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『かっぱぼとキュウタの話』

 かっぱぼうずはそうっと、ちいさいぼうやの腕をつかみました。そうしてさっと、引き寄せました。かすかな水しぶきとともに、ぼうやは小池に落ちました。
 かっぱぼうずは、舌なめずりをしました。
「むむう。むむう。」声をあげ、小池のまん中を目指します。ひさしく味わうよろこびが、胸のそこで渦巻いています。
 ちいさいぼうやは、かっぱぼうずに手を引かれ、はじめての景色を泳ぎました。おかしな色の景色でした。みなものさざ波を通しているからでしょうか、お日様は細かな粒になって、ゆらりゆらりと揺れていました。景色とお日様のあいだでは、水草の根っこが、ちいさな白い魚たちが、くるりくるりとたわむれていました。
 なんだかおかしな気持ちになって、ちいさいぼうやは笑いました。
となりで手を引くかっぱぼうずは、舌なめずりをやめました。緑のからだの奥そこで、なにかがちいさくうずきました。はじめて味わう、ふしぎな、なにか。
「むむう。むむう。」
 ぼうずはお皿を手に取って、笑うぼうやにあてがいました。
 笑い声と一緒になって、とてもきれいな光の粒が、ぼうやの口からこぼれました。あとからあとから、こぼれました。みなもを目指すその粒たちを、かっぱぼうずはつかまえました。そしてお皿にしまいました。
 お皿はあふれました。ちいさい粒でいっぱいいっぱい。
かっぱぼうずは、こぼれた分もぜんぶ拾って、お皿のなかを満杯にしました。そして最後に、鳴きました。「むむう。むむう。」と鳴きました。ぼうずの口から立ち上る、泡はかすかに、震えていました。
昇っていく泡を追うように、かっぱぼうずは泳ぎます。水かきの張る手を広げ、ぼうやを地上へ抱きあげます。
 地上では、とてもあざやかな夕焼けが、空いっぱいに満ちていました。カラスも街も、照り映えていました。
「むむう。むむう。」
 胸を張り、かっぱぼうずは笑いました。ちいさいぼうやは口を開け、ぼんやり西の空を見あげました。ひかるぼうやの両目のなかを、まっかないろが、染めました。
「なあ」
突然のこと、かっぱぼうずは言いました。
「あんたはこれからキュウタだ。」
「キュウタ?」
 ぼうやの両目はよりふかく、あざやかないろを帯びました。
「そうさ。あんたはキュウタだ。もうこれまでのちいさいぼうやじゃない。おおきいキュウタだ。」
「おおきいキュウタ!」
 かっぱぼうずは、得意げに腕を組みました。「むむう。」とひと声鳴きました。キュウタは、頬を染めました。
 
***
 
 次の朝、キュウタは小池へ向かいました。
 小池のまん中に、かっぱぼうずが見えました。
 かっぱぼうずは泳ぎながら、おおきなしぶきをあげました。岸辺のおおきな岩にすわって、これまたおおきなあくびをします。
「ほら。きゅうりだよ。」
 キュウタは持ってきたきゅうりを差し出しました。かっぱぼうずは、とびつくように、でもすこしだけ申し訳なさそうに、緑のやさいを受けとりました。そして笑いました。
「大好物?」
 キュウタはすこし心配になって、かっぱぼうずに聞きました。
「そうさ。おいらの大好物さ。」
かっぱぼうずは、目を伏せて答えました。きゅうりにかぶりつきました。
キュウタはとなりに座りました。
「知らなかった。こんなところにかっぱがいるだなんて。」
キュウタが言いました。かっぱぼうずは、しゃりしゃりのあいまに、言いました。
「おいらもこんな街、外で見るの、はじめてだなあ。」
 キュウタは街に、目をやりました。朝日の力はやっぱり強く、くっきりかっきりかがやいていました。ふたりは顔をみあわせました。
「むむう。」かっぱぼうずが鳴きました。
「おいら、わるいことしたんだなあ。」かっぱぼうずは言いました。
「うん、なにが?」
 こまった顔の、キュウタの横で、かっぱぼうずは目をほそめました。
 最果ての大池、かっぱぼうずが生まれそだった、池底の風景。我が家の音が、友だちの声が、さざ波に響く子がっぱたちの笑い声が、最果てのおばばのしわがれた声が、一気におしよせました。
 かっぱぼうずは、ほんのすこしくらりとしました。掟を破ったかっぱぼうずは、もうあそこへは、戻れないのです。
「むむう。むむう。」泣きました。きゅうりを握りました。そしてお日様にかざしました。
 キュウタはぼんやり眺めていました。
「なあ。お日様シロップって知ってるかい?」
 きゅうりをたかくかざしたままに、かっぱぼうずは聞きました。
「知らない。」
キュウタは答えました。
「お日様シロップはなあ、」
かっぱぼうずは言いました。
「おいしいんだよ。いろんな味があってなあ。」
キュウタはそっと、身を乗り出しました。
「おれもシロップ、食べてみたいな。」
キュウタは笑いました。
「むむう。」
かっぱぼうずは、大池の景色をぬぐうように、頭のお皿をなでました。
 
