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スサノヲと草薙素子-コロナ時代の冒険論

劇場版「攻殻機動隊」に登場する、血を流す肉体をもった「ホモサピエンス」はすべて、臆病で卑怯な存在として描かれており、勇敢で冒険的かつ犠牲的精神をあわせもった「人間らしい」存在は、すべてサイボーグかアンドロイドとして登場します。

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発売中のスキー雑誌「FALLLINE」に「新しい出帆-コロナ時代の冒険論」という記事を書かせていただきました。冒険家の三浦雄一郎さん、オリンピックスキーヤーの佐々木明さんの次のページに載せていただき、やり過ぎてしまった感があります。本稿は、誌面の補足として、誌面と合わせてお読みいただければと思います。

攻殻類のアレルギー

さて、数ヶ月前のコロナ自粛期間中に、私は初めて押井守監督の攻殻機動隊の2作品を観る機会がありました。ご存知のとおり、攻殻機動隊は「機動戦士ガンダム」や「エヴァンゲリオン」と並びコア過ぎるファンがひしめき、それだけで単独の共和国を形成するアニメですが、私の友人に、何を話しても最終的に話題が攻殻機動隊になる輩がいて(ちなみに私は、何の話をしても太平記か南北朝時代の話題になるので、彼の気持ちが分からなくもないのですが)その輩のおかげで、私は札幌に行っても「海老そば」も食べられないような甲殻類アレルギーになり、この歳まで作品にふれる機会がありませんでした。

しかし、2ヶ月にも及ぶ自粛期間があり、ついにその時が来たのです。いまもってあの2ヶ月は不思議な時間だったと思うのですが、私にとっては、いつか読みたいと思っていた人類最高の文学ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と、これまた人類最高峰のアニメーションである「攻殻機動隊」が触れられただけも、それはそれは貴重な時間でもありました。

スサノヲと草薙素子

ここでいまさら、攻殻機動隊を観ていない人のために説明するのも、野暮な気はしますが、一応、簡単な説明をば。

映画では端的にこの世界のことを

企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなる程 情報化されていない近未来

と説明されています。その舞台では、生身の人間、電脳化した人間、サイボーグ、アンドロイドが混在する社会。主人公は公安9課に務める脳と脊髄を除く全身を義体化した女性型サイボーグの草薙素子-通称少佐-です。

さて、原作者の士郎正宗氏はなぜ、主人公の少佐に「草薙素子」という名前をつけたのでしょうか。これに関してコアなファンは色々と推測をしているようですが、私は、劇場版のラストシーンにヒントがあるように感じます。

ラストシーンで少佐は、自分の何倍もあり、破壊的な攻撃力を持つ「戦車」を相手に一人捨て身の戦いを挑みます。

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いきなりですが、この戦いはまるで、古事記におけるスサノヲと八岐の大蛇の戦いを彷彿とさせます。古事記では、スサノヲが同じく自分の何倍もある八岐の大蛇に立ち向かい、壮絶な戦いのあと八俣の大蛇を倒し、その尻尾から出てきた剣が、三種の神器の一つ、天叢雲剣と呼ばれるようになりました。

後世、その剣を引き継いだ次の捨て身の勇者が、あの有名な日本武尊であり、尊の活躍によって天叢雲剣は後に「草薙の剣」と呼ばれるようになりました。私には、同じく捨て身の草薙素子がスサノヲから始まり日本武尊が受け継いだ草薙剣の正当な後継者のように思えるのです。

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話は、攻殻機動隊のラストシーンに戻ります。少佐は、戦車のハッチにとりつき、自分の腕が千切れるほど渾身の力をこめて、鋼鉄で覆われたハッチを開けようとします。このシーンは本当に壮絶で、初めて観たとき、私は本当に草薙素子の姿に、スサノヲを感じたのをおぼえています。

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古事記において、スサノヲは神として登場しますが、同時にまた神話上、スサノヲは人類の祖先という設定にもなっています。つまり、スサノヲが「人間」のプロトタイプともいえるのです。

写真家であり、エベレストを始めとする8,000m峰に登頂し撮影を続ける石川直樹氏は、冒険家の定義を「肉を切らせて骨を断つ者」としています。そういう意味で草薙素子は、まさに冒険家であり、同時に、冒険を指向する存在が、本来の人間であるともいえるでしょう。

肉体は魂の牢獄である

攻殻機動隊の世界観を理解する上で、重要な概念があります。それがこの言葉。ギリシアの哲学者プラトンの言葉です。原作者や押井守監督はネットやAiの進歩によって人間が益々必要とされなくなる時代を予見し、この哲学的命題(人間の実存とは何か?肉体とは何か?)を現代に問い直した作品でもあるのです。

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この言葉を理解するためには2つの前提があります。

①もともと魂は自由な存在

②魂が主人で、肉体は魂が滞在するホテル(あるいは刑務所)

しかし、現実世界では人間は食べたり、寝たり、エッチしたりして肉体(ホテル)を維持、繁栄させなければいけませんので、働いたり、仕事したり、悪戦苦闘して、私たち人間は、ホテルである肉体をなんとか維持しています。

非常にざっくりいうと、過去数千年の人間の文明や社会や宗教というものは、この命題=いかに刑務所から脱出し、魂の自由を得るか、ということが洋の東西に関わらず、根本となっていたわけですね。

だから私たちにとって、肉体の位置づけは、刑務所ではなくて、ホテルくらいの感覚がちょうど良いのです。自分のものではなく、借家でもなく、一時的な滞在先に過ぎない(かといって散らかしたり、汚したりしてもダメな場所みたいな。

