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アサヒビール「元社長・瀬戸雄三さんの働き方」を学ぶ

Ⅰアサヒビール・元社長
 瀬戸雄三さんの「仕事・働き方」を学ぶ

1はじめに

(1)「温故知新」の視点から「自分らしい仕事・働き方」

この原稿は、アサヒビール元社長・瀬戸雄三さんの仕事人生に関する出来事を年齢順に並べています。その目的は、ビジネスで活躍した人の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を明らかにするためです。社会には、自分の仕事人生をイメージできない人が多くいます。生涯の仕事設計が曖昧だと、中途半端な人生に終わったりします。そんな不安を感じている人に役立つ格言が「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を見つけるうえで有効な思考法です。ビジネスで成功している人達の情報を収集・分析していくと、必ず自分の仕事人生に役立つヒントが浮かんできます。「自分らしい仕事・働き方」の目指すべき方向が見えてきます。自分の仕事人生が曖昧な人は、「温故知新」の視点から既存の仕事情報をヒントに、「自分らしい仕事・働き方」を想像してください。

(2) 瀬戸さんを参考に考える「自分らしい仕事・働き方」

瀬戸さんの仕事人生は、
(1)社会人として未熟な問題児
周囲の指導を受けながら成長
(2)1回目の左遷、神戸出張所に異動
左遷に負けず、前向きに営業活動
(3)2回目の左遷、大阪支店に異動
愚痴をこぼさず、全力で業績拡大
(4)アサヒ奇跡の復活を実現した樋口社長
超実力社長に対し自分の意見を進言
(5)有利子負債の削減を図りながら売上拡大
キリンに打ち勝つ新戦略を展開
など、左遷されながらも営業実績が評価され社長に就任します。社長としての最大の功績が、ビール市場のシェア争いでキリンビールを逆転、アサヒビールを業界1位にしたことです。瀬戸さんの仕事人生から自分に役立つ情報を探し出し、「自分らし仕事・働き方」を考えてください。
 
注)瀬戸さんの「仕事・働き方」は、『私の履歴書 月給取りになったらアカン(著者:瀬戸雄三 発行所:日本経済新聞出版社)』『ビール15年戦争 すべてはドライから始まった(著者:永井隆 発行所:日本経済新聞社)』を参考文献にしています。

2 瀬戸さんの「仕事・働き方」のステップ

瀬戸さんの「仕事・働き方」に関する主なステップです。年齢順に、「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」がわかります。個々の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を描いてください。

《誕生・・・・17歳頃》
軍事訓練、勤労奉仕、学徒動員などを体験

 (1) 1930年2月 神戸市で誕生
父が貿易業「瀬戸商会」を経営、4人兄姉の末っ子で生まれる。不幸にし
て、長男・次男は慶應義塾大学の在学中に結核でなくなる。
 
(2) 1942年 神戸3中(現、兵庫県立長田高校)に入学
軍事訓練や勤労奉仕、そして学徒動員で高射砲の部品製造にかかわる。
 
(3) 15歳 太平洋戦争の敗戦
天皇陛下の終戦のお言葉を学校の渡り廊下で聞く。ラジオの雑音がひどくなんとなく負けたことがわかる。教室に戻り、全員が泣く。夕方、「今日は、敵の飛行機が飛んでこない」と、ほっとした気持ちになる。

《18歳・・・・22歳頃》
慶応義塾大学に入学、アサヒビールに就職

(4) 慶応義塾大学に入学
1浪して2度目の挑戦で、2人の兄が在籍していた慶応に入学する。
 
(5) 父が脳梗塞で死亡、竹の子生活
父が死亡、身の回りの家財を売り、食つなぐ生活となる。竹の子生活を送ることで、父の口癖だった「金持ちの時には貧乏な顔を、貧乏な時には金持ちの顔をする」という言葉を思い出す。もう一つ子供のころ父からよく聞かされた言葉が、「月給取りと先生になったらアカン」だった。「会社勤めをすると月末に自然と給料がはいってくるので安易な生活を送るようになり、先生はあがめられるたびに傲慢になる」からだった。
 