***
 
 すこしだけ、雨の降る夕方でした。キュウタはふだんよりおおきめのふとめのきゅうりを見つけて、小池に向かいました。
「お日様シロップにもなあ、相性ってモンがあるんだなあ。」
 かっぱぼうずがつぶやきました
「お日様の色がまあるい午後はなあ、ほっそいきゅうりがうまいんだ。ほかにもいろいろあってなあ、」
キュウタはみなもを眺めていました。
「でもなあ、キュータ。一番のごちそうはなあ、最果ての大池の、みなもを眺めながら食べるきゅうりなんだよ。岸辺の夕陽に浸したらさあ、そりゃあもう、とびっきりのディナーに、なるんだよなあ。」
ぼうずはしつこいほどに、頭のお皿を撫でまわしていました。
「なんだか、とてつもない物知りになれた気分。」
キュウタは言いました。そして雨空を見あげました。お日様の姿はありませんでした。けれども気配がありました。垂れこめる雲のあいだから、かくし切れない光が、漏れいでていました。
「ねえぼーず。雨の日は、どういうきゅうりが合うんだろう。」
 つぶやくように、キュウタは聞きました。
「おっきめのふっとめのきゅうりに決まってらあ。」
かっぱぼうずは、にやりとしました。
 キュウタのなかで、よろこびが、ぶわっとおおきくひろがりました。
「ねえぼーず。こんど、最果ての大池まで歩こう。」
キュウタは言いました。
「とびっきりのディナーにするためにさ、とれたてキュウリを持っていこう。」
かっぱぼうずは、頭のお皿に手をやりました。そしてゆっくり言いました。
「むむう、そうしよう。約束しようなあ、キュウタ。」
 キュウタはその晩、小池のほとりで眠りました。
 
***
 
 すこしいそいだ足取りで、季節は流れていきました。小池のほとりに小屋をたて、キュウタはそこで暮らしました。
 ある夏の朝のことでした。かっぱぼうずとキュウタの小池に、ブルドーザーがやってきました。しゃりしゃりとちゅうのかっぱぼうずは、目をみはりました。キュウタはぼんやり見つめていました。しばらくすると、ほかの車も連なって、小道の向こうからやってきます。
「あれ、なんだい?」ぼうずはキュウタに聞きました。「ブルドーザーだよ」「軽トラだよ」キュウタはそのたび、答えました。
 到着した車の中からは、大人の人たちが出てきました。おかしな機械が運び出されました。テントがたちました。ブルドーザーが、ガガっとおおきく音をたてました。
 キュウタのお腹は、きゅうっとちいさくしぼみました。眺めるみなもが、突き刺さるくらいに、ひかりました。キュウタはぼうずに聞きました。
「ねえぼーず。あの人たち、何歳だろ?」
ぼうずはお皿を握りしめ、「むむうむむう。」と鳴いています。
「ねえぼーず。」
「なんだい?むむう。」
みなもがきらりとひかりました。
「ねえぼーず。どうしたらいいんだろうね、おれ。」
「うーんむむう。」
「おれ、ないんだ。ちいさいぼうやの、思い出。」
 キュウタはおなかを抱えました。
 かっぱぼうずはふと目を伏せて、頭のお皿に手をやりました。それから、ゆっくり言いました。
「いまのキュウタは、とってもおおきい、河童のキュウタさ。ちいさいぼうやじゃ、ねえからなあ。」
そして、「むむう。」と鳴きました。
 キュウタは、ため息をつきました。ほおっておいたら、体のおくの、おくの方から、おかしな声が、飛び出してしまいそうでした。いったいキュウタは、いつからこんなに、なにもわからなくなってしまったのでしょう。ほんとうになにも、なにも覚えていないのです。ちいさいぼうやが見ていたみなも、泳いだ小池、なんだかぼやけていくのです。あたまのうえまできゅーっとしぼみ、どうしていいのかわかりません。キュウタはちぢこまりました。キュウタのからだは鳴きました。「むむう。」とおかしな声が出ました。
かっぱぼうずは、かじりかけのきゅうりを、キュウタの口に押し込みました。
 キュウタは一口、かじってみました。さわやかな、お日様シロップの味がしました。
 おいしくて、おいしくて、キュウタは「むむう。」と鳴きました。
かっぱぼうずは言いました。 
「なあキュータ。きょうはさ、とびっきりのディナーを、探しに行こう。」 
キュウタはぼうずのかおを見ました。おおきく、はっきり言いました。
「むむう。そうしよう。そうしようなあ。ぼーず。」
 
