帝人事件考察

斎藤内閣

はじめに

1934年、大手新聞である時事新報に掲載されたある一記事を発端に、政財界の大物を中心とする一大疑獄が発覚し、それが大蔵省に飛び火。ついに疑惑は内閣の重きを為していた高橋是清蔵相の足下まで及び、斎藤実内閣は総辞職した。

帝人事件が従来の疑獄事件と様相を異にするのは、その公判の過程で、事件そのもののでっち上げが判明からである。
37年12月16日に東京地方裁判所は被告人全員に無罪判決を下したが、その際、藤井裁判長は、この無罪判決について
「証拠不十分ではなく犯罪事実自体が存在しない為である」
と強調する異例の判決を下した。

世紀のでっち上げである帝人事件は、現代においても全容が知られない。
その為、同時期の政界において政権獲得工作を行い、ファッショの黒幕と噂された、司法官僚出身の平沼騏一郎に疑いの目が向けられがちである。
確かに、平沼であれば息のかかった司法官僚を指嗾し、事件のでっち上げを行えるかもしれない。政権獲得の為に斎藤内閣を倒閣するという動機も十分である。
何より、平沼が帝人事件の黒幕であれば、これほど腑に落ちるものはない。
こうして、平沼黒幕説は説得力を持ち、司法は国策捜査、検察ファッショなる汚名を被ることになる。

倒閣された側である斎藤実元首相は事件の裏に、平沼と陸軍皇道派・海軍艦隊派の策動があるのではないかと観測している。ただし皇道派の首魁である真崎甚三郎は、34年頃には平沼擁立を困難であると考えていた。
「政党側にては吾人が唱える不安の世相を特に宣伝の如く解しあり」
と述べるなど、復権しつつあった政党側の反撃を恐れ、当時の政局から距離を置いていた。むしろ斎藤内閣が倒れでもしたら、宇垣一成が擁立され、その下に政党が連合を組むのではないかと考え、斎藤内閣の継続すら望んでいた。

では平沼はどうであったのか?
確かに平沼は斎藤内閣前半期に政権獲得を目指し、皇道派の真崎、艦隊派の加藤寛治と密に連絡を取り合っている。政界においても、軍部を抑えれる人物であると評価された。しかし政権獲得の為にはどうしても得なければならない元老・西園寺公望の信頼を、平沼は最後まで獲得出来なかった。
西園寺はそれを匂わすことなく、平沼自身は西園寺の不信に気づいていなかったが、34年に西園寺が平沼の枢密院議長昇格を阻止したことで、自らの政権獲得の野望を断念。
帝人事件の頃には自らではなく加藤擁立に舵を切り、陸軍側の不興を買うなど、平沼派はバタバタの状況であった。

事件は倒閣を狙う平沼一派の陰謀であったのか?
筆者はそう単純な事件ではないと思う。
この事件を理解するには少なくとも二方面からのアプローチが必要である。

まず1つは帝人事件の発端となった時事新報社長である武藤山治と、帝人事件の渦中にあった郷誠之助ら財界の確執である。
そもそも武藤は何故、財界人たちの贈収賄事件を告発するに至ったのか。これを理解する必要がある。


もう1つは政友会における派閥争いである。
当時の政友会は、政権を逃したことで鈴木総裁派の権威が揺らぎつつあり、鈴木派は政権復帰に向けて様々な工作を行っていた。これを苦々しく思っていたのは、党内少数派である久原派である。
政友会の派閥争いは政界を不安定にさせ、政局を誘発させやすい状況を作り出していた。よって鈴木派と久原派の争いは理解する必要がある。

