見出し画像

【連載エッセー第8回】生きものの死を見つめる

 丸山啓史さん(『気候変動と子どもたち』著者)は、2022年春に家族で山里に移り住みました。持続可能な「懐かしい未来」を追求する日々の生活を綴ります。(月2回、1日と15日に更新予定)

**********************************************************************************

 先日、家から50メートルほどのところで1頭の雌鹿が亡くなっていた。見たところ目立った外傷はなく、血が流れたようでもなかったけれど、脚は硬直していて、ハエが集まってきていた。

 近所の人と相談して、猟友会の方に来てもらった。その方によると、クルマにはねられたのではないか、とのこと。道路からは少し離れたところに倒れていたのだけれど、クルマとぶつかり、いくらか自力で歩いてから力尽きたようだった。鹿の遺体は、猟友会の方が引き取ってくれた。

 鹿が死んでいると、ちょっとした騒ぎになる。一方で、話題になることさえないままクルマに殺されている生きものが少なくない。都会に比べると目に入る生きものが多いぶん、そのことが気になる。 

 5年生の息子が言うには、「雨が降った後に多い」のだそうだ。あちこちで、ヘビやムカデやカニやミミズがつぶれている。活動的になった生きものが路上に出てきて、人間社会の犠牲になるのだろう。

殺されたヘビ

 小学生の子どもたち2人は、学校から2キロほどの道のりを歩いて家に帰っている。だから、路上で命を奪われた生きものの姿をよく見ている。

 一方、あまり道を歩かない人もいる。日常的にクルマに乗っていると、道を歩く機会が減る。田舎の道を歩く人は、必ずしも多くない。子どもたちが森の道を歩いて家に帰ることも、驚かれることがある(驚く人も、昔は同じ道を歩いて通学していたのだったりするのだけれど)。

 クルマに乗っている人は、自分のクルマがカマキリを殺していることにも気がつかないかもしれない。他人のクルマにひかれた生きものの遺体も、走るクルマの中からでは見えにくいだろう。

殺されたカニ

 殺した自覚が加害者にあろうとなかろうと、被害者の死に変わりはないのだから、つぶされて干からびたカマキリにとっては、加害者の自覚などどうでもよいことかもしれない。ただ、加害者が加害に気づくことさえないのは、なんだか理不尽な気がする。 

 他人ごとではない。私は毎日のようにバスに乗っている。バスの大きなタイヤで踏みつぶされている生きものは少なくないだろう。それでも、バスに乗っている私は、そのことに気づかない。カエルが無残な死を強いられているときにも、私はただ黙々と本を読んでいるはずだ。

 クルマには、現代社会の闇を象徴するような側面があるように思う。

『気候変動と子どもたち 懐かしい未来をつくる大人の役割』