(6) 昼は雀荘、夜は恵比寿の屋台
家計は大変だったが、母は慶応での学生生活を続けさせてくれる。学校にいっても悪友と雀荘、夜は恵比寿の屋台に顔を出だす。大学3年のとき、銀座のビアホールで戦後初めて生ビールを売り出すという新聞広告をみる。この日は、朝から水を一滴も飲まず銀座に向かいジョッキを傾ける。
 
(7)就職の第1志望・千代田銀行は不合格
就職先として最初に浮かんだのが千代田銀行(現、三菱東京UFJ銀行)だった。父が懇意にしていた支店長が頭取になっており、アポなしで訪問する。しかし、銀行を受験するも歯が立たず不採用になる。
 
(8)就職の第2志望・アサヒビール
就職の第2志望として、アサヒビールを受験する。戦後間もないころの就職先と言えば、石炭産業や繊維産業が花形だった。そんな中、食品業界を就職先としたのは、どのような世の中になろうとも食品産業はすたれることがないと思えた。なかでもアサヒビールは、新聞や電車の中吊り広告に斬新な宣伝広告を展開しており、なにか新しいことをする先進的な会社に見える。
 
(9) 床屋騒ぎもアサヒビールに合格
アサヒは不合格のように思えたが、本社までボサボサ頭で結果発表を見に行く。すると合格だった。驚くと同時に、「この頭ではまずい」と思う。直ぐに本社を飛び出し、東京駅の床屋に行く。ギリギリ面接時間に間に合い、床屋騒ぎを知っている人が面接官で、なんとか合格になる。

《23歳・・・・25歳頃》
新入社員として、いろいろな失敗

(10) 1953年、アサヒビールに入社
アサヒビールに入社、大阪支店の販売課に配属される。販売課に配属された新人は3名だった。アサヒは飲食店など業務用市場に強く、創業地の大阪では全国シェアの2倍以上の販売実績だった。
 
(11) 今年の新人は史上最低との噂
昼休みに遊びで乗ったボートが流される事故や「おじん臭い会社」だといった発言を支店長に聞かれ、3人の新人に関して史上最低の「ずっこけ3人組」という風評が立ちかける。
 
(12) 給料を上回る友人へのおごり
中学時代の友人を直営のビアホールでごちそうする。友人の間に、瀬戸と一緒ならただでビールが飲めるという噂が広まる。おごり目当てで悪友がどんどんやってきて、サイン払いの飲み代が給料を上回る。
 
(13) 仕事への甘い姿勢を反省
キタ新地・有名店の開店記念日の出張販売で、定刻に始まるはずはないと思い遅刻する。ママのホステスに対する接客指示を聞いて、自分の仕事に対する甘さを反省する。
 
(14) ビールの原料統制が廃止
1953年「戦中・戦後に実施されていたビールの主原料・大麦の割り当制」が廃止になる。その年のアサヒ・キリン・サッポロ3社シェアはほぼ33%台で僅かにアサヒが1位だった。自由競争になった翌年からシェア差が生じる。

(15) 販売店の情報を収集・記録
作れば売れる時代だったので、店の営業引き継ぎ資料は名簿と地図だけだった。自分流の営業として販売店の情報整理を始める。経営者の名前、仕入れている卸店、販売数量などの情報を記入した台帳を制作する。情報を得るには懇意にならなければならず、販売店に可能な限り足を運ぶ。

(16) 新しい販売促進策を実施
「ショーウインドー作戦」と名付け、店頭を美しく飾りつける取組みを行う。販売店には、店頭にビールやその他の商品をきれいに並べるという習慣がなかった。社内のデザイン担当者の協力で店頭の飾りつけをする。
 
(17) 老舗の店主から「挨拶が悪い」の指摘
仕事が順調で心に隙ができる。150年の歴史のある販売店の店主から「お辞儀に心がこもってへんで」といわれる。会社に入ってから、「商売の基本はおじき」と先輩から耳にタコができるほど言われていたが、挨拶に心がこもっていないことを指摘され、自分のいたらなさに気づく。
 

《26歳・・・・36歳頃》
1回目の左遷、異動先はアサヒの弱い神戸

(18) 支店長批判で神戸出張所に左遷
1956年、お節介と言えるような支店長批判が原因で、アサヒ最大規模の大阪支店から神戸出張所へ左遷される。大阪に愛着があり1か月ほど残務整理をしていると、支店長から雷が落ち、支店長の車で神戸に強制連行される。大阪と神戸はとなり合わせだが、市場は一変する。神戸は圧倒的にキリンが強く、アサヒは門前払いされる市場だった。
 
