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【小説】田辺朔郎 ⑤シャフト


明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・



トンネル掘削

 トンネルを両側から掘削するには、入口からの掘削方向と、出口からの掘削方向が一直線上になるように正確に方向を出し、上下についても食い違いとならないように掘削方向を定める必要がある。

 短いトンネルであれば問題とならないが、2.4㎞の大トンネル、角度が1度ずれれば、1㎞先では17mのずれとなる。長等山トンネル工事に際し、より詳細な測量「経始測量」を実施した。

 この測量により山頂に「小関越石点」トンネル東側346mに「大津石点」トンネル西側300mに「藤尾村石点」を設置、この3点は一直線に並ぶように配置され、高低差を精密に測定した。

 施工に当たっては、この測量に基づき、入口、出口にY水準器を据え付け、トンネル中心線ラインを計測しながら掘り進むのである。

長等山トンネル東口(琵琶湖側)三脚を据えて掘削ラインを測量中

琵琶湖疏水記念館デジタルアーカイブ写真をカラー化

 トンネルの施工法にはイギリス式・ドイツ式・オーストリア式など色々な工法があるが、朔郎は長大トンネルに向く「ベルギー式」を採用した。

 ここで一つ問題がある。新規な工法であるため、誰も要領を心得ていないのである。物も無ければ人も無い。無いものは自分で作るのが疏水工事である。朔郎は夜間学校を開き、技術者を養成する事とした。

夜間学校

 高等小学校を卒業したばかりの中村次郎14歳は、この春から疏水工事の日雇い人夫として働いている。一日の工事終了後、大人たちが集まって朔郎が何やら講義しているのが気になって覗きに来た。

「君、そんな所で見てないで中に入りたまえ。」
「え、いや、自分のような学の無いものはとても・・・」
「どのみち皆さん未知の学問を学んでいるのです、君のような未来ある若者は大歓迎ですよ。」

 本日の講義内容は、ベルギー式トンネル工法である。

「まずベルギー式工法の掘削順です。」

土木学会付属図書館 戦前名著100書 田辺朔郎著「とんねる」挿絵を加工
※以下夜間学校における図解は全て同書によるもの

「最初に掘削する導坑「1」については、地盤良好な場合は作業スペースを確保するために幅2m高さ2mと大きめに掘削して(1番と2番を同時に掘削して)支保工を作ります。」
「底部の3を先に掘削することで4の掘削にトロッコを使う事ができます。」

「掘削したところはすぐに支保工で支えて安全を確保します。支保工の加工はこのようにします。」

「地質の良くないところであっても、幅60㎝高さ180㎝位であれば崩れてこない場合が多いので、その大きさで2カ所を掘削し、壁と天井を作った後その間を掘削します。」

 授業は今まさに施工しつつある事柄について、理論から施工上の細かい注意まできめ細やかに説明される。昼間見たものについて学ぶのであるから、理解が進む事この上ない。究極の実践授業である。

「更に軟弱な地盤で、この大きさでも崩れてくるような時はどうしますか?」朔郎は先ほどの少年に聞いた。 

「えーと、泥の中に直接板を打ち込んではどうでしょうか?」
「君は中々センスがいい。それは良い方法です。板を打ち込むのは難しいので、実際には、この図のように杭を何本も打ち込みながら土が動くのを止めて施工します。」
「なるほど!掘削する所に先に横杭を打ち込んで行くんですね!」

 次郎少年はこんなに実践的で分かりやすい授業を受けた事は無かった。学校の教師と言えば、やたら威張り散らかし何かあればゲンコツで殴られる物と思っていたが、朔郎は少しも威張らず分かるまで説明してくれる。次郎少年は生まれて初めて学ぶ事の楽しさを感じていた。

 朔郎の授業は、板書と手書きのイラストにて進められ、大変分かりやすいものであった。

 初めて見る西洋の技術を、土木工学を習った事の無い者に分かりやすく説明する。これは本人が深く理解している事はもちろん、さまざまな人の視点を想像し その立場に立って説明を組み立てる必要があり、相当の技量を要するものである。

 とかく専門家というのは、難しい用語を使い専門家にだけ通じる話をしがちなものであるが、朔郎は通り一遍の偏狭な専門家と違い、多角的な視点から専門的に物事を見る事ができる希有な教育者の資質を備えていた。

