【小説】田辺朔郎 ⑥坑道線垂下
明治初頭 遷都により京都は衰退の只中にあった。起死回生の策として琵琶湖から京都に水を通す「琵琶湖疏水」が計画された。当時の技術水準を上回る無謀な工事に挑んだのは若干21歳の青年技師「田辺朔郎」だった・・・
坑道線垂下
大型ポンプの設置後、ようやく工事は進み出したが、なおも出水は続き工事は難航した。
大川の死後、シャフト作業場の工員一同その遺志を継ぐため、一層奮励努力し約2ヶ月、明治19年4月17日 桜の咲く頃、遂に長等山トンネル掘削ラインに到達した。
なおも底部には貯水池の設置、レンガ巻き等複数の工作を行う必要があり、次の作業に入るための準備に4ヶ月を要した。
次の作業は竪坑の下から両側に向けて掘り進む方向の確定である。
地上と違い地下では基準点からの測量はできない。地上で測った掘削ラインを地下に下ろす他ない。これを竪坑の狭い穴を通じて行うという かつて誰もやった事の無い作業となる。
「この嶋田道生 畢生の事業なり!全身全霊を以て正しい坑道ラインを地下に降ろして見せましょう!」
嶋田道生、測量人生最大の仕事である。嶋田は昂ぶりに手が震えた
作業概略は、地上で計測したトンネル中心線の2点から細く丈夫なワイヤーを垂らし、坑道掘削ライン+47mを地上で測量し、そのまま47mワイヤーを測って降ろすものである。
竪坑の大きさは3.6m×3m長方形の板張りとなっているが、排水ポンプや人力昇降機があり、測量線を降ろす為に使える2点間の距離は最大220㎝。
この長さで坑道掘削方向を定め延長して施工するのだが、2mで1㎜のズレを生じると、1㎞先では50㎝のズレとなる。測量精度と共に繊細な加工技術が求められる。
竪坑の前後に横桟を設置、竪坑中心から26m離れた長等山トンネル中心線上に経緯儀を設置、そこから同じくトンネル中心線ライン上にある小関越石点に経緯儀の方向を合わせ、そのラインが横桟に交差する部分に釘を打ち、釘の両側に針金を通す。その隙間が平面上のトンネル中心線ラインである。
あとはこの隙間から重りを付けた針金を垂らし、メジャーで47m計測し印を付ける。
シャフトの底部には油を入れた樽が設置されており、ここに重りを入れて針金を静止させ、地上から47m下ろされたトンネル中心2点を底部にて観測し、打ち込んだ鉄杭の上に坑道中心線を刻みつけるのだが、ポンプが動いていると振動で重りが静止しないため、作業中はポンプを止める必要があった。振り子の1往復には27秒かかり静止するまで長い間じっと待つ他ない。
ポンプを停止すれば、水位が上がり作業困難となる。作業を停止して水をくみ出し、また作業して、水をくみ出すという事を繰り返し、ようやく中心線ラインを地下に降ろす作業を完了した。
これが成功したのかどうかは、トンネルが貫通するまで知ることはできない。トンネル男は、期待と不安を抱えながらこのラインに沿って掘削を進めるのである。
石積
明治19年7月シャフトから両側への掘削はその後 順調に進んでおり、東口・西口からの掘削もそれぞれ順調にピッチを上げて進んでいたが、このところ北垣を悩ませている案件がある。
人間関係である。
測量のスペシャリストとして これまで大いに活躍していた嶋田道生であるが、工事が施工段階に進み、すっかり出番が無くなり、何かと事務所内の細かい事を指摘し、難癖を付けるようになって来たのだ。
特に自分と交替するように工事部長として活躍の場を拡げていた朔郎への当たりはきつく、北垣はその事について朔郎から相談を受けた。
「嶋田君は私の同郷で、北海道開拓使以来の私の右腕のような存在なのだ。工事が測量から施工に進み、私が君ばかりを重用するので面白くないのだろう。どうか分かってやって欲しい。」
翌日北垣は、嶋田、田辺の他、疏水事務所所長の尾越書記官、坂本庶務課長を呼び出し話し合いを行った。
色々と嶋田道生の心情を聞き取った後、北垣は