(19) 卸店社長が怒り、「出入り禁止」
神戸でもアサヒが一番弱い地区の担当になるが、大阪時代の傲慢なしぐさや話しぶりによって怒りをかい、卸店に出入り禁止となる。卸店社長の許しを請うため、翌日から毎朝7時半に社長の自宅に伺う。3日間通い許してもらう。その後は親しくつきあい、アサヒが一番苦しい時も応援してくれる。
 
(20) 神戸出張所での営業は大苦戦
飲食店に営業にいくと、店主から「商売の邪魔になる」と言われたりする。「アサヒです」と店に入っても、相手にされないことがザラにあった。

(21) アサヒを扱う飲食店の減少
夜の街に営業にいくと、アサヒを置いてくれる飲食店の数が減っていくのを実感する。飲食店からは、「お客様が別の銘柄を指名されるからどうしようもない」といわれる。
 
(22) 卸店への押し込み販売
卸店はメーカー別で完全に専業だったので、悪いと思いながら無理やり押し込み販売する。押し込んだビールは庭に積まれ、積み上げられたビールで家の中に光が入らなくなる。
 
(23) キリンのシェアが上昇、業界トップ
1956年、キリンのビール市場シェアが40%を突破、1966年50.9%、1972年以降は60%台(1985年まで60%台を維持)を維持する。業務用市場に弱かったキリンは、家庭用市場の強化に取組む。高度経済成長により家庭用電気冷蔵庫が普及して家庭市場が拡大、「キリンラガービール(苦みのあるドイツビールの味)」の人気で圧倒的シェアを獲得していく。
 
(24) 営業成績を上げるため夜も営業
昼は販売店や卸店などを1日10~15軒営業する。夜は繁華街の飲食店を1晩で6~7軒訪問する。約30分の滞在でアサヒビールを2・3本飲んでいく。相当酔いが回り、帰宅時間は零時を超える。
 
(25) 自分の名刺を放置したお店を攻略
1週間名刺を放置された店へ半年通い続け、コーヒーを出してくれる関係を築く。その当時のビール販売店は、醤油の量り売りをしていた。漏斗(じょうご)から落ちた醤油が名刺についたが、1週間も放置されたことが励みになり積極的に営業する。
 
(26) お店への協力金が遅れ取引停止
アサヒのシェアが落ち営業経費も自由に使えなくなる。大口顧客のキャバレー社長から店舗改装の協力金を求められるが、本社の決済が遅れたことで社長の怒りをかい取引停止となる。1年後、8周年の開店記念日に駆けつけるなどして社長の信頼を回復、取引を復活させる。

(27) 運送会社の人から物流知識を学習
アサヒの自社ビルに入っているグループ企業・朝日運送の幹部から配達の話を聞き、物流の基本的な仕組みを学ぶ。この知識が社長時代の「フレッシュマネジメント=工場出荷の短縮化」戦略につながる。
 
(28) 1963年、サントリーがビール市場に参入
1963年、ビール市場のシェアはアサヒ25%、キリン48%であった。アサヒは、シェア低下中にもかかわらずサントリーに自社販売チャネルの利用を認めたことで、さらにシェアはダウンしていく。業界では、アサヒは「軒先を貸して、母屋をとられた」と揶揄される。
 
(29) 営業マンとして実力アップ
飲食店のライバルビールを3店同時にアサヒへ切替えさせる。お店に営業をかけ、ライバルメーカーからアサヒに切り替えてもらうことを「奪取」という。そう簡単に「奪取」はできないが、一気に仕入れ量の多い3店の奪取に成功するなど、着実に営業力を高めていく。

 《37歳・・・・39歳頃》
「点面作戦」により営業成績に貢献

 (30) 1967年 神戸支店・販売第1課長に昇進
一生懸命に営業活動を続け、1967年課長に昇進する。管理職として神戸の販売戦略を考える。これまでの経験から、誠意をもって組織的に店まわりをすれば、必ず成果があがると確信していた。
 