1. 帝人事件概略

まず、帝人事件報道とは具体的にどのようなものであったのか。

昭和恐慌の煽りで鈴木商店が倒産した際、その子会社が保有していた帝国人絹(帝人)株の過半数を台湾銀行が担保として受け取り、それを自己債務担保として日銀に入れていた。
この日銀が管理する帝人株買取は中々進展しなかったが、33年6月に河合日華生命専務、永野叶商店取締役らを中心とする民間の生命保険会社グループが名乗りを上げた。
彼らは中島久万吉商相斡旋の下、監督者である大蔵省や債権者である日銀に働きかけ、台湾銀行に処分を認めさせた。
帝人株買取に成功した河合は、手数料として20万円を正力松太郎読売新聞社社長や他の斡旋業者、株屋に分配した。正力はこの一部を鳩山一郎に送る。

この売買により帝人株は高騰し、河合らは利鞘を稼ぐことに成功した。
確かに帝人株売買においては政治的働きかけがあったが、売買当事者の間で合意が為された上の契約であり、通常の商取引にすぎず、何ら法的問題はない。

しかし34年1月、時事新報は「番町会を暴く」というキャンペーンの下、帝人株売買は贈収賄・不正株取引であると書き立て、その不法行為の中心に番町会という経済界の黒幕がいると指摘した。
ここに政財界を跨ぐ番町会のスキャンダルが誕生する。

2月になると帝国議会において帝人事件が取り上げられ、その追求の中で中島商相が足利尊氏(当時は朝廷に弓を引いた逆賊として知られる)を称賛した過去を暴かれて辞職した。
更に鳩山文相の樺太工業汚職が政友会代議士によって暴露され、辞職している。
4月には検察当局が、時事新報の記事をソースとした告発状を受理し、捜査を開始。帝人社長以下、河合、永野ら財界人だけでなく、黒田大蔵次官ら大蔵省官僚まで捜査の手が伸びた。
閣僚を相次いで失った政府に衝撃が走ったのは、黒田次官の嘆願書である。その書には、高橋蔵相の子息に金が贈られていたと書かれていた。捜査の手が内閣の柱石である高橋まで伸びたところで、斎藤内閣の命運は尽き、7月3日に総辞職した。

2.郷誠之助と番町会

時事新報が報じた番町会とは、財界の大御所として君臨した郷誠之助(当時、日本工業クラブ専務理事、東京商工会議所会頭、etc…を歴任。まさに財界の頂点)を中心とする、財界人の私的な集まりで、毎月、麹町番町にあった郷邸に集まったので、番町会と呼ばれていた。

郷誠之助の名は決して有名とは言えないが、昭和初期財界の中心人物であり、その影響力は絶大であった。
入閣要請は一度や二度ではないし、原敬もその手腕を買って政党入りを強く勧めたが、郷はそれらを全て断った。自らは決して政界に出ず、財界のキングメーカーであり続けた。企業統廃合や紛争調停だけでなく、経済界の問題について商工省高官と政策協議を行うほどの人物であった。
番町会は、郷の恩顧を受けた財界人たちによって形成され、メンバーは京成電鉄、阪神電鉄、日華生命、浅野セメント、伊藤忠商事ら大企業の重役たちであり、その準会員として、郷の側近であった中島久万吉の名前があった。

3. 中島久万吉

第一次世界大戦が国家総力戦となった結果、戦後、欧米では工場生産から組織に至るまで、ありとあらゆるものの合理化、能率化が追求された。
20年代の日本においても能率推進運動として、機械の導入、工業規格統一、作業や工具の標準化、組織改善など行われた。
30年になると、浜口内閣は金解禁のために産業合理化政策を掲げ、その推進の為に、商工省の外局に臨時産業合理局を設置した。
その顧問となったのが、中島である。

中島は経済界の産業合理化運動を推し進めたが、国際的な経済競争に対応する為、産業合理化の一歩先として、統制経済よる資本主義の修正を求めた。
当時、資本主義は生産過剰、行き過ぎた経済競争により行き詰っていると考えられていた。企業間の協調は失われ、市場経済は破綻し、大量の失業者が誕生する。
それを回避する為に、国家が経済を統制し、資本主義を自ら修正しようというのである。

