夏目漱石の『三四郎』の話。情報が錯綜する。手が伸びずに鼻が伸びる。とらわれちゃだめだ。


 夏目漱石の著作、『三四郎』に次のような一節がある。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓ひいきの引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯ひきょうであったと悟った。

 主人公の三四郎に語りかける人物の名前は広田先生、本作で重要な立ち位置となる人物だ。この部分は、僕の好きなところだ。

 広田先生がなぜこの言葉を三四郎に向けたのかという経緯が面白いんだ。

 主人公の三四郎は熊本から東京に向かうところだった。時代は明治。新幹線など当然なく、長い道を歩き汽車を乗り継ぎ、途中で泊まってようやく東京に着く長い道のりだ。
 彼は東京に向かう旅の途中で、1人の未亡人に出会い、ひょんなことから彼女と同じ宿で一夜を過ごす。真面目な三四郎は彼女に気を遣いながらも一夜を過ごした。そして別れぎわに未亡人から「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言われて、三四郎は衝撃を受ける。
 東京に向かう汽車に乗り、未亡人から言われたことが頭から離れない三四郎。度胸がないと言われても、じゃあ度胸があったらどうなったんだ!? 頭の中は言わばやれたかも委員会なんだ。その上でいかんいかんと、フランシス・ベーコンの論文を取り出して読もうとする。しかし、内容が頭に入ってこない。読むのをやめ、頭の中で将来のことを考える。
 自分はこれから大学に行く、有名な教授と知り合う、センスのいい学生と交流する、研究をして著作を出す、世間が喝采して母が喜ぶ。
 そういった曖昧な妄想に近い未来を思い浮かんでいたら、論文を読むのに飽きて、自分の前に座っている人物を観察する余裕が出る。

 その前に座っていた人物というのが広田先生だ。

 広田先生の見た目の描写があった後、今度は本を読もうとする。汽車に置いてあった新聞を読もうとする。こうやってあれやこれややっているところを見ていた広田先生が三四郎に声をかけて、会話がはじまる。

 この時、広田先生は開口一番で三四郎に、「君は高校生かい?」と聞いているんだけども、つまりは先生にとっては目の前の三四郎はそれくらい幼く見えたということなんだ。

 ここで汽車が豊橋にとまり、広田先生は桃を買い、三四郎と食べることにした。桃を食べながら、先生は桃は不思議な果物だ、とか。正岡子規は桃を16個も食べた、という話の後で次のような話をする。

「どうも好きなものにはしぜんと手が出るものでね。しかたがない。豚ぶたなどは手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛って動けないようにしておいて、その鼻の先へ、ごちそうを並べて置くと、動けないものだから、鼻の先がだんだん延びてくるそうだ。ごちそうに届くまでは延びるそうです。どうも一念ほど恐ろしいものはない」と言って、にやにや笑っている。まじめだか冗談だか、判然と区別しにくいような話し方である。
「まあお互に豚でなくってしあわせだ。そうほしいものの方へむやみに鼻が延びていったら、今ごろは汽車にも乗れないくらい長くなって困るに違いない」

 この話を聞いて、三四郎は思わず吹き出してしまう。けれども、三四郎は笑ってる場合じゃないんだ。なぜなら、ごちそうに向かって鼻を伸ばした縛られた豚とは、さっきまでの三四郎のことを言ってるからだ。

 三四郎は汽車に乗って熊本から東京に向かっている。今となってみれば不便だが、あの当時としては熊本から東京に汽車に乗り継ぐことでいけるのはとてもすごいことだ。彼が夢想した大学で優秀な教授や素晴らしい仲間との交流を持ち、自分の著作を出して世間から喝采されるというのも。汽車によって、若者の可能性が大きく広がったことを考えれば、あながち夢物語じゃない。

 しかし、汽車に乗るということは行動を拡張させるものであると同時に制限されることでもある。三四郎は汽車の中で出会った未亡人に翻弄されただけでなく、論文、本、新聞でさえも満足に読めていない。その上で東京の大学で学ぶというご馳走が彼の鼻を伸ばしている。まるで嘘をついたら鼻が伸びるピノキオのように。

 だからこその、広田先生の「熊本より東京は広い、東京より日本は広い。日本より頭の中が広い」という言葉が活きるんだ。

 とらわれちゃだめだ、とはなにからとらわれちゃだめなのか。これは既成概念だけを差しているわけじゃない。田舎から東京に来れたという時代から与えられた可能性にもとらわれるな、ということだ。

 ご馳走に鼻を伸ばすということは、道筋が決まるということだ。その鼻の先にあったのが広田先生が匂わせた「日本の不幸」につながる。

 『三四郎』の序章はとてもよくできている。

 夏目漱石は朝日新聞で連載していた作家だ。
 今でいうところのジャンプの鳥山明とか、尾田栄一郎みたいなものだ。つまり、どれだけネームバリューがあっても連載開始の一話で読者の心を掴まなければいけない。『三四郎』は、小説を書き慣れ始めた夏目漱石の文章の上手さだけでなく、構成力の高さがわかる作品だと考えている。

  主人公である三四郎がどういう人物なのか。一話でわかるように描かれている。本作がどういう作品なのかも明示している。主人公が乗り越えるべき師匠的な立場のキャラを出し関係を際立たせている。

 シドフィールドの脚本術に書いてそうなことを『三四郎』は抑えている。まさに時代を超えて愛される名作だ。

『三四郎』の序章で描かれた広田先生と主人公のやりとり。これは現代でも通用することだと考えている。僕らは、三四郎よりもいろいろなことを知っている。彼が作中で起きる悩みに対して俯瞰した立場で眺め批評することができる。

 しかし、それは僕らがインターネットという巨大な汽車に乗っているからだということを忘れちゃいけない。僕らは、Twitter、FacebookなどのSNSで立派なことを語り、行動にうつすこともある。はたしてそれは自分の意思によるものか。ただ、鼻を伸ばしているだけじゃないのか。

 とらわれちゃダメだ。

頂いたサポートは本に使います。