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【連載エッセー第37回】山里の切り捨てに直面する

 丸山啓史さん(『気候変動と子どもたち』著者)は、2022年春に家族で山里に移り住みました。持続可能な「懐かしい未来」を追求する日々の生活を綴ります。(月2回、1日と15日をめやすに更新予定)
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 2月4日に京都市長選挙が終わった。それから1週間の間に、衝撃的な話が2つ届いた。市長選挙への影響に配慮して、現職(の後継)陣営に不都合な情報が選挙後まで伏せられていたのだろうか(そう思えてならない)。

 1つは、我が家の子どもたちが通う学校の給食調理が来年度から外部委託になるということ。昨年12月には受託業者もほぼ決まっていたのに、実施直前の2月になって初めて保護者に知らさられた。

 外部委託が決められた経緯や理由についての具体的な説明は何もない。「献立や食材は今までと変わらない」という話だけれど、お知らせ文を読んでも「何も変わりません」とは書かれておらず、変わる可能性があることについての説明はない。

 これまでの調理員さんは、子どもたちから「○○さん」と名前で呼ばれ、たくさんの子どもに慕われていた。行事のときに子どもといっしょに昼食を作ってくれたりもした。そういう関係性は、今後も成り立つのだろうか。

娘が調理員さんからもらった折り紙

 学校に通う子どもにとって、給食は大切なものだ。うちの子などは、給食の献立表を見ながら、「今日は絶対に学校に行かないと!」とか言っている。給食を株式会社に投げてしまうという姿勢は、子どもたちをバカにしている。

 もう1つの話は、地域の存亡にも関わるような問題だ。路線バスの大幅減便計画が示された。我が家の前を通るバスについては、「上り8便、下り7便」から「上り5便、下り4便」へ、およそ半減させるという方針だ。

 これは単なる本数の問題ではない。「不便になるなあ」という次元の話ではない。生活が成り立つかどうか、暮らしていけるかどうか。そういう問題だ。実感から言えば、1日に7~8便あると、不便ながら、それで何とか生活できなくもない。けれども、4~5便では、それに頼って暮らすのは難しい。その差は大きい。

 バスで出会う人たちの顔が思い浮かぶ(第12回を参照ください)。路線バスで学校に通う子どもたちはどうなるのか。障害があって自転車や自動車に乗れない人はどうするのか。高齢になって車を運転しづらくなった人はどうすればよいのか。

 バスの便数削減や路線廃止について、「時代の流れ」と言う人はいるかもしれない。でも、気候変動対策を考えるなら、自家用車の抑制と公共交通機関の整備こそ、求められる流れだ。高齢者の「運転免許返納」との関係でも、バスや電車の重要性は明らかだ。

 そもそも、現代社会のなかで、交通機関はライフラインになっている。「採算が取れないので水道を止めます」「従業員不足なので電気を止めます」というのが許されないのと同じで、人の「足」を奪うことは許されない。

 相談どころか説明会もなく、各世帯への「お知らせ」さえもなく、自治連合会宛の紙一枚で路線バスの減便を強行する姿勢は、山里に住む人間をバカにしている。

 励まされるのは、地元の人が黙ってはいないことだ。私の集落の町会長さんは、緊急の町会を招集してくれた。隣の集落の方は、便数の維持を求める要望書をすぐに作ってくれた。

 減便計画が撤回されようとされまいと、言うべきことは言わないといけない。怒るべきことには怒らないといけない。山里をないがしろにする社会、弱い立場の人間を切り捨てる政治に対して、私たちの存在を突きつけなければならない。集落の尊厳、地域の気概の問題でもあるのだと、私は思う。

集落には寄り合い所がある

 山里に住む人は、大切な田畑を存続させることができる。壊れつつある自然環境を守る潜在力をもっている。

 山里が崩壊していけば、田畑が荒れていく。住む人が減ると、悪質スクラップヤードのような施設が入り込み、山里が「物置き」「ごみ捨て場」「発電場」に変えられてしまう。

 せめぎ合いの最前線が、私の目の前にある。

『気候変動と子どもたち 懐かしい未来をつくる大人の役割』
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