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管理される登山者 -保障と引き換えたもの-

こちらの記事は私のブログからの転載です。

こんにちは、山岳ガイド/カメラマンの廣田勇介です。

さて14日の時点で、東京と神奈川、千葉、埼玉、大阪、京都、兵庫、北海道を除く県において緊急事態宣言が解除されました。(5/17 執筆)それにともない、日本山岳ガイド協会(JMGA)からも、緊急事態宣言解除後の登山再開についてのガイドラインが発表になりました。大変な状況の中で、ガイドライン作成に尽力してくださったJMGA内の新型コロナ対策委員会の皆さんに感謝を申し上げます。

【開放へと進む各国】

日本より圧倒的に人口も少なく、感染者数も少ないニュージーランドでは、先日、登山などのアクティビティが解除されました。

https://covid19.govt.nz/alert-system/alert-level-2/

特徴的なのは、ニュージーランドでは新型コロナの感染リスクを段階的に分けているところです。現在は、レベル2という段階にあり、レベル2になって登山行為がOKになりました。こういったリスクレベルを段階的に評価できるモデルは、いつも、海外が先行して運用し、我が国はそれを、輸入するという形になっています。なぜ、私たち日本人はリスク評価というプロセスを上手に運用できない、もしくはいつも後手後手にまわり、海外から借り物をしてしまうのでしょうか?


【リスクの語源】

リスクという言葉の意味は、アジェンダというカタカナ語よりは知られていますが、マニフェスト(多分、もう誰も使わない)という言葉と同じくらい、あやふやな言葉といえます。まずはリスクという言葉の定義を理解するところから始めます。

リスクは元々、ラテン語から派生したイタリア語「リズカーレ(risicare)」がその語源だといわれています。中世の地中海には、リズカーレと呼ばれる荒らくれ者の船乗りがいました。海賊が横行し、まだ航海術も確かではない時代に、危険な航海にでかけ貿易で巨額の富を築いたのがリズカーレです。

転じて、リズカーレとは、「勇気をもってチャレンジする」という意味の言葉になりました。リスクの語源はこの「勇気をもって試みる」という言葉にあるのです。「試みる」ですので、リスクという言葉には、人間の意思によって選択できるという意味あいが含まれています。

そして、現代においては、医療、経済、航空分野など様々な分野でリスクという概念が使われていますが、ここでは登山など野外スポーツにおけるリスクという意味で考えていきたいと思います。


【損害を受ける可能性】

登山におけるリスクとは「損害を受ける可能性」のこと。例えば、解けた靴紐のままで歩いている人がいるとします。

靴紐が解けた状態であっても、それ自体では損害を被る訳でも、何か危険な訳ではありません。しかし、解けた靴紐で歩いた場合は、靴紐を踏み転倒したり、靴紐が岩や枝などに引っかって倒れたりする危険性があります。リスクとは何らかの行為をすること、あるいはしないことによって引き起こされる損害の可能性。この場合、解けた靴紐が長ければ長いほど、転倒の可能性は高まりますし、短くても長時間歩いていれば転倒の可能性が増えます。リスクは時間と空間の作用によって高くも低くくも変化していくわけです。


【リスク・マネジメントとは?】

リスク・マネジメントとは、この変化するリスクを、主に業務のために管理する方法論のことをいいます。つい最近、リスクマネジメントに関して、面白い意見を耳にしました。自衛隊の特殊部隊である特殊作戦群を創設し、その初代群長として活躍され、退官後は武道家として活動されている荒谷卓さんのお話です。


荒谷さんは、陸上自衛隊で空挺団などに勤務されたり、ドイツ連邦指揮大学に留学され、戦略研究などをされていましたが、日本を取り巻く諸外国の情勢の変化から、特殊部隊の必要性にいち早く気づき、自ら立案献策され、なんと自ら米国特殊作戦学校(通称・グリーンベレーQコース)に正規留学、卒業し、帰国後、陸上自衛隊内に特殊作成群を創設、初代群長に就任された方です。

文字通り国内屈指のリスク・マネジメントの専門家、かつそれを多方面において実践されていらっしゃる方です。下記は荒谷さんのフェイスブックでのコメントを抜粋。

❝リスクマネージメントの基本は、目的を達成できるようにリスクを軽減することです。(中略)危ないからと言って逃げてばかりいたのでは目的は達成できません。目的に沿って、リスクがリスクで無くなる様に自己及び社会改革を図ること。これが正しいリスクマネージメントです❞

いかがでしょう。さきほどのベネチアの船乗り「リスカーレ」にも通ずる言葉です。

ここで重要なのは、まず最初に「達成したい目的がある」ということだと思います。その目的を達成するために、リスクを軽減すること。それがリスクマネジメントの専門家が定義する、それなのです。私たち登山ガイド、登山者に置き換えれば、どういう目的のために、新型コロナウイルスの感染のリスクを減らしているのか?ということです。


