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連載⑤ 戦争と絶対隔離政策 ―― 戦前の無らい県運動(1)

 今年5月、江連 恭弘・佐久間 建/監修『13歳から考えるハンセン病問題 ―― 差別のない社会をつくる』を刊行しました。(以下の本文では『13歳…』と略します。)
 編集を担当した八木 絹(フリー編集者、戸倉書院代表)さんに、本に寄せる思いを書いていただきました。不定期で連載します。

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1931年「癩予防法]――絶対隔離政策の推進

 日本のハンセン病政策は「絶対隔離政策」であったといわれています。全ての患者を療養所に一生隔離し、外の世界で暮らすことを許さず、最終的には患者がいなくなることを目指すものです。法的根拠となったのは、1931年「癩予防法」と、戦後それが改正された1953年「らい予防法」。以前の回で紹介したように、明治政府は欧米列強に伍する「一等国」になるには、ハンセン病患者の存在を「恥」であると考え、1907年、浮浪患者を隔離する法律「癩予防ニ関スル件」をつくっていました。それを強化し、浮浪患者だけでなく在宅患者も収容できるようにしたのが「癩予防法」です。同法には退所の規定はありません。療養所内での監視は厳しく、社会での差別も強かったため、帰宅は困難でした。この歴史について、『13歳…』では子どもに分かりやすく説明しましたが、ここでは少し踏み込んで、戦争政策との関連で考えてみたいと思います。

「癩予防法」ができたのは、1931年、日本が「満州事変」を起こし、中国・東南アジア侵略を行った十五年戦争に突入した年です。この2つの年が一致しているのは偶然だとは思えません。

 かつて「救癩(きゅうらい)の父」と呼ばれた光田健輔(みつだ けんすけ)という医師がいました。全生病院(現・多磨全生園・たまぜんしょうえん、東京都東村山市)の院長であり、1930年に日本初の国立ハンセン病療養所・長島愛生園(岡山県瀬戸内市)ができると、初代園長となった人物です。光田は次のように主張しました。

「救癩の父」と呼ばれた光田健輔
(写真:国立ハンセン病資料館提供)

 「軍人は国の為めに屍を満洲の野に曝すを潔とし、進んで国難に赴いた。銃後の人は之れを支持するに勉めた。それと同じく我等も村の浄化の為めにも自分の疾病を治す為めにも進んで療養所へ行くべきである」(「癩多き村の浄化運動」『愛生』1934年12月号)。兵士が戦争に行くように、ハンセン病患者は療養所へ行けというのです。

 当時、日本の軍部は、戦争遂行のために国民体力の増進を叫んでいました。ハンセン病患者などは療養所に隔離し、社会には軍人・軍属として徴用できる壮健な若者と銃後を守れる人だけにすることが重視されたのです。それを「民族浄化」と美化しました。「浄化」とは汚いものを除去すること。先の光田の文章の題がまさに「癩多き村の浄化運動」です。「浄化」される身になればゾッとする言葉です。これが軍国主義であり、国民の身に染みついていきました。

県同士を競わせ、密告を推奨―― 焼きつけられたスティグマ

 そこで行われたのが「無らい県運動」です。文字通り「ハンセン病患者のいない県」にする運動で、県同士を競わせ、役所と療養所、住民が一体となって取り組まれました。このころ衛生の分野は警察が担っていました(衛生警察)。家の奥や山中の小屋でひっそり暮らしていた患者を探し出し、暴力的に収容することもありました。住民には当然、密告が奨励されました。

 1940年に熊本で起こった本妙寺(ほんみょうじ)事件(下の写真)はとくに大規模だったことで知られています。本妙寺周辺では、信仰と、参詣客からの喜捨を目的にハンセン病患者が集落をつくっていました。7月4日、あらかじめチョークで印をつけておいた家を、警察や九州療養所(現・菊池恵楓園・けいふうえん)の職員など200人以上が早朝急襲し、150人以上の患者をトラックに乗せて各地の療養所へ送りました。患者の家は焼き払われ、跡地は真っ白くなるまで消毒されました。

1940年7月の本妙寺事件。この収容で集落は解散させられた
(写真:国立ハンセン病資料館提供)

 暴力的な収容を目の当たりにした近隣住民は、ハンセン病とはそれほど恐ろしい病気なのだとの思いを強くしました。患者本人も、そのように扱われて当然の存在だと自らを諦めるようになります。社会に焼きつけられたスティグマ(烙印)です。現在までも続くハンセン病差別の原風景といえます。

 一方で、療養所とは「夢の国」であり、進んで入りましょうというのが「無らい県運動」でもあります。大きな役割を果たしたのが、皇室です。貞明皇后(大正天皇の妻)は1930年、癩予防協会設立の際に御手許金を下賜(かし)。1932年には、「癩患者を慰めて」と題した短歌「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」を詠むなど、「救癩」の象徴(*1)となりました。この歌は現在も各地の国立ハンセン病療養所に歌碑として残されています。

*1 「救癩」の象徴 隔離政策に国民の理解を得るために、貞明皇后を利用することを発案したのは内務省である。内務大臣が直接皇后に面会し、同意を得ている。その理由は、奈良時代に遡るが、聖武天皇の妻・光明(こうみょう)皇后の「救癩」伝説にあるといわれる。745年ごろ、光明皇后は法華寺(ほっけじ)(奈良市)を開き、日本最古の風呂といわれる「浴室(からふろ)」で病人を癒した。身体中が腫れて臭気のする人の膿(うみ)を光明皇后が吸うと、たちどころに病が消えたという。貞明皇后が用いられたのは、この伝承を現代に再現する意味があったと考えられている。

貞明皇后の誕生日6月25日を「癩予防デー」とした(1935年)
(写真:国立ハンセン病資料館提供)

*本稿は、多摩住民自治研究所『緑の風』2023年10月号(vol.279)にも掲載されます。

江連 恭弘・佐久間 建/監修
『13歳から考えるハンセン病問題 ―― 差別のない社会をつくる』
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◉『13歳から考えるハンセン病問題―差別のない社会をつくる』目次から

第1章 なぜハンセン病差別の歴史から学ぶのか
ハンセン病患者・家族が受けた激しい差別/ハンセン病とはどんな病気?/新型コロナ差別にハンセン病回復者からの懸念/過去に学び、今に生かす

第2章 ハンセン病の歴史と日本の隔離政策
日本史の中のハンセン病/世界史の中のハンセン病/日本のハンセン病政策/日本国憲法ができた後も

第3章 ハンセン病療養所はどんな場所か
ハンセン病療養所とは?/療養所内での生活/生きるよろこびを求めて/社会復帰と再入所

第4章 子どもたちとハンセン病
患者としての子どもたち/家族が療養所に入り、差別された子どもたち/生まれてくることができなかった子どもたち

第5章 2つの裁判と国の約束
あまりに遅かったらい予防法の廃止/人間回復を求める裁判/家族の被害を問う裁判

第6章 差別をなくすために何ができるか
裁判の後にも残る差別/菊池事件 裁判のやり直しを求めて/これからの療養所/ともに生きる主体者として学ぶ

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