***
 
 キュウタとかっぱぼうずは出発をしました。キュウタは、とれたてきゅうりを二本、用意しました。かっぱぼうずは、なにも持たずに出かけました。
 最果ての大池は、この街の果て、大きな森の、奥深くにひろがっています。とても遠い場所。
「おいら、覚悟。できてるからなあ。」
 出発前、さいごに小池のみなもを眺めながら、かっぱぼうずは言いました。キュウタも、それはわかっていました。
 ふたりは東をさして、歩きだしました。ほんとうに長いあいだ、左右のあしを、繰り出し続けていきました。
 ときどき、太陽の光がぎらぎらつよく、射しました。ときどき、雲がながれて、その光はやわらぎました。またときどき、光といっしょに、とうめいな風が吹きました。そして次の瞬間には、お日様の、あたたかい、いろがあたりに満ちました。
 ふたりが街のはずれに立ったとき、さあっとすべてが陰りました。そして、一瞬、雨が降りました。
「狸の嫁入りだなあ。」とぼうずが言って、
「狐の嫁入りだ。」とキュウタがはしゃぎました。
 森の小道に入るころには、雨は、すっかり通り過ぎていました。たかく、おいしげった木々のすきまから、たくさんの木漏れ日が落ちました。
 そして突然ひらけたのです。キュウタが、見たことのないくらいうつくしい風景。かっぱぼうずが、あこがれつづけたふるさとの風景。最果ての大池。
 その、圧倒的なひろがりをまえに、キュウタのあしはすくみました。かっぱぼうずのお皿の水は、ふくれあがってぎりぎりを保ちました。
 ふたりはいっしょに、「むむう。」と鳴きました。そしてずっと、さざ波を見つめました。
 さざ波はひかりました。お日様の色を、うつしだし、ちらばして、とてもきれいな光の粒に、仕立てあげていきました。光の粒は、ゆれて、おどって、すこしずつ、キュウタとかっぱぼうずを囲みました。すこしずつ、近づいて、すこしずつ、ふたりのこころのまんなかに、降りつもっていきました。
 
「んなあ。」
 かっぱぼうずが言ったのは、ずいぶんたった頃でした。真昼のお日様もゆっくりと傾いて、西から射そうとする頃でした。
「ぼーず?」
「見せなきゃなんねえ。」
 キュウタが声をかけたのと、かっぱぼうずが言ったのは、ちょうど同時でした。かっぱぼうずは、ギラギラ変な音を立てながら、西日に黒目をひかりらせました。
「おいら、見せなきゃなんねえ。見せなきゃなんねえ。」
 キュウタがうでを伸ばしても、かっぱぼうずはひらりとかわしました。そしてほとんど、叫びました。
「おいら、やっぱり見せなきゃなんねえ。おいら、とってもおおきくなったおいらのこと、最果てのおばばに、大池のみんなに、見せなきゃなんねえ。」
「なあぼーず!」キュウタが呼ぶ声も、かっぱぼうずには届きませんでした。
「すこしだから。」かっぱぼうずは叫びました。大池のそこへ飛び込みました。
「なあ!」キュウタもぼちゃんと、飛び込みました。
 
 すこしずつ、音が消えました。すこしずつ、ふるさとの音が、よみがえりました。
「掟破りだ掟破りだ」
大池のあぶくたちが呟いていました。かっぱの子供たちがうたっていました。
「すこしだけ。すこしだけ」
かっぱぼうずは池ぞこを目指しました。
 
キュウタは、あとを追いました。
「むむう。むむう。」
泣いていました。なにかを思い出せそうな、なにも思い出せないような、おかしなかんじがありました。
「むむうむむう」
河童のキュウタは鳴きました。ぐいぐいそこへと進んでいく、緑のうでをつかまえました。
 
 ぼうずのうでは、つかまれました。頭のうえのお皿の水は、きゅうっとちいさくしぼみました。なにかを思い出しそうな、おかしなかんじが破裂しました。
ぼうずは思い出しました。かっぱぼうずにはずっと前、きゅうりよりももっとだいじな、大好物がありました。大池の掟を破ってまでも、食べ続けていたいと思える、とびっきりの味を、かっぱぼうずは知っていました。
 