それはいうまでものなく、「山に登る」ためであり、登山ガイドであれば、登山をしたいと願うゲストを「安全に案内する」ためです。私たち登山者の多くは、自治体からの自粛要請を無条件に受け入れてしまい、長らく次のステップが見出せずにいました。その理由はひょっとすると、この「山に登りたい」という目的が明確でなかった、もしくは目的の実現を強く願っていないからなのでは?とも思えてきます。

「いやいや、自分は登山がしたいから、今は我慢して自粛をしていたのだ」という方も多くいらっしゃると思います。

では、そこから一歩踏み込み「どのような状態になれば、登山が可能か」という点を、明確に答えられる方がどれだけいるでしょうか。

「緊急事態宣言が解除され、府県をまたぐ移動が可能になったら」という答えでは、こころもとありません。それは第三者(国や自治体)の指示に従うだけで、自らの意思でリスクを捉え、分析評価しての行動とはいえません。

また、「登山をしたい」という目的が明確であれば、自粛要請を受け入れるのと同時に、どのような状態で登山が可能なのか、 議論が進むはずだからです。しかし、現実には「いかに他人に自粛を守らせるか」が焦点になっていたのです。

【管理される登山者】

もう少し具体的な例を話します。

スキー場とバックカントリー(スキー場ではない山岳地帯)との境界線にゲートを設け、そのゲートの開け締めを専門家が管理する体制をとるスキー場があります。雪崩危険度が上昇する日や時間帯にはゲートをクローズし、危険度が下がればゲートをオープンし、あらかじめスキー場外での遭難や雪崩事故を防ぐというのが目的です。

この利点は、初心者や雪崩危険度を独自に評価できない方々が、山岳地帯でのスキーを楽しむことができること。ゲートという出口を使い、利用者を一元的にコントロールできることです。

しかし、反面、デメリットとしては、スキーヤーや登山者は自らでリスク判断をすることが許されず、経験者であればマネジメント可能な範囲の危険度であっても、管理者が危険と判断すればゲートは閉められ、山岳地帯にでることができなくなります。

今回の一律の登山自粛と自治体による登山道閉鎖は、このスキー場のゲート問題を、全国規模ですべての山に適用させたようなものです。法的な拘束力はありませんが、事実上、すべての山に「ゲート」ができ、スキー場のように管理下に置かれるようになった、のとさほど変わりはないでしょう。そして、政府の要請や一部の専門家の意見を拡大解釈し、それを推進したのは他でもない私たち登山家自身なのです。

世界保健機関(WHO)は5/13、新型コロナウイルスが風土病となり、消滅することはないかもしれないとの見解を示し、世界の人々は新型ウイルスとの共生方法を学ばなければならないと述べました。

これは解除が一時的なものであり、また、感染が拡大すればいつでも、登山道は管理下に置かれることを意味します。

また、コロナウイルスに限らず、こういった未知のウイルスが現れるたびに、管理が行われ、より一層厳しくなっていくことでしょう。 この意味を私たち登山者はもっと深く考えるべきだと、私は思います。

私たちが自らを束縛する前例を作ってしまったのです。

さて、先程の荒谷卓さんのコメントには続きがあります。

❝目的が明確でない場合、人はリスクに踊らされ、何者かに管理されます❞

マスコミの情報を鵜呑みにしたり、オピニオンリーターの言葉をそのまま信じる行為は、目的の欠如によってリスクに踊らされ、管理されてしまっている状態を指しのではないでしょうか。

【最後に】

さきほどの、WHOの発表のニュースはなんとも憂鬱ですが、実は人類は過去にはもっとひどい疫病に直面し、それを乗り越えてきた事実があります。中世のペストの大流行では、当時の世界人口4億5000万人の22%にあたる1億人が死亡したとされていて、特にイングランドやイタリアでは人口の8割が死に、全滅した都市や村もあったそうです。

それでも、人類は危機を乗り越え、ここまで文明を推進してきたのです。それは取りも直さず当時の人々に「生きる」という明確な意思と目的があったからでしょう。

そして、ヨーロッパではこのペストによる人類滅亡の危機を乗り越え、あの偉大なルネッサンスがはじまりました。続く時代は大航海時代。ルネッサンスも大航海時代も、パンデミックをものともしない、「生きる」という明確な目的をもったリズカーレ(勇気をもって試す人々)によってもたらされた時代ともいえるのです。

私たちも再びリズカーレとなれるのか、はたまた生物としての「生息」のみを優先するのか。

良い悪いではなく、これは個々人の「人生」の問題といえるのではないでしょうか。

廣田勇介

時間とお金、どちらも有限な存在。ゆきずりの文章に対し、袖触れ合うも何とやらを感じてくださり、限りある存在を費やして頂けること、とても有り難く思います。