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因果と宿命

「人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろ う、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である。」
小林秀雄「様々なる意匠」『小林秀雄全作品1』,新潮社,二〇〇二年,一三八頁 

世の中には因果論というものがあり、宿命というのは因果によるものだとする考え方がある。私はこの考え方を否定しない。
ただし一方で、小林秀雄氏が指摘した「様々な可能性を抱いて生まれて来る」ことも否定するものではない。

そもそも地球上というものが一種の監獄であるという見方をする私にとって、因果論は整合性をもって迎えられるし、その一瞬一瞬の生という場において、選択があり、その選択において「様々な可能性」を持つ事も否定しない。
しかしながらである。小林秀雄氏の指摘通り、「然し彼は彼以外のものにはなれなかった。」のであり、実に「これは驚く可き事実である。」ことも否定すべくもないのだ。

すなわち「彼が彼以外のものにはなれない」という枠組みは、「構造」として、未来という時間方向においてある程度の広がりを持って存在しているわけである。
それでも彼は「彼以外のものにはなれない」わけなのだが、その彼以外の何者でもない中でも、泥道を喘ぎながら這いずり回るのか、舗装された道を自転車で行くのか、エアコンのきいた高級リムジンの後ろに収まるのか、航空機のファーストクラスで行くのかという選択肢は残されている。

問題はそれがどのようにすれば、どの選択肢が将来何につながるのかが見えにくい点にある。

それについては所謂「道徳」や、「宗教」が道を指し示していると考えて良いわけだが、残念ながら個々人にあったものにカスタマイズされているとは言い難い。中には現代の生活には合わないものがあったり、過度に外部との接触を遮断するような「カルト」的な宗教も現存する。

私が中国古典に親しんでいることは以前にもお話しした通りだが、面白い事に中国の古典にはその個々人にあったカストマイズ可能な方法が記載されている。

だからこそあえて私はこう思うのだ。

「彼が彼以外のものにはなれない」が、「生き方」は選択できる。

尤もこうでも思わないと、やっていけないのも事実なのだ。

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