人類は過去数千年にわたって、出来ているかどうかは別として、肉体と魂の関係を、プラトンのいう理想にいかに近づけるかを目標にやってきた訳です。

しかし、今回の新コロ騒動で、すべてが一変してしまいました。

生存以外の価値を一切認めない社会

これは現代の新コロに過剰に反応し、文明活動を一切やめた社会に対して、投げかけられたイタリアの哲学者の言葉です。

「感染防止のためです」という新しい聖書の言葉を突きつけられた場合、あらゆる社会活動も、経済活動も、芸術も、宗教行事も何もかも、この言葉に抗うことはできないのです。

プラトンが生きていれば、現代の人間を観てこのように言うに違いありません。

人間は、自らを閉じ込める刑務所をリフォームするために毎日を過ごし、しかも、喜んでその中で服役している

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いや、我ながら的を得た言葉なので、プラトンではなく、廣田勇介が発言した言葉だと、後世に伝わるようにしましょう。

-ゴーストのない人形-

攻殻機動隊の例に戻りましょう。この映画には、草薙素子のような勇敢な存在以外に、臆病で卑怯な輩も登場します。

そういった連中に対し、少佐のパートナーであるバトーは「ゴーストのない人形は哀しいもんだぜ。特に、赤い血の流れてる奴はな」というセリフを吐くのです。

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ここでいうゴーストというものが、プラトンのいう人間を人間たらしめている魂ということなのだと思います。つまり、攻殻機動隊の近未来には、見た目も生物学的にもホモサピエンスであることには違いないが、すでに「人間」ではない存在がいる、ということです。

逆に、サイボーグや少佐のような義体をもった存在が、ゴースト=本来の人間の魂を宿す何者か、ということになるのでしょう。

さて、映画では「人形使い」に操られたこの「ホモサピエンスの成れの果て」的な哀れな男を少佐が追いつめた時、男が「逮捕しても無駄だ。何も吐かんぞ」と叫びます。


それに対し、バトーは「自分の名前も知らねえ野郎が、偉そうなこと抜かすな」と叫ぶシーンがあります。

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実際、この人形使いに操られているこの男は、自分の母親も、出生地も知らず、記憶を消された存在として登場します。

「自分の名前も知らねえ野郎が」というセリフですが、ここでいう名前というのは、単に氏名という意味を超えた抽象的な意味があるのではないかと、私は思います。

名こそ惜しけれ

日本最高の古典文学である平家物語の中に「名こそ惜しけれ」という言葉が出てきます。壇ノ浦に迫りくる義経率いる圧倒的な源氏の勢力を前にし、追い詰められた平清盛の四男、平知盛が、言った言葉です。

この時の平知盛の言葉を要約すると、

「私のように、いかに勇猛果敢な武士でも、いつかは運命に見放される時がやってくる。そういう時に必要な態度は、命を惜しむことではなく、自分の名(名誉)を惜しむことである。卑怯な振る舞いをするな」

そういって、味方の兵士を勇気づけるのです。

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この「名こそ惜しけれ」という言葉は、武士の心意気を象徴する言葉として後世に引き継がれ、長く日本人の心にとどまりました。

この言葉は、あの司馬遼太郎が、「この一言があったおかげで、日本はキリスト教国家(の侵略)に対抗できた」と言ったそれ程の言葉です。

まとめ

いきなりですが、まとめさせてください。

書き続ける体力と時間がなくなったので、論理を2段くらい飛躍させて結論にいきます。私の文章は論文ではなく、詩とかエッセイに属するものです。論理性を期待しないでください。

さて、

極端にいうと、日本社会は、「名こそ惜しけれ」という名誉を大切にしてきた人々がいたおかげで成り立ってきた社会ですが、

その「名」を持たないのが、人形使いに操られた哀れな男であり、

同時に彼は、私たちの子孫の姿なのかもしれません。

健全な科学的懐疑精神を失い、冒険を厭い、新コロから単に逃げ惑うだけの私たち。あの「名」をもたない哀れな男は、私たちが生み出した男なのです。

近未来というか現代

攻殻機動隊の公安9課が発足されるのは、2029年という設定です。

現代はまだ、iPS細胞も実用化されておらず、サイボーグも姿を見せていません。しかし、実用化に向けての基礎理論はすでに出来上がり、あとは時間の問題なのでしょう。

つまり、現代はホモサピエンスを人間たらしめていたゴーストが行き場を失い、未だ次の乗り物(義体)を見いだせずにいる、ゴーストにとって混迷の時代といえるかもしれません。

では、そんな時代にも、生命の炎を燃やし、「血を流す」生命体として生きるには、どうしたら良いのか?

草薙素子にとってはネットの世界に深くダイブすることが、広大な世界への冒険的行為であり、それが内なるゴーストの望む声でした。

私たち人間のゴーストが望むことは、何なのでしょうか?

その声は、一人一人違うはずです。

生命は個別で、量産型の人間はいないからです。


ちなみに、私のゴーストが伝え続ける声は一つだけ。

先祖のように、生きたい。

バトーや平知盛のように「名」を求め、スサノヲや草薙素子のように、不可能に挑戦すること。

出来るかどうかは、わかりませんが、そうしろと、かのゴーストが伝えてくる気がしています。

YH





時間とお金、どちらも有限な存在。ゆきずりの文章に対し、袖触れ合うも何とやらを感じてくださり、限りある存在を費やして頂けること、とても有り難く思います。