見出し画像

東京都知事選ポスター:大衆迎合ですらない

東京都知事選に過去最多の56人が立候補した。その選挙ポスター掲示板が波紋を広げている。

ある候補者は、ほぼ全裸で局部をシールで隠しただけの女性の選挙ポスターを掲示した。「東京都青少年の健全な育成に関する条例」に違反するとして、警視庁から警告を受けて、最終的に撤去した。

続いて、掲示板に候補者と直接関係のない同じ人物やデザインのポスターが多数張られた。

ある掲示板には、さまざまな人物の画像とともに、デザインの同じピンク色のポスターがずらりと張られていた。

仕掛けたのは、政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志党首だ。NHK
党は24人の候補者を都知事選に擁立した。

立花氏は、候補者を大量擁立して選挙ポスターの掲示板を占有し、党に寄付した人の主張をポスターに掲載するという、型破りの構想を打ち出した。

NHK党によれば、5月末日までは1カ所5000円、6月1日~19日は1万円、20日以降は3万円を党に寄付すれば、都内約1万4000カ所にあるポスター掲示板のうち1カ所で、独自に作成したポスターを最大で24枚貼れる。

ポスターのデザインや内容は、立候補者ではない寄付者が考えたもので、QRコードなどが掲載されることになる。読み込むと特定の交流サイト(SNS)の画面に誘導される。

まるで、風俗の広告としか思えないようなポスターもある。

公職選挙法上、これらのポスターは規制ができないのだという。内容についての規制はないからだ。最初に取り上げたものも、あくまで「条例違反」であって、公職選挙法違反での摘発ではない。

公職選挙法の改正など、今後どう規制していくかの議論は、すでに他の識者などによって行われているが、別の機会としたい。

日本にも、SNSなどを利用した新しい政治勢力の参加が起こっている。私はそれを、歴史的な経緯も踏まえて整理した。

だが、この現象は、欧州で再び拡がり始めている「大衆迎合主義(ポピュリズム)」とは異なるものではないかと思い始めている。

欧州のポピュリズムは、既存の右派政党(保守政党)と左派政党(リベラル政党)が、都市部に人口が移動したことで、都市部の中道層の票を獲得することが政権獲得につながるようになったため、既存の支持者を置き去りにして、都市部の票の獲得競争をしたことで起こった。

保守・リベラルともに市場主義・競争主義・規制緩和・自由化・民営化などを争って実行するようになったからだ。それが1980年代から2008年のリーマンショック前までの「新自由主義の時代」といえるだろう。

これは、コアな支持者は、間違っても左派は右派に投票しないし、右派は左派に投票しないという政党側の安心感でもあった。しかし、コアな支持者は長らく疎外感を感じていた。移民に仕事を奪われたり、都市部と地方の格差が広がったりしても、政党は都市に目を向けるばかりという不満も募っていった。

そこに現れたのが、極右・極左の大衆迎合政党だった。彼らは、置き去りにされた既存政党のコアな支持者に彼らの利益を守るとダイレクトに訴えた。移民排斥など感情的な訴えをSNSなどを使いエレガントに行い、劇的に支持を拡大した。

重要なのは、極左であれ極右であれ、大衆迎合政党はその言い方は過激だとしても、あくまで既存の政党から「置き去りにされた人たち」であり、社会から「疎外された人たち」に寄り添っていったということだ。つまり、あくまで「大衆迎合」とは「大衆」のためだということだ。

「弱き者の味方」というスタンスは一貫しているのだ。

それでは、日本の現状はどうか。もちろん、私自身が書いたように、地方政治には、日常の問題に地道に向き合い、取り組もうとする新しい政治家が多数生まれている。

しかし、単なる売名行為、単なる金儲けのための活動も増えている。それだけなら、昔からあったことといえるのかもしれない。

ただし、「東京15区補選」のつばさの党や、「東京都知事選」の選挙ポスター問題をみると、気になることがある。それは、彼らは「弱き者の味方」ではないということだ。

つばさの党の行為は、対立する候補や政党に対する妨害行為であり、自分たちよりも「強者」に挑むもののようにみえる。だが、実際は、圧力行為、言葉による暴力で怖がってしまい、政治から遠ざかるのは、候補者や政党よりも、演説を聴きたかった「庶民」のほうだ。

彼らの言葉から、「庶民」に対する優しさは微塵も感じられなかった。その暴力がその場にいた時分に向けられるかわからないと恐怖して近寄らなくなった。それが、過去にない低投票率の一因となったのは間違いない。

一方、東京都知事選のポスターだが、とても「こどもにはみせられない」内容が含まれた。また、風俗店の広告にしか見えないようなものは、女性などへの人権への配慮をあまりにも欠いている。

かつて、自民党で「40日抗争」と呼ばれた党内抗争の激化があった。その時、自民党本部にバリケードを築いた通称「ハマコー」と呼ばれた浜田幸一という政治家がいた。ハマコーは、3日3晩考えて、集まったテレビカメラの前で反対派に訴えた。

「自民党はお前たちのためにあるんじゃない。自民党はこどもたちのためにあるんだ!」

いまとなっては、昔の笑い話ではあるが、ハマコーのような極悪非道な政治家(笑)でも、「こどもたちのため!」と叫んだわけだ。

また、昔イタリアに「愛の党」を結成して国会議員となった、元ポルノ女優のチチョリーナという人がいた。半裸で演説したり、性犯罪を防ぐために「公園でのカーセックス合法化」を主張したりした。

90年に湾岸危機が勃発し、多くの人がイラクで人質になった時には、「わたしがあなたの女になるから、人質を解放して!」とサダム・フセインに訴えて無視されるなど、派手でハチャメチャな言動で知られた。

だが、常に「愛と平和」を訴える思想信条は一貫していた。

要するに、それほど政治家というものにとって「こども」「女性」など、いわゆる「弱者」は絶対的に守るべき対象であるはずだ。少なくとも表面的には。大衆迎合政党ならば、尚の事である。

それなのに、「こども」や「女性」に寄り添うどころか、公然と愚弄して気づつけても平気だ。金儲けになればなんでもいいという考え。それは、政治では全くない。

この現象を、「日本の恥」と批判する人は少なくない。私もそう思う。そして、その批判に1つ私が付け加えるならば、これは恥ずかしいだけではないということだ。

欧州の大衆迎合主義(ポピュリズム)とは、全く違うということだ。繰り返すが大衆迎合とは「弱き者の味方」だ。弱き者を平気で傷つけるのとは真逆なのだ。

これは、もしかすると日本の独特のインターネット文化が生み出した、日本発の変わった政治現象が生まれているということなのではないかと思う。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?