泥人形の右手

 祖父母の家に行くのは年に2回ほどで、お盆と年始に儀礼的に顔を見せに行くくらいだった。本当は行くのが嫌だったけれど、嫌だと言い出せずに黙ってついていった。昔は携帯用ゲーム機も無かったから、ただひたすら祖父母の広い家の中で肩身の狭い思いをしていた。自宅でもそれほど無邪気に遊ぶ子供ではなかったが、ここではさらに他人行儀になっていた。

 あれは私が7つか8つの時だったろうか。例年通り祖父母の家に行って、墓参りをして、出前の寿司を取ってみんなで食べた。お寿司は美味しかったような気もするし、そうでもなかった気もする。

 翌朝、にわか雨が降ったが午前中には止んでいた。遊びにも出かけられなかったので、私はその日はずっと家で過ごすことにした。母や父や兄は居間のほうで祖父母と話していたようだった。私は一人客間の縁側でぼんやりと濃い灰色の空を眺めていた。祖父母が手入れをしている畑も目の前にあるが、そこに何が植えてあって、どうやって植えたのかなどの疑問は一切浮かんでこなかった。そういう実務的なことには何の興味もない子供だった。

 自分と同じぐらいの背丈の植物が植えてあって、空の暗い色を映すかのように、その葉も色褪せていた。私はぼうっとしてその元気のない葉っぱが風に揺れるのを見ていた。強い風が葉を揺らすと、わずかに残った雨の雫が落ちた。別に邪魔する人も、音もなかったから、それが一番心地よく楽しい遊びになっていた。

 その遊びを始めてから何分経った頃だろうか、緑の葉の間に土色の塊が微かに見えた。最初、それが何なのかわからなかったが、すぐに気が付いた。私と同じぐらいの背丈の男の子だった。その肌は土でできているような、泥でできているような、何とも言えない色だった。眼を凝らして顔をじっと見ると、目も鼻も口も何もついていない。つるりとしているわけでもなく、触れればボロボロと崩れてしまいそうなお粗末な球体を体にのせていた。

 私は彼に全く恐怖心を抱かなかった。こちらを窺うような様子というのは顔だけではなく、姿勢や体の微妙な震えで判断するものらしい。むしろ憐みや慈愛の心でもって、サンダルを履き彼の元に向かった。

 私が近づくと、彼は例の植物の影に隠れてしまった。言葉が通じるかわからないが、何かしら、彼が怖がらないで済むように声をかけたのだと思う。彼はゆっくりと前に進み出て来た。近くで見ると、正に泥人形で、しっとりとした全身は土で出来ていて、礫や石が混ざり合っているのも確認できた。色にはむらがあり、形も不安定ではあったが、それが自分と同じぐらいの年齢の男の子であることはわかった。そういう気になった。

 私は右手を伸ばして彼の右手に触れようとした。彼はびくりと動いて少し後ずさりしたが、私は構わず彼の右手を取った。ひんやりとした感触は泥そのもので、どうして形を保っていられるのか不思議なぐらい柔らかく、強く握れば崩れてしまいそうだった。

 私は笑った。行動や表情、感情は理性に先立つ。多分、友達になれると思ったのだろう。彼の方も安心したのか、緊張で強張らせていた肩を少し弛めて、握手に少し力を込めて返した。

 家の中から私を呼ぶ母の声がしたので、首だけひねり返事をした。彼の方に向き直ると、もういない。私の掌は泥まみれだった。

 その後1週間、私は祖父母の家にいたが、彼は雨が降った日だけ現れた。こっそりと家を抜け出して、彼と遊んだ。かくれんぼや鬼ごっこしかできなかったが、随分楽しかった記憶がある。雨の中、外で遊び、泥だらけになった私を見て、母は金切り声をあげて怒り、父は無関心にテレビを見て、兄は軽蔑の表情を浮かべた。

 彼と遊んだのはその年だけだった。理由はわからないが、祖父母と疎遠になった。大人になった今、理由はいくつか考えられるが、それを詮索してみても気が重くなるばかりだろう。父が亡くなり、平穏に過ごすことの増えた母親の心を乱すこともない。

 去年の夏、ふと祖父母の墓参りがしたくなった。結婚し、男の子を授かってから数年、家族の縁というものへの考え方が変わったのだろう。

 墓参りへ出発したは良いが、妻も子もつまらなそうにしている。確かに二人には縁の薄い話だから、当然と言えば当然だ。申し訳なくなり、私は一人で墓参りに行くことにした。妻に子を任せ、墓地の近くにある喫茶店で待つように言った。

 祖父母の家はもうなくなっていたが、墓地はまだ残っていた。思ったよりきれいにされており、ほとんど草むしりをする必要などないくらいだ。おそらく誰か、近くに住む人が手入れをしてくれているのだろう。私は仏花を供え、線香に火を灯し、手を合わせた。可愛らしい孫でなかったこと、今まで墓参りに来なかったことを謝った。

 雨が降って来た。予報通りだった。

 なんとなく祖父母の家があった辺りをフラフラしていた。

 雨の強弱は頻繁に移り変わり、傘がたてるリズムも私を飽きさせなかった。なんだか楽しくなって、二人が待つ場所まで少し歩幅を広げて歩いた。背中は汗ばんでいたが、心地よい運動をしている気になった。

 喫茶店の中にいる二人に手を振ると、けだるそうな顔をしてこちらを見た。

 「雨の日の気分はこんなものさ」

 私には諦めがついていた。雨は止みかけている。少しずつ彼らの気分も晴れてくるはずだ。

 妻と子が出てくるタイミングを見計らって、私は喫茶店の駐車場へ向かった。

 叫び声が聞こえた。2種類の甲高い声は私を動揺させ、振り向かせた。

 ドサリ、

 私の背中から落ちたものを見ると、二人が叫んだ理由が分かった。

 泥でできた男の腕が落ちている。立派で、ツヤがあり、力強い腕。

 妻は腰を抜かして口を大きく開け、子は目を大きく見開いて、目の前にあるものを信じられないといった様子で凝視している。今まで私が見たことのない表情だった。

 男の腕に見えた土くれも徐々に溶けて消えた。

 私は口元を手で隠し、我慢しきれずに噴き出した。

 帰りの車の中の二人の青い顔を思い出すと、今でもにやけてしまう。

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