「嶋田君の疏水工事にかける気持ちはすばらしい、今後は東口の工事は君に任せるので力を発揮してもらいたい。嶋田君と田辺君、2人はこの北垣にとって車の両輪も同じなのだ、どちらを欠いても前に進む事はできない。今後とも公平心をもって共同一致して大事に当たっていこう!」
と話をまとめた。
対立する者の意見を聞いて落としどころを見つけるのは、北垣国道という政治家の真骨頂である。
少し後の話になるが 疏水工事の特別税徴収に対し市民から不満の声が上がった時、たまたま病気のため医者から3週間の自宅療養を命ぜられたところ これ幸いと、疏水工事に関して意見がある者は、誰でも直接北垣の家に来てもらいたいと新聞広告を打ち、連日反対者の意見を聞き根気よく説得をしたりしている。
悪い事は続くもので、次に発生した人間関係は重大な事態に発展した。
長等山トンネルの西口から945mは両側に石垣を積んだ深い堀割区間となるのであるが、石垣の積み方について、朔郎は谷積みを主張、現場の親方は布積みを主張して、両者一歩もゆずらない状態となったのである。
谷積みというのは、石と石の間に石を落とし込む積み方で、布積みというのは石を水平に積んでいく技法である。
西洋では、布積みは横目地が揃うためずれやすく強度が弱くなるとされているが、日本在来の技法は布積みを標準としている。
特にここ藤尾の山向こうには「穴太衆」の里がある。
穴太衆(あのうしゅう)とは、石垣作りの専門家として戦国時代以降その技能が評価され、各地の城郭に出向き石垣を築いた職人集団である。穴太の石積みは「品の字」に石を積み上げる事を基本としており、谷積みは禁忌とされている。
そのお膝元、石垣に対する見識と自負は強い。谷積みにせよと言われて納得できるものではない。
朔郎と、親方達の論争はまとまらず、ついにはトンネル内のレンガ巻きについても、「岩などそのままで問題ない、なぜレンガが必要なのだ?さざれ石が巌となることは聞くが、岩が砂になるなんて聞いた事が無い!」などと君が代を引き合いに言い出す始末で現場は空中分解寸前となった。
事態を見かねた疏水事務所長 尾越書記官らは、北垣に、朔郎の力量不足で現場がまとまらないこと、事態収拾のため一時的に内務省から南一郎平に出向してもらいたい事を訴えた。
北垣は一旦大きく息を吸った。
「南技師が来て一時的に解決したとしても、その後のためにはならんよ。それに疏水工事は前例の無い工事だ、誰がやってもすんなりとはいかない。この事については私が預かる。明日改めて来てもらいたい。」
やはり若すぎるのだ、どうしても現場の親方には侮りを受ける。田辺の言う事も分かるし、親方の言うことも分かる。折り合いの付く問題ではない。さて、どうするか・・・
翌日尾越事務所長を呼び出し北垣は技師(朔郎)と現場(親方)の関係について要点を言い渡した。
①技師の仕様を寸分違わず施工すること。
違う工事をして問題が発生すれば現場の責任、その通りの施工であれば技師の責任である。
②ただし、仕様どおり施工すべき場所と現場をよく見て施工する場所の二種類がある。
トンネルは前者であり、石垣は後者。
③学者の軽視する石垣・運河の堤防などは意外に困難であり、経験が大事であるため、学者の議論に拘泥しなくてよろしい。
北垣は、両者痛み分けで責任分界を明確にすることで解決を図ったのである。
朔郎に対しては別に呼び出し、石垣など在来工法については昔からの使用実績が十分あり、完全で無いとしても大きな問題とならないことを噛んで含めて言い聞かせて納得させた。
かつてはぎりぎりまで南一郎平の工事責任者就任を望んでいた北垣だが、今は朔郎の能力と人となりに惚れ込んでいる。若さゆえの未熟さは私がカバーしていけばいい(かつての嶋田道生がそうであったように)。そうやって自分の周りに有用な人材を増やしていくのは 北垣一流の人材登用術である。
西口貫通
