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文と芸展を見に行った話


渡辺元気さんの「文と芸展」を見に行った。
渡辺さんとはデザフェスで知り合った。何々をしている方、という紹介がとても難しい人なのだけど、僕から見えている範囲だけで言うと、「文章表現を様々な面白いアプローチで試みている方」という感じのひと。

「文と芸展」はとても刺激的で、楽しかったし有意義だった。
言葉をテーマにした展示でありながら、「言葉は不完全」と告知段階で強く銘打っていたこの展示。色々な方法で、言葉の不完全さや、その不完全なものに人がどれだけ囚われているかや、言葉を過信してしまうことの危うさみたいなものが表現されている。

角度を変えると崩れる文字と、崩れない文字


展示は言葉の粗探しのような内容でありながら、言葉に対する愛を強く感じる。言葉を愛し、言葉の力を大きいものに感じるからこそ、作用に伴う反作用をもしっかりと見つめておきたい、という思いが、この言葉に対する執拗なまでのメタ的哲学へと彼を走らせているかも…なんて勝手に想像したりしました。


言葉のもつ不完全さであったり、または便利すぎて望まない力が働いてしまう危うさだったりについては、何か言葉に纏わる表現ごとをする人であれば、みんな一度は考えたことがあるんじゃないだろうか。
僕は、なんとなく言葉での表現が好きだということを自覚し始めた中学時代、ポルノグラフィティの「パレット」という曲を聴いた時に、はじめて言葉のもつ不完全さについて考えた。

だって知っている言葉はほんのちょっとで
感じれることはそれよりも多くて
無理やり窮屈な服着せてるみたい

「パレット」より


僕は特に、はじめは歌詞という形で言葉での表現に触れたので、言葉と音との関係やバランスについて悩むことが多かった。
(「パレット」はその辺りのモヤモヤを痛快に歌い飛ばしてくれる名曲です)
しかし悩ましいながら、サウンドやメロディの力はやっぱりとても頼もしく、ましてライブであれば身体がその場にあるわけだから、使えるものがとても多い。
だからこそ、初めて小説を書いてみたときは、率直に窮屈だと感じた。言葉に閉じ込められる感覚。全てを文字に込めなくてはいけないことがものすごく大変に思えたものだった。
今になって、「本」という媒体が、読者の頭と身体の力をものすごい拘束力で借りているものだという感覚があるけれど。そういう意味で、また違った武器をもらっているのだけど、それに気付くまでは丸腰どころか、手足を縛られているみたいな不自由さの中で書いていたな。とかとか、そういうのを思い出しました。

もうひとつ、「文と芸展」の中で思っていたのが、先日11回目を終えた「ことばあつめの夜」のこと。

夜の書店に集まったみんなで、言葉を集めて一冊の本を作るこのイベント。
毎度、集められた言葉たちを本の型に編集しながら、言葉のもつ確かな力を思い知る。
同じ夜に同じ場所で生まれた言葉たちはあの夜を何度でも蘇らせるし、それを書いた誰かとなって、もう一度夜を過ごすようなときもある。
言葉が記憶を起こし、記憶が五感を揺らし、今ここに確かな体験を連れてくる。


自分の中で、現実を越える体験を作りたいという思いがどこかにあって、その手段として僕は言葉を選んだ。
「経験がないから共感できない」という至極真っ当な理屈を、言葉の力はひっくり返せてしまう。それは、これまでの様々な読書から実感してきた。

けれど、それだけの怪力を持つからこそ、言葉の前では一度立ち止まるようにしたい。立ち止まって、その不完全さをしっかりと見つめたい。
「文と芸展」では、入場時に『言葉』という文字の形に穴が空いたフライヤーが配られた。

「文と芸」のXアカウントより。

このフライヤーは会場の窓にも一枚貼られており、「言葉」の形の穴から、空が見える仕掛けになっていた。広い空と、その一部分を切り取った小さな小さな窓、言葉。
言葉というものが、物事のほんの一部・一面を切り取ったものにすぎないのだという発見と同時に、言葉の外に広がる世界の広大さに意識が向く素敵な仕掛けだと思った。

言葉の内と外について、これからもじっくり考えてゆきたい。

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