斎藤内閣が誕生すると、中島は商相として入閣する。
挙国一致のために経済界の代表者を得る、という名目の下、斎藤は財界のボスである郷を抱き込む為に、中島を入閣させたのであった。再び政界に戻ってきた中島は、高橋蔵相と組んで、より一層の産業合理化・統制経済を推し進めた。
中島の政策の中で目覚ましいのはトラスト化(企業合同)である。
八幡製鉄所・富士製鋼・東洋製鉄・釜石の大合同。王子製紙、富士製紙、樺太工業の合併。三十四、鴻池、山口銀行の合併が、中島商相の指導の下、行われた。
トラストだけでなく、重要産業統制法を強化することでカルテル化(企業間が生産・価格調整の協定を結ぶこと)も推し進めた。
大企業やカルテルが誕生すれば、国家が大企業を通じて経済界に干渉しやすくなる。この政策は中島だけでなく郷も意図するところであった。

このように、斎藤内閣における統制経済は、中島・郷ら財界に主導権があり、財界が国家に入り込み、政府を利用して推し進めていた。
財界人の私的会合に過ぎなかった番町会は、財界の権力核となり、強大な政治力を持って、政府の経済政策を推進する立場にあった。

4. 武藤山治

一方、番町会を暴いた時事新報の社長が武藤山治である。
鐘紡社長として温情的な労働協調を行った実業家であり、昭和初期屈指の自由経済主義者として、保護政策や補助金のような国家社会主義的な政策を批判し、国営事業の民営化を推し進めて、政府の経済からの撤退を強く主張している。

22年に日本経済連盟会が結成された際、多くの有力財界人が参加する中、武藤はただ一人断っている。その理由は、連盟会により実業家が政府の保護を受けようとするのではないかと危惧していたのに加え、連盟会に郷や井上準之助のような財界の少数エリートが関与していたからだ。

武藤は「我々実業界の仲間に所謂政商なるものがある」と述べて、経済界の一握りの人間(郷や井上)が権力核となり、政府や政党と繋がり、政治に影響を行使することを批判した。それは政治の腐敗に繋がるからである。
武藤は自らの信念通りに、紡績業界の利益を代表する政党を結成して政界に打って出た。国民の信任を得て、紡績業界の利益を代表して議会に立とうとした。しかし、二大政党の壁を打ち壊せず、その試みは失敗した。

政党を結成して政策を実現するという武藤の試みを正道と呼べるならば、財界の大物が政府や政党と私的に結びつき、密室で談合する政治システムは邪道である。
しかも斎藤内閣には産業界を代表する中島が、産業界を監督するはずの商相として入閣しているという、矛盾を生み出している。
斎藤内閣下における財界と政治の癒着は、目に余るものがあった。

5. 日英通商摩擦

斎藤内閣期、カルテル統制は重化学工業が中心であり、軽工業分野は遅れていた。
特に強力な同業組合を結成していた紡績業は、自主統制が出来ていると主張し、重要産業統制法に反対し続けていた。

この紡績業が外交問題を引き起こす。
高橋蔵相が金輸出を禁止したことで円為替は急落し、繊維製品の輸出が急伸した。
紡績業界は、満州事変によって落ち込んだ中国市場ではなく、インドやオーストラリアなどの英国市場に打って出た。
だが、安価な日本製品が短期間に大量に雪崩れ込んできたせいで、現地英国資本は脅かされ、日印間の通商摩擦に発展した。
33年にはインド政府が日本との通商条約破棄を通告して自国産業保護に動き、繊維品だけでなく日本製品全体に影響が出る事態となった。

日印政府は会商を開くが、英国がインドにおける非英国製品に対する高関税率を発表した。日本の紡績業者はこれに反発し、対抗措置としてインドの綿花買い付け禁止を決議する。
斎藤内閣は日英関係改善の必要性を唱え、交渉妥結に向けて、商工省が紡績業界の説得に当たった。

