを他者と共有する以前に、わたしたちはすでにひとつの個体なのである。薄暗い部屋では行為や語り、提示をすることはできない。つまり、現れることはできない。しかし、それでもなお、薄暗い部屋にいる私が他者と繋がることはできるのだろうか? できるならば、それはどのような形なのだろうか? そのような問いをもとに、我々は、薄暗い部屋から薄暗い部屋へと電話をかけていく。そして、そんな電話線上に生まれたつながりを、これまでとは別の意味で「公共」と名指すことができないだろうか、と考えている。

ポストコロナなのか、ウィズコロナなのかはわからないが、今、私にとってそのような「薄暗い場所」同士の関わりが切実に必要と感じている。だから、私は、1対1という極めて小規模な形でもなお、電話演劇という形をもうしばらく突き詰めたいと考えている。

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