西口からシャフトに向けての掘削は、順調に進んでいた。
途中換気が十分出来なくなるトラブルがあり、通風口として第二シャフトを掘る必要が生じたが、こちらは小口径であり水脈にも出会わなかったため約2ヶ月で掘り上がり、掘削を続ける事が出来た。
明治20年6月20日、シャフト側坑道内にて西口ダイナマイトの爆発音が初めて聞こえた。
日々大きくなる爆発音に高まる期待。
7月に入るといよいよ爆音大きくなり、西口側、シャフト側同時に爆破して事故にならないように交互にダイナマイトをしかけた。貫通するのはこの爆発か、向こう側の爆発か、期待はどんどん高まっていった。
7月9日 遂にその日を迎える。シャフト側の爆破により坑道貫通、駆け寄る両側の作業員。トンネル内は歓喜の渦、雄叫びを上げる者、熱く抱擁を交わす者、静かに喜びを噛みしめる者、各々がおのおのの方法で喜びを表した。
地の底で来る日も来る日も掘削を続ける。その苦労が大きければ大きいほど喜びは大きくなる。この喜びに病みつきになった者はまた次のトンネルに向かっていくのである。
現場が喜びに包まれた3時間後、突如シャフト付近で大量の水が噴き出した。しかし貫通した西口側に水を流す事ができたので事なきを得た。
もしこれが貫通前であればどうにもならなかった。
わずかのタイミングの差で危機を免れた、まさに奇跡である。
「人柱」そんな言葉が朔郎の頭に浮かび、大慌てで打ち消した。
誰言うとなく、「大川さんのおかげや」
「大川さんが守ってくれたんや」
「大川さんは人柱にならはったんや」
「ありがとう」「ありがとう」という声が上がる。
「やめたまえ!」朔郎の怒声が響く。
今まで聞いた事の無い朔郎の大声に辺りは静まり返った。
「そんなのは迷信だ! 化学は、工学は、人の幸せのためにあるんだ! 人が化学のために犠牲になるなんて事は、あってはならない!」
朔郎には、大川米蔵の死について自分のせいではないかという自責の念がある。一瞬でも人柱という都合の良い考えを抱いた自分が許せなかった。
朔郎が怒声を上げたのは、後にも先にもこの時だけである。
インターバル
翌日は西口貫通を祝し、一日休業となった。
新聞にも報じられ、疏水工事の実現を疑っていた人たちにも工事の完成を期待する気持ちが広がった。
残る掘削延長は1200m、ちょうど全延長の半分を掘り終えた事になる。
工事開始より二年、物を人を工場を、工事を進めるためにまずその下準備の為に奔走した日々は過ぎて、人も育ち、物の供給体制も整ってきた。工事も請負いにて発注できるようになり、ようやく朔郎の負担も軽くなってきたこの頃である。
さて、西口側中心線と、シャフト側中心線のずれは南北に1.4㎝、高低差は僅かに6mm、完璧と言っていい成績であった。
シャフトより47m下に降ろしたあの2点は、正確に掘削方向を指し示していたことになる。さすがは嶋田道生というところだろう。
電気
朔郎が夜間学校終了後いつものように海外の文献に目を通していたところ、米国アスペン市において水力発電所が建設された事を報じる記事が目に付いた。
「電気」という物が世界に使われるようになったのは明治11年にトーマス・エジソンが電気照明会社を作り、翌12年に電球のフィラメントを改良し普及を進めて以降の話であり、それから9年しか経っていない明治21年の日本では、一般にはなじみの薄い代物であった。
この当時の電力は直流で発送電しており、高圧で送電可能な交流と比べて、送電距離が短く京都で言えばせいぜい鴨川の東までしか届かない物だった。
この一年後、エジソンとニコラ・テスラの間で直流と交流の規格争い いわゆる「電流戦争」が勃発し、送電・変圧に優位な交流方式が主流となって送電範囲が広がり、一気に普及して今日につながる訳だが、このころの電気は未だどのように使えるのか、海の物とも山の物とも付かない、そんな黎明期にあった。