この事件を巡り、中島は紡績業界に激怒していた。
業界内部でカルテルを組んで自主的に調整することもなく、過剰生産で業界全体で損失を出し、日英関係を悪化させるにまで至っている。
「ある種の無統制工業などは同業互に競争の余り下値下値と廉売して、収むべき相当の利益をも収め得ず、同時に日本のダンピングなどと海外の市場に苦情の種を蒔いておる」
と紡績業を無統制工業と批判し、無統制であった輸出貿易に対して輸出組合を作り、強力な貿易統制を取る方針を発表した。

政府の統制経済と紡績業界利益は、こうして対立を先鋭化させた。
片や、無軌道に過剰生産・過剰輸出を繰り返す産業を統制する中島。
片や、自由貿易を訴え、業界利益を代表する武藤。
両者の対立のその行き着く先に「番町会を暴く」があった。

このように、帝人事件の発端となった時事新報の記事は、統制経済を推し進める郷・中島ら番町会と斎藤内閣の癒着に憤る、武藤怒りの告発という文脈で解する事が出来る。
では、この告発記事が何故斎藤内閣を吹き飛ばすほどのパワーを持つようになったのか。それを理解する為に、政友会を中心とする政界再編の動きを説明しようと思う。

6. 政友会の派閥

まず、当時の政治状況を語る前に、政友会の派閥について簡単に説明する。

当時最大派閥であったのは、鈴木喜三郎総裁を領袖とする鈴木派であった。
領袖には腕の喜三郎として面倒見の良かった鈴木、その片腕が後の総理大臣である鳩山一郎と、対外強硬派・武闘派として知られる森恪である。
鈴木派は田中総裁時代に当選した若手議員を中心とし、田中チルドレンの側面が強く、田中総裁を支える中で勢力を拡大していった。更に鈴木派は犬養総裁擁立に成功したことで一挙に第一勢力にまで発展。犬養が斃れた後は、勢力図そのままに鈴木が政友会総裁に就任している。

第二勢力であったのは、床次竹二郎を領袖とする床次派と、政友会の古参議員たちを中心とする旧政友会の連合である(便宜上、床次派とする)。
床次は原総裁時代に見出され、内相を歴任した人物であり、総裁候補として幾度もなく名前が挙がる人物であったが、高橋総裁時代に政権獲得の野望から党を割った(後に復党)せいで中々総裁の座が回ってこなかった。
政友会の古参議員たちは、新参者である鈴木よりも床次を信用し、鈴木派に相対する派閥を形成している。

最後に、党内少数派閥であったのが、久原房之助を領袖とする久原派である。

7. 昭和の怪物・久原房之助

久原は立志伝中の人物である。
久原鉱業(後の日産)を起こし、鉱山王として名を馳せていた久原は、その有り余る金を政界にばら撒いていた。特に金を融通したのは、同郷の上に青年期から親交のあった田中義一であり、田中の政界入り後も有力な資金源となっていた。
1928年には田中との関係から政友会に入党。政界に親しい協力者がいなかった田中は久原を重用し、代議士一年目では異例の入閣を果たしている。
これには政友会内部から異論が続出し、昭和天皇も苦言を呈している。

犬養総裁時代には政友会幹事長に就任。幹事長として臨んだ32年総選挙で大量の子飼い議員を獲得し、豊富な資金を背景とする久原派を形成した。
なお、この当時、久原は鈴木に金を融通しており、両者は協調関係にあった。

