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「止まるを知る」:私の人生と中国古典

自らの人生に迷いが生じた頃、たまたま渋沢栄一の「論語と算盤」に出会い、感銘を受けた。そこから中国古典に関心を持つようになり、様々な書物を手に取ってみた。難解すぎて分からず、かといってこのままでは私の人生も始まらないと思い、ひとまず手に取って素読を始めたのが「大学」であった。

小学生の頃、音読は何度も何度もやらされたのをよく覚えている。あれの何が役に立ったのかは未だによく分かっていないのだが、素読は生まれて初めてであった。意味は分からずとも、とりあえず何度も繰り返し読めということなので、それに従うことにした。ちょうどキツい仕事から手を離すことができたので(要するに、辞めて無職になった)、とてつもなく余裕ができたこともあり、毎朝素読した。

今は素読もやめてしまったが、未だに序文は難なく暗誦できる。原文に頼らず、以下に書き記してみたい。

大学の道は、明徳を明らかにするにあり。⺠に親しむにあり。至善に止まるにあり。止まるを知りて后定まる有り。定まりて后よく静かなり。静かにして后よく安し。安くして后よく慮る。慮りて后よく得。

原文:金谷治 訳註「大学・中庸」岩波文庫, p31~33

「止まるを知りて后定まる有り」とあるが、今の自分はどうだろうか。むしろ、正反対にあると言ってよい。新卒で勤めた会社を僅か3年弱で退職し、半年間は大学を、意味も分からず読み続けた。その後、発起して再度企業に勤めるも、また別に関心が移り、これもまた辞め、大学院に入学した。

至善に止まることができれば、私の道は開き、希望に満ち溢れるであろう。しかし私にとっての至善は、未だ見つかっていない。人生において、実は最大の難所かもしれない。

しかしながら、私には未だそれを見つけようという意欲はある。人生を諦めたわけではない。ではどうすべきか。ヒントは中庸にある。こちらもまた、一文目の引用である。

天の命ずるをこれ性と謂う。性に従うをこれ道と謂う。道を修むるをこれ教と謂う。道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。

金谷治 訳註「大学・中庸」岩波文庫, p141~143

いつも自らの道のことを考えて、我が身を慎む必要がある、ということなのだろう。今は道も分からず、自らの性や志、天命も見えていない。全くといっていいほどに。しかし、懸命に生きることによって、少しずつ見えてくるのではないか。ならば彼らに従い、仕事に励み、 交際に励み、書に親しめ、ということなのだろう。

己を知り、節度を保って生き、人生をほどほどに愉しみ、自分を磨き、性や道を知る、そして”止まる”ことができれば、幸せである。先ずは、それこそ「止まるを知らない」 人生になるかもしれないが、それもあってこその人生であろう。存分に愉しみたい。


注:大学院のレポート課題がなぜかエッセイ形式だったので、書いてみたものです。

■参考書籍
伊與田覺「『大学』を素読する」致知出版社, p6
宮城谷昌光「中国古典の言行録」文春文庫, p204~209
安田登「役に立つ古典」NHK 出版, p93~97


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