元々の計画では、南禅寺北方に水路を導き、階段状に段を付けた工業団地の中に水を落とし、その落差で水車を回して動力とする計画であったのだが、電力であれば より広い範囲での活用が可能となる。朔郎の頭の中に明確なビジョンが浮かんだ。
長等山トンネルがあと半年ほどで貫通するという段階での計画変更である。しかも有用性がよく分からない電力というものに変更するというのであるから、議会・政府の承認には困難が伴う。
朔郎は北垣知事に計画の変更を訴えた。
「良いことは即時断行すべきだ、君がそう言うのなら間違いはなかろう。計画を進めてくれたまえ。」
明治21年9月24日、市議会にアメリカへの視察費用の支出を諮問し、調査員2名の派遣が可決された。
なお、議会へはその主な目的をアスペンへの水力発電調査ではなく、ホルヨークでの水車動力の利用実態調査として説明している。
同行者は初代京都商工会議所会長高木文平が選ばれた。
出発予定は10月9日である。
出発前夜
琵琶湖側から三井寺の下を通り、長等山をくぐる東口側は、琵琶湖の堆積層があり、極めて軟弱であった。
支保工に気を使い、軟弱地盤を抜けて堅固な地盤に到達してからは順調に施工を進めていたのであるが、朔郎の出発の4日前、10月5日午後10時20分 東口付近の軟弱部分が崩落し、作業員65名が閉じ込められ安否不明の事態となった。
入口付近の仮設支保工をレンガ巻きとする作業にとりかかったところ、土圧の変化により支保工がゆがみ、隙間から土砂が流れ出て、周りの軟弱地盤を巻き込み圧力が増大、遂に大崩壊に至ったのである。山腹にはすり鉢のごとく穴が出現し、なお土砂を吸い込んでいる。
手近にあった支保工用の材木、セメントの空き樽などを大急ぎで穴に投げ入れ流動を止めた。
中に取り残された人を救出すべく、外側と坑道内から人が入れるルートを掘り進め、6日午前11時にお互いの声が届く距離まで掘削が進み、中の様子が判明した。
作業員65名は負傷者無く全員無事という事で安堵したが、内と外、お互いが右側の壁に沿って掘り進んだため、どこかで坑道内を横切る必要がある事が判明した。
坑道内は支保工の松丸太が複雑に絡み、掘削困難であり二次被害の発生も予想されたため、7日午後3時30分坑道内を掘り進めることをあきらめ、上部より縦穴を掘って救出する方針を立てた。
内部では油が尽き、灯具も無い中、まさに暗中模索で脱出するため必死で掘削を進めたところ、たまたま巨大な材木が動いて崩落土を支えた矢板の下に脱出ルートを確保できた。
1人また1人と外に出て、午後7時30分全員が生還を果たした。
内部にいた作業員は語る。
「自分は奥の方にいましたが、5日夜半、突然怪しい風が来てランプの火が消えました。入口の方まで来たところ、崩落している事が分かったため、一同覚悟を決めてランプを集め、その内4つだけ点灯して節約しました。
送風管を切って外部との連絡を図ろうとしましたがこれは出来ませんでした。
それから只やみくもに掘って、7日の午前9時には外部からの声が少し聞こえて勇気づけられましたが、間もなくランプの油も尽きて、如何ともする事ができなくなりました。
空腹がたまらなく、2粒3粒の米もお互い分けて食べました。外からもうすぐ貫通するから心を確かに持て、と言われた時は一同涙をこぼして喜びましたが、それも一時の事で、上から竪穴を掘るからそれまで待て、と言われた時は、喜びから転じて一同再び落胆し、神様を拝むやら、念仏を唱えるやらで、まるで死人も同然でした。
竪穴の開通まで待っていては今日中にはとても難しいだろうから、僥倖を頼んで掘削しよう。という事となり、暗闇の中再び掘り進めたところ、幸いにも無事脱出できたのでございます。」
この規模の崩落事故で一人の犠牲者も出なかった事は、奇跡としか言い様がない幸運であった。
そんな10月7日を終え、10月9日朔郎は初の海外に出発する。
つづく
次回最終回、12月25日(水)更新予定です。