8. 鈴木派の凋落

鈴木派の凋落は斎藤内閣誕生から始まる。
515事件後、鈴木は大命降下に備えていた。憲政の常道ルールに則れば、首相がテロや病気に斃れた場合は、後継首相は同党の後継総裁に移動するのが常であった。現に憲政会総裁・加藤高明首相(病死)から憲政会後継総裁若槻礼次郎に、民政党総裁・浜口雄幸首相(病死)から民政党後継総裁若槻に政権が移動している。
しかし後継首相を選定する西園寺や宮中高官は、満州事変(外なるクーデター)515事件(内なるクーデター)昭和恐慌(内政問題)という3つの重大問題を抱えた中で、鈴木では力不足であると判断。
政権は政党員ではない海軍穏健派の斎藤実に移動した。斎藤は政党・官僚・財界から広く人材を集めて挙国一致内閣を組織し、3つの重大問題に取り組む事となる。

斎藤内閣の誕生を以って、戦前における政党内閣制は終焉したと、よく説明される。それは一つの事実ではあるが、西園寺は政党内閣制を諦め切れていなかった。
確かに、政党の醜聞は目に余るものがある。しかし政党内閣制こそ最も理に叶った制度である。ならば、政党自らが更生して、国民の信頼を回復した後に、再び政党内閣に復帰すれば良いと考えた。
よって斎藤内閣は、3つの重大問題の解決の他に、政党内閣制の復活という使命を帯びる事になった。

そのような西園寺や斎藤の思惑などつゆ知らない政友会は、政権が素通りした事で衝撃を受けた。当時、政友会は300議席を擁する大政党である。衆議院の大政党を無視した政権の存在は成り立たないと考えられた。そのような常識を無視した斎藤内閣に対し、鈴木政友会はどのような態度を取るのか。

9. 政権授受工作

斎藤は組閣の中で鈴木を訪問し、鈴木の入閣と政友会の協力を求めた。
ここでもし鈴木が非協力を決定した場合、党内は分裂する恐れがあった。
というのも、政友会の重鎮である高橋是清が早々に入閣要請を受諾し、これを床次派が、政友会の分裂を辞さない覚悟で支持していたからであった。
300議席という数は政友会の力の源泉である。これを自ら崩す法はない。こうした政友会の内情が、鈴木の斎藤内閣支持を引き出し、ここに斎藤内閣は誕生した。

勿論、鈴木も斎藤内閣誕生を座視したわけではない。絶対多数の議席を擁して、政権獲得に乗り出そうとする。
その工作が政権授受工作である。
鈴木のシナリオは、議会において政友会の力を見せつけ、その協力なくしては内閣の存続が困難なことを認識させ、期間限定の協力の代表として鈴木に政権を譲り渡すことを、斎藤に確約させるというものだ。政友会の絶対多数を保ちつつ、民政党内閣や解散の危険を回避する、美味しすぎる話である。

この方策に則って、政友会は議会に提出された政府法案に対し、注文をつけた。
ただし、斎藤内閣の高橋蔵相や山本達雄内相は、政友会が議事進行を妨害する度に、衆議院の粛正の為に解散すべしと主張していたので、政友会も強くは出れなかった。
無論、解散総選挙となれば政友会の300議席維持は相当困難なものになるし、過半数を割れば、政友会内閣など夢幻に終わる。ましてや選挙を司る内務大臣は、民政党寄りの山本であったことも、政友会の強硬姿勢を挫折させるに十分であった。

このように、政権授受工作も万能ではなかったが、政府も政友会との何かしらの妥協を行うことの必要性を認識しつつあった。
そして岡田啓介海相(かつての田中内閣の閣僚で、政友会との繋がりがある)と政友会の森恪を介した政権授受工作が開始し、政友会の議会協力と、通常議会終了後の内閣退陣が約束されようとした。

10. 政権授受工作の失敗

一度はまとまりかけた授受工作ではあったが、高橋・山本は解散辞さずの覚悟を決めており、政友会側の授受工作の窓口であった森が急逝したこともあって、この約束は自然消滅してしまった。

政友会は斎藤の了解があったものと思っていたが、斎藤は授受工作について岡田と森の出先のみで処理された事だと解釈し、政権授受を拒否しつつも取引に応じる姿勢を見せるなど駆け引きを行なっていた。