 最初は若い朔郎を侮っていた技術者達も一度授業を受けると、その知識と頭脳と穏やかな人格、ある種の徳に感化され、たちまち敬服してしまうといった具合になった。

ベルギー式では下部の掘削前に上部レンガ巻きを施工する
「第一トンネル西口」支保工及びセントルの様子
 京都市上下水道局・田邊家資料をトリミング及びカラー化

山科御陵村煉瓦製造所

 山科御陵村の東海道沿い、日岡峠に向けて坂道となる手前の平地に突如大工場が出現した。
 総面積4万5千㎡、12段の登り窯を擁し、8本の煙突が天を衝く年間生産量1000万本の日本最大のレンガ工場である。
 堺の煉瓦工場から職人を呼び寄せ、材料については近傍から粘土を採取し、作成されたレンガにはすべて「疎」の刻印が施された。

 あまりに短期で大量に作るため労働力が不足し、明治時代にはよくある事であるが囚人も使役された。

 この工場は明治19年6月26日に開業し、22年10月31日に閉鎖となっている。忽然と現れわずか3年でその使命を終え消えた。一夜の幻のような大工場であった。

「煉瓦製造所 山科御陵村」田村宗立『琵琶湖疏水工事絵図』琵琶湖疏水記念館

田辺朔郎の一日

8時 起床、簡素な食事を取り身支度を整え藤尾の事務所に出勤する。

9時 業務開始、各工事主任と打ち合わせを行いその日の作業内容を確認し、おのおの現場に向かう。朔郎は総監督として現場を見て回り、施工の指導を行う。毎日トンネルの最前線まで入るため灯油ランプのススが肺にたまり、いつも黒い痰に悩まされていた。
 昼食は事務所の食堂で食べる事もあったが、用意された弁当を現場で食べる事が多い。

16時 現場作業を終了、藤尾の事務所に戻り、各工事主任より報告を受け、事務所壁面に貼り付けられた進捗表に記載していく。

17時 業務終了
17時半 夜間教室にて工事に関する講義を行う
20時 講義終了 事務所食堂にて夕食

20時半 海外の最新論文に目を通し工法の検討など研究を行う。
23時 帰宅 
24時 就寝

 一日のスケジュールは概ねこのような物である。
 トンネル内の掘削は24時間体制で続いており、何かあれば対応しなければならず、寝床についてからも、工法や職人の指導についてあれやこれやと考えてしまい寝付けない時もあり、雨が降ればトンネルが崩れる夢を見てガバと跳ね起きてしまう毎日で、気が休まる事が無い日々が続いている。

シャフト工 弐(に)

 明治19年1月19日難航するシャフト工事現場に北垣知事が激励に訪れた。
 前年8月8日より掘削開始した竪坑であるが、掘削にしたがい帯水層にぶつかり徐々に出水が増加し20m付近の出水で、当初用意したポンプではくみ上げが間に合わない事態となった。
 人力巻き上げ機により桶を使って24時間体制でくみ出し何とか32m地点まで到達した。トンネル中心線まではあと15m、所定の掘削底面まではあと20mの所にある。

「日夜の奮闘感謝致します!
 長等山トンネル工事は疏水工事中最大の難工事にして、これが出来れば疏水事業は八割方成ったものと考えて相違ない。いまだ朝野には疏水の成功を疑う者も多く、一刻も早く完成させる事が肝要である。」
「本シャフトはその要であり、この工事の成否が疏水の成否に直結すると言っても過言ではない。まもなく発注した大型ポンプが到着する。それまでの辛抱だ! 堅忍不抜の精神でこの難工事をやり抜いてもらいたい! 諸君の労に報いるため、府庁からは今後二割の特別手当を支給する。」
 
今や疏水工事の命運はこのシャフト工事にかかっているのだ。

「竪坑の場所はここで良かったのか?」朔郎には迷いがある。
 トンネル中心線までの距離が短いため、窪地となっているこの地を選定したが、窪地であれば周囲から水が集まるのは当然。地下に水脈が有るのを予測できたのではないのか?

 今から場所を変えるか?
 いや、そんな事をすれば士気にかかわる。指揮官が弱気では皆ついてこなくなる。あと15m、大型ポンプさえ届けば何とかなる、

「武士の子は強くあらねばなりません。」母からはそう教えられてきた。朔郎は心に生じた迷いを表に出さないように必死だった。

大川米蔵

 ポンプ主任大川米蔵は元は神戸で汽船の操船をしていた人物である。
 常に洋装に身を包み、身だしなみに気をつけ垢抜けした感じの いわゆるいい男である。神戸で購入した舶来の銀時計を大事にしており、時折コートから取り出しては満足そうに眺めていた。

