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履いている靴は自分で脱ぐべきだ

プラトンの『饗宴』を読んだあと、印象に残ったシーンがあります。
それは遅れて宴にやってきたソクラテスがソファに横になると、奴隷がやってきてソクラテスの靴を脱がせるというシーンです。
……なぜ自分で脱がないのだろう。

古代ギリシアと現代を同一視しても仕方がないとは思いつつ、
宴に来ているこの人たち(古代ギリシアの哲学者たち)は、奴隷がなにもかも世話してくれるような身分だから暇があって、
だから思想や議論にふけることができたの……?
奴隷をどんなふうに認識していたのだろう……?
姿かたちは自分たちと同じであっても、奴隷は同じ人間ではないということ……?

名目上、奴隷制というものがほとんどの国で撤廃されている現代では、
当たり前ですが身の回りの生活のことは自分で行います。
それは生活のなかで思想にふけり、その思想を人と議論し合う時間をもつこと自体、
珍しい、もしくは難しいということなのかもしれません。

ですが今も、奴隷ではなくても「自分とは違うもの」と認識して他者にラベルを貼り、
関わりを避けること、気持ち悪いと思うこと、
そういう態度や感情はそこかしこに見られます。
それはむしろ、「自分と他人」の違いが明確に引かれない現代だからこそ、
心の底では「みんなと同じ自分」または「他人とは違う自分」を欲して、
言語化し、名づけをしてしまうのかもしれません。

でも代わりに、身分制のない現代では、誰とでも対等に話をすることができます。
身分の違いを理由に、首をはねられることもありません。
(身分の違いに似たような、ジェンダーや障害などに対する差別はありますし、法整備も十分ではありませんが、今回の主題とはずれるので割愛します)

奴隷がいないから、思想構築や議論に対する時間が少なくなっていたと仮定しても、
奴隷がいないので、違いを知るために誰とでも気軽に話すことができるのが現代の強みだといえる。
そしてそれは、思想や議論に必要な前段階の知を得ることが可能になったということ。
ソクラテスのいう無知の知(不知の自覚)というところを知るために、
ソクラテスにはぜひ、靴を脱がせることをどう思っているのか、奴隷に対して言葉を投げてもらいたい。

現代はまだ、やっと人々が対等に話し合えるという認識を持ち始めたばかりの社会なのだと思います。
たくさんの人と話し、たくさんの違いを知り、そこからやっと、
なにをどのように議論し構築すべきかに入れる、まだその入り口に立ったところなのだと思います。
たくさんの違いを知り、その違いを包括する社会になることを目指して、
自分の無知を知るためにこれからも日々、学んでいこうと思います。


CALAMVS GLADIO FORTIOR
The pen is mightier than the sword.

Kamoi


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