結局、岡田ー森間の政権授受工作は頓挫したが、今度は高橋と鈴木の間で同様の交渉が行われた。高橋は鈴木に対し、本会議終了後が総辞職の時期である事、政友会の言動が政権欲から出たものでないと国民に印象付けるならばそれで良い事、閉会後に蔵相を辞する事を言明し、その代わりに議会中は協力してほしいと願い出た。

鈴木これを許諾した。
高橋の辞任は、それを契機とした内閣総辞職であり、政友会への政権授受が約束されたようなものである。鈴木にしてみれば、これは政権授受の約束以外、何者でもない。鈴木は政友会代議士に対し、通常議会における政府攻撃を許さず、あらゆる政策に対して協調姿勢を貫いた。
ただし老獪な高橋は、自分の辞職と内閣総辞職が直結することは示唆に留め、しかも斎藤の了解についても一切言明せず、明確な言質を与えることはしなかった。

この高橋の密約が問題となったのが、通常議会の終わりが近づく3月頃である。
高橋は、自分は約束を守って辞職するが、政友会が後任の閣僚を出さなければ解散の決意で進むべきだと、斎藤に進言した。
やはり、高橋は内閣存続の為に、鈴木に毒を盛ったのである。

対して鈴木は、高橋辞職を契機に後任閣僚を出さず、同時に鳩山文相も辞職させて、政変を引き起こす構えであった。しかし高橋は一向に辞める気配はなく、鈴木との面会も謝絶するようになる。この高橋の強硬姿勢に政友会は何ら有効な手立てはなかった。
無論、政友会出身閣僚の鳩山と三土を辞任させて、政権に打撃を与えることは出来る。この場合、斎藤に退陣の意思がない以上、政府が解散総選挙に打って出ることは容易に予想できる。
政友会内部には鈴木政権を望まない床次派・久原派の動きがあり、鳩山が抜ければ床次が入閣する最悪のシナリオまで考えられる。これがより一層、鈴木の行動を慎重にせしめていた。

こうして鈴木は強硬姿勢を取らず、高橋も辞意を撤回した。
一連の政局は政友会の大惨敗であり、鈴木総裁の威信は大きく低下した。

11. 政民連携運動

鈴木総裁の威信が低下する中、鈴木の腹心である鳩山は中島商相を介して政民連携運動(政友会・民政党の連携)を進めようとした。政民連携運動が成功すれば政党内閣復活に大きく進む事になるし、それを主導する事で鈴木派の勢力挽回を図ろうというのだ。それを座視する訳にいかない床次派・久原派はこれに参加し、政友会内部で政民連携運動の主導権争いが勃発する。

斎藤内閣は、政党側から起きた連携運動を政党浄化、政民両党の与党化に利用しようとした。33年12月25日、斎藤首相の了解の下、中島商相の斡旋で政民両党幹部の懇談会が開催された。政友会からは鈴木派、床次派、久原派が、民政党からは町田忠治ら幹部クラスが参加した。
政民連携運動は34年1月23日には床次が議会において内閣支持を表明し、政民両党の大同団結を訴えた事で絶頂を迎える。党内情勢は鈴木派・床次派の綱引きではあったが、鈴木派は政民連携運動に大きな期待を寄せていた。

12. 政民連携潰し

このような情勢の中、34年の通常議会は大波乱となる。

まず、2月2日、貴族院本会議において帝人事件が取り沙汰された。
次に2月7日、同じく貴族院本会議において、菊池武夫が中島商相の足利尊氏賛美に言及し、その所見を問いただした。
これは、25年に中島が発表した論文が本人の許可なく雑誌に転載され、その内容が逆賊賛美の批判を浴びたのであった。答えに窮した中島は9日に辞職している。

なお、中島は足利尊氏問題を「軍部ならびにその手先の私に対する犬の糞の仇討的反撃」と回想し、軍部の関与があることを示唆している。
しかし、軍部(特に皇道派)は宇垣内閣誕生に対する牽制から、斎藤内閣支持を表面的に示しており、政界の争いからも距離を置いていた。