 疏水工事の常で人材がなく、汽船の蒸気機関を扱っていたという経歴だけでポンプ主任に抜擢されたが、当然機械工学については素人である。
 この時代の機械らしく時々止まるポンプを四苦八苦の思いで修理しては動かし使っていた。
 元々生真面目な努力家であり、ポンプ主任に抜擢されてからは一念発起、朔郎に教えを請い、資料室において英文の文献に辞書を片手に必死に取り組んでいる様子がしばしば見られた。
 朔郎が信頼する職工の一人である。

 シャフトの湧水は止まるところを知らず、24時間体制でポンプの故障に対応すべく、このところはシャフト小屋に寝泊まりしており家に帰っていない。

 朔郎は竪坑での出水によほど懲りたものと見え、後の著作「とんねる」で竪坑の説明にあたり1ページに5回も湧水に関する注意を繰り返している。これは常に明瞭簡潔な文章を書く朔郎にしては、極めて異例な事である。

始め湧水の排出は人力で行われていた

シャフト工 参(さん)

 明治19年2月1日遂に待望の大型ポンプが到着した。
 ポンプ主任大川米蔵以下、その取り付けに当たる。
 大型ポンプを底面に据え付け後、小型ポンプを取り外すのだが、設置作業中に小型ポンプが停止してしまった。
 慌てて直そうとするが容易には直らない、そうこうしている間にも大型ポンプは徐々に水に浸かっていく、遂には完全に水没してしまった。

「大川さん!一旦小型ポンプを上に上げて腰を据えて直しましょう!」
朔郎は穴の底に呼びかけた。

 シャフトより上がってきた大川米蔵は顔面蒼白、小型ポンプを抱いて蝋のようにすっかり血の気を失っていた。
「大川さん、一旦休みましょう。」
「いや、大丈夫です、人力での汲み上げはいつまでも続かない。今、直さないと取り返しの付かない事になる。」
 確かにそのとおりである。横では人力巻き上げ機で水を汲み上げるべく必死の努力をしている。
「大川さん・・・」

 薄暗いシャフト小屋の中で、ポンプを修理する時間は無限に続く心地がした。

 時間にして三十分後、ポンプの修理が完了し、大川米蔵は再び穴の中へ降りて行った。
 回復したポンプと人力巻き上げの必死の努力、徐々に水位が下がり始め、大型ポンプの救出に成功した。
 幸い大型ポンプは支障無く稼働して、復帰した小型ポンプ共々水を汲み上げ始めた。

「万歳!」「万歳!」シャフト小屋は喜びに包まれた。

「大川さん、ありがとう、ありがとう!」朔郎は大川の手を握りしめた、大川はその場にへたり込んだまま微笑みを返した。

 難局を乗り越えた一同に軽く酒が振る舞われ、シャフト作業員一同お互いの健闘を讃え合った。
 朔郎はそれを見届け事務所に戻った。

シャフト工 四(し)

 ようやく明日から掘削を進められる。
 しかし今はしばしの安堵に身を任せ、部長室の椅子に腰掛けて呆としていたところ、シャフト小屋から急を知らせに人が走ってきた。

「主任! 大変です! 大川さんが! 大川さんが!」

 すぐにシャフト小屋に駆けつけると、そこには変わり果てた大川の姿があった。
「一体何が・・・」

 大川米蔵は、シャフト作業員が安堵して宴を行っている中、魂の抜けたように呆としていたが、突然立ち上がり
「今、幸いにこの難事業を果たした上は、もはやこの世で望むことは無い。我が志は既に達せられた! この銀時計も もはや自分には不要であるから君に差し上げよう!」
と言うやいなやシャフトに飛び込みその命を絶ったとの事であった。

 疏水工事全体の命運がこのシャフトにかかり、全ての重圧がポンプの一点に集中し、極度の緊張、疲労、そしてそこからの解放、大川米蔵の精神はバランスを失い遂に発狂するに至ったのであろう。
 疏水工事における犠牲者はこれが初めてであった。土木工事を行う上で犠牲が出るのは付きものであるが、朔郎は被害を出さぬようこれまで細心の注意を払ってきた。それが施工中ではなく、このような形で犠牲者が出るとは・・・

 自分が竪坑の位置を間違えたからか?
 違う場所なら水は出なかったのではないか?
 違う場所に掘り直せばこうならなかったのではないか?
 ポンプの準備が足りなかったのではないか?

 自分が ・・・ 大川さんを殺したのではないか?

 朔郎は溢れ出す涙をどうする事もできなかった。


令和6年9月3日 小関越え山中にたたずむ第一シャフト

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