(31) アサヒのシェアは20%キレ直前
1967年、アサヒのビール市場シェアは22.0%までダウンする。1964年25.5%、1965年23.2% 1966年22.1%とじり貧状態で、20%切れの危機に陥る。販売競争に打ち勝つため懸命な取組みをする。

(32) 拡販戦略「点面作戦」を実行
販売店を点として、点と点を結ぶ線で囲まれた飲食店を攻める作戦を実行する。当時は消費者の指名買いより、販売店による推奨販売が主流だった。アサヒを一生懸命売ってくれる販売店を軸に拡販戦略を実行する。
 
(33) 神戸支店・販売予算を達成
1967年「点面作戦」の効果で、面の中にある飲食店から注文が寄せられる。長年予算割れが続いていたが、12月30日仕事納めの日に販売予算を達成する。この年、販売予算を達成したのは、全国で広島支店と神戸支店の2支店だけだった。

 《40歳・・・・48歳頃》
 東京に栄転、11カ月で大阪支店に左遷

(34) 1970年 東京本社に異動
神戸での仕事ぶりが評価され、営業第1部ビール課課長として東京・本社勤務となる。全国の営業部隊を統括する新設された課だった。
 
(35)「フレッシュマネジメント」の計画
1970年 アサヒのシェアは17%まで低下する。本社課長として新機軸を打ち出す。「ビールをうまい」と実感してもらうには、過剰在庫を減らしし、鮮度のよいビールを飲んでもらう必要があった。しかし、アサヒの実態は、「販売未達→押込み販売→長期在庫→品質劣化」の悪循環を繰り返していた。そこで、テストマーケティングとして押し込み販売をせず「新鮮な美味しさ」を実感してもらう「フレッシュマネジメント」を計画する。
 
(36) 専務に未報告「フレッシュマネジメント」
全国で在庫削減を一気に進め、ビールの押し込み営業をやめるのは現実的でないので、地域を4県に絞って「フレッシュマネジメント」を実施する。高倉健さんをキャラクターに起用して、「アサヒはおいしい新鮮なビールを供給します」とラジオで呼びかける。卸店には、押し込みを一切しないようにする。3月から始めたテストマーケティングの結果が気になる夏ごろ、専務の延命さんから呼び出される。専務に「フレッシュマネジメント」が報告されておらず、計画は全て中止になる。決して独断専行出ではなく、直属の上司である営業部長には報告をしていた。

(37) 2回目の左遷、大阪支店に異動
本社勤務11か月で左遷となり、大阪支店・販売第1課長に異動する。
 
(38) 実績により部下の信頼を獲得
左遷上司に部下がついてくるはずがなく、課長として実績を示す必要性を感じる。ただ市場では、「アサヒビールではなく夕日ビール」といわれるほどアサヒのシェアは低下する。1971年、各社シェアは、キリンがダントツの59%、サッポロ22%、アサヒ14.9%だった。
 
(39) 大口取引先のキャバレーを攻略 
大阪トップクラスのキャバレーに照準を定めて攻略にかかる。キャバレーは客を飽きさせないため店舗改装を頻繁に行う。取引先の銀行と親しくなり、1億5千万円の店舗改装情報を入手する。取引銀行にアサヒが協力預金をして取引先キャバレーへの融資の道を開き、店内のビールをアサヒに切り変えさせることに成功する。
 
(40) 1975年、アサヒのシェア13.5%
1976年、神戸支店長に昇進アサヒの1975年シェアは13.5%だった。所員のモチベーションを高め、神戸のシェアアップに取り組む。朝礼を毎日行い、社員の顔を見ながらやる気をチェックする。同時に、職場環境をよくするため、本社の了解を取らず事務所に有線放送の設備を設置する。昼休みにはBGMを流し、月に一度は音楽を聴きながら職場で宴会を行うなど、組織として団結する。神戸支店の販売減少に歯止めをかけることで、左遷した延命社長(左遷当時は専務)から高い評価をえる。
 
(41) キリンのシェアは63.8%
ビール市場はキリンの一人勝ち状況になる。「キリンラガービール」の圧倒的人気もあって、1976年キリンのシェアは、これまでの最高63.8%まで上昇する。キリン社内では、独占禁止法による企業分割を心配する。

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