更に、2月15日、久原派代議士である岡本一巳が、樺太工業の汚職事件に絡んで、鳩山文相の贈収賄疑惑を暴露した。その口上が「あれは五月雨の降る頃…」と始まる事から、五月雨演説と呼ばれる。
岡本の造反は鈴木にとって全く予想外である。政友会が民政党と協調して、政府に協力する事で政権授受を目指す政民連携運動を根幹から揺さぶるものである。
結果、鳩山も3月3日に辞任を余儀なくされ、斎藤内閣は一ヶ月の間に二人の閣僚を失う打撃を受けた。

鈴木派は久原派の造反に対し、岡本らの久原派代議士3名を除名処分としたが、除名に反対する床次派・久原派は態度を硬化させ、鈴木総裁の威信はますます低下した。疑獄の中心にいた鳩山が御構い無しで、疑惑を指摘した岡本が手打ちに合うなど、まるで松平忠直以上であると、鈴木を面罵する代議士もいたと言う。

このように、政民連携運動を主導した鳩山と、それを仲介した中島が政権中枢から去り、政民連携運動は妨害された。この妨害には(少なくとも五月雨演説には)久原派が関与している。久原にとって政民連携運動は党内優勢を確保するための道具に過ぎない。鈴木派・床次派が相乗りしてきた時点で、政民連携は全くの無用である。
中島は自分が政治的に狙われた理由を、政民連携運動を斡旋した事だと述べ、暗に政民連携運動をめぐる政治抗争の存在を示唆している。

このように、斎藤内閣末期の政界には鈴木派と久原派の確執、武藤と番町会の確執があった。(検事局と大蔵省の確執については今回は説明を省略する)
その確執が「番町会を暴く」の記事を介して拡大して燃え広がり、帝人事件に発展し、斎藤内閣を倒閣してしまったと解釈することも出来よう。

13. 帝人事件の黒幕は?

それでは帝人事件の黒幕は久原房之助と断言出来るのか?
否。
帝人事件の関係者である武藤山治や黒田検事が相次いで世を去り、未解明な部分も多く、事件の全容が推測の域を出ない。言葉を濁しているのはそのせいである。

ただし全体的に見れば、政民連携運動をめぐる政治抗争が帝人事件に大きく関係していたと言えるし、平沼黒幕説よりは余程説得力があると思う。

こうして様々な思惑が絡まって、奇妙な安定感を持っていた斎藤内閣は倒れた。
政党の浄化を目標にしながら、政党の内紛が一因となって内閣が倒れたことは、どのような影響をもたらすのか。政党不信が加速して一挙にファッショに傾くのか。政党が踏ん張って信頼を回復するのか。
それを知るには続く岡田内閣期を勉強する必要がある。

参考文献

「挙国一致内閣期の政党」 佐々木隆
政友会と斎藤内閣の政権授受工作について。基本的な論文である。

「平沼内閣運動と斎藤内閣期の政治」 堀田慎一郎
「挙国一致内閣期の枢密院」 佐々木隆
「平沼騏一郎内閣運動と海軍」 手嶋泰伸
平沼擁立運動についての実態について。

「昭和史の怪物たち」 畠山武
「昭和戦前期立憲政友会の研究」 奥健太郎
「「重臣ブロック排撃論者」としての久原房之助」 柴田紳一
久原房之助と政友会の派閥について。
特に、昭和戦前期立憲政友会の研究は必読の部類である。

「財界の政治経済史」 松浦正孝
渋沢栄一や郷誠之助といった財界世話業と政治との関係について。
非常に示唆に富む一冊。控えめに言って名著。

「昭和戦前期の政治と国家像」 菅谷幸浩
帝人事件について。
同著は他にも天皇機関説事件について深い洞察を得られる。

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