「人食い河童は帰ってくるな!」
 かっぱぼうずが、池底の土にふれたとき、あたりに爆音がひびきました。最果てのおばばの声でした。ぼうずはお皿が割れないように、頭を抱えてまるまりました。反動で、でんぐり返しを打ちました。
ふたりは岸辺へ急ぎました。ふうふう息を切らしながら、地上の土に這いあがりました。みなもの波が、まぶしくひかり、ふたりの両目に突き刺さりました。
 
「むむう。」
 キュウタとぼうずはいっしょに鳴いて、くたくたしゃがみ込みました。
「むむう。むむう。」と目をあげれば、空はすっかり夕焼けでした。とてもあざやかな夕焼けでした。
「むむう。むむう。」「むむう。むむう。」ふたりはそろって泣きました。
「むむう。」「むむう。」と言いながら、獲れたてきゅうりを拾いあげ、たかく夕陽にかざしました。一気にかぶりつきました。しゃりしゃり、しゃりしゃりとおかしな音が響きました。
 夕陽は、惜しむこともなく、ふたりにシロップをおくりました。ふたりはなにも、言いませんでした。ただながいこと、味わいました。うつくしい、うつくしい夕方の色を。何度も眺め、何度もかざし、何百回でもしゃりしゃりしました。
「むむう。むむう。」
「むむう。むむう。」
 鳴いて、鳴いて、泣きました。
 
***
 
「水の匂いが、おかしいなあ。」
 かっぱぼうずが呟いたのは、一番星が、ひかり始めたころでした。かっぱぼうずは立ちあがり、すたすたと街へ、歩きはじめました。キュウタはとなりを歩きました。
 森の道は、もうほとんど夜でした。そらおそろしい予感が頭のうえの木の葉を揺らしていました。
 住宅地の街路がとぎれるころ、夜はすっかり、街のいちばんそこのほうにまでしみわたっていました。大池の景色と、とびっきりなきゅうりの味と、そらおそろしい予感をかかえて、ふたりはとうとう、立ちました。小池へつづく、小道のうえに、立ちました。
「なあぼーず。」
 キュウタが言いました。かっぱぼうずがぐわっと大きく、両目をひらきました。ふたりは駆けだしました。
 小道をぬけて、草地を踏んで。つぎの瞬間、キュウタもかっぱぼうずも、まあたらしい、コンクリートのうえに立っていました。小池の形と、そっくり同じのコンクリート。まだつるつるぴかぴかの、すごくなめらかな、コンクリート。
「あーあ!」
 かっぱぼうずは、いかにも残念そうな顔をしました。笑ったような、泣いたような、顔でした。
 かっぱぼうずは言いました。
「おいらは今夜、ずっとここで、とびっきりの、朝焼けシロップを待ちます。」
 そして東を向きました。まあたらしいコンクリートの上に、行儀よくあぐらをかきました。
「なあぼーず。」
キュウタが呼んでも、答えることはありませんでした。頭のお皿にのせた手が、握りしめられるだけでした。
「なあぼーず。」
 キュウタは呼びました。
「なあぼーず。」
「なあぼーず。」
「……」
 しかたなく、キュウタは小池をあとにしました。
 
***
 
 次の朝、キュウタは小池へ向かいました。まだほの暗い時間でした。静けさの中で空気は青く、沈んでいました。
 かっぱぼうずは水のない小池に、横たわっていました。頭のお皿は、まっぷたつに壊れていました。
 ぼうずは目だけをうごかして、キュウタのことをたしかめました。
「ほら、きゅうりだよ。」キュウタが言いました。
「ほら、あんただよ。」かっぱぼうずが、両手を差し出しました。
 かっぱぼうずの水かきから、とてもきれいな光の粒が、こぼれだしました。ぼうずは粒を、落とさないように、気を付けて、キュウタの口元までもっていきました。キュウタがすっと息をすうと、光の粒は消えました。かっぱぼうずのするどい牙が、薄闇にきらっとひかりました。ちいさいぼうやが   河童のキュウタが、叫びのような、おおきな音をたてました。
「バイバイキュウタ。むむう。むむう。」
かっぱぼうずがつぶやきました。
「さよならぼうや。さようなら、キュウタ。」
 コンクリートの小池のほとり、ぼうやでもないキュウタでもない、少年が一人、つぶやきました。かっぱぼうずの緑のからだは、もう、どこにもみあたりませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
 

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