【連載小説】『平凡な少女のありふれた死に方』第2話
僕が白坂先輩と出会ったのは、激しい雨の降る日だった。
ちょうど梅雨真っ盛りの時期で、気が滅入るような分厚い雲がずっと空を覆い尽くしていた。水を吸ってぐずぐずになった靴の中が気持ち悪く、足を地面につける度に小さな溜め息が漏れる。
雨風をしのぐには心許ない屋根とすっかり湿って座るのが憚られる簡素なベンチしかない停留所で、かれこれ二十分以上バスを待っていた。時刻表に書かれた時間はとうに過ぎているはずなのに、雨で遅れているのか、一向に来る気配がない。不規則な雨音に苛立ちを覚えながら、どうしてこうも辟易としてまで生きねばならないのかと虚しさを感じていた。
「ずいぶんひどい顔をしてるね」
誰もいないと思っていたバス停に、彼女はいつの間にか現れて、突然そんな風に声をかけてきた。その言葉が自分に向けられたものなのかもわからず、僕はそっと顔を上げて彼女の方に目を向ける。
「世の中の絶望を全部背負ったみたいな顔してる」
今度は真っ直ぐ僕の目を見てそう言った。彼女の瞳はすごく透き通った色をしていて、ずっと見つめていると、美しい海に沈んでいくような蠱惑的な感覚に襲われる。
そんな風に見惚れていた僕を咎めるように、バスが雨を裂いてやってきた。彼女は自然に僕から目を逸らすと、そのままバスに乗り込もうと入口の方へ歩き出す。僕も一足遅れて彼女を追いかけるが、電光表示をよく見ると、それは家とは違う方へ行くバスだった。
「君、文演部においでよ。きっと気に入ると思うから」
去り際に残していった彼女の言葉が頭を離れず、次の日の放課後、僕は部室棟を訪れていた。
僕らの通う高校は大きく三つの建物に分かれている。まず正門から入って目の前にあるのが、一番大きい本館。ここに教室や職員室、専科の特別教室などもすべてまとまっている。そして、その裏手に位置する場所に、体育館や武道場、プールなどが入った体育棟と、部活動用の部屋がまとまった部室棟が並んでいる。
部室棟は三階建ての細長い建物で、約三十の部室が凝縮されている。吹奏楽部や生物部、茶道部など、特殊な活動場所を要するものを除き、ほとんどの部活にこの部室が割り当てられており、基本的にそこを活動拠点としていた。
四月に入学して以降、何となく部活に入らないまま過ごしていた僕は、こうして部室棟に来るのも初めてだった。同じ学校の施設内のはずなのに、入ってはいけない場所に入り込んでしまったような居心地の悪さがある。
事前に確認していたので、僕はあたかも歩き慣れた道であるようなふりをして、文演部の部室がある三階へと上がっていく。部室からはみ出た雑多な荷物が道を塞ぐ狭い廊下を進んでいくと、ちょうどその真ん中辺りに小さく「文演部」と書かれた扉を見つけた。
しかし、ノブに手をかけようとしたところで、突然身体を突き動かしていた熱が冷めていくのを感じた。自分が何故ここまで来たのか、この中に入って何をしようとしているのかがわからなくなる。
よくよく考えてみれば、初めて会った人間に訳のわからないことを言われて、それを啓示のように感じてしまうなんて馬鹿馬鹿しい。ちょうど気持ちが沈んでいたタイミングでそれらしいことを言われたというだけで、彼女は僕のことなど何も知らなかったはずだ。大体、初対面の人間にあんなことを言ってくるなんて、明らかにどうかしている。
そもそもこの文演部というのも得体が知れなかった。元々は文芸部と演劇部が合併して生まれたらしいが、文芸部も演劇部も別で存在している。クラスメイトに聞いたところによると、活動内容もいまいち判然とせず、とにかく変人が多いことで有名な部活とのことだった。
一度冷静になってしまうと、すべてが胡散臭く思えてくる。寸前で気の迷いが解けてよかったと安堵し、このままいつも通り寄り道をせず家に帰ろうと踵を返す。
「やあ、来ると思ってたよ」
ところがちょうど僕が振り返ったところで、こちらに向かってくる彼女と目が合ってしまった。
「あ、いや……」
もう帰るつもりなのだと説明することもできず、言葉に詰まっている僕をまるで意に介さず、僕が躊躇して開けることのできなかった扉を勢いよく開いた。
「ようこそ、文演部へ。何もないところだけど、歓迎するよ」
そう言って彼女は僕を部室へと招き入れる。
「と言っても、今日は特段活動がない日でね。実際に活動してるところも見せられないんだけど、まあその方がかえって都合がいいかと思って」
確かに部室には他の部員の姿はなく、薄暗い中に低くなった日の光がスポットライトのように誰もいない空間を照らしていた。壁一面に本が置かれた部屋の中は埃と黴の臭いが染み込んでいて、少しだけ息が吸いやすい気がした。
「それにしても来てくれてよかったよ。昨日はいきなり声をかけちゃったから、変な奴だと思われたんじゃないかと心配してたんだ」
「……まあ、変な人だなとは思いましたけど」
「あはは。正直でいいね」
彼女はとにかくよくしゃべる人だった。聞き心地の良い声で流暢に言葉を連ねていくので、こちらから話を挟み込む隙を与えてもらえず、僕は軽く相槌を打つくらいしかできなかった。
昨日はほんの数言投げかけられただけだったが、あの時受けた印象とはずいぶん違うように思えた。昨日の彼女は言葉の奥に儚さを携えているようだったが、今目の前にいる彼女からはむしろあっけらかんとした明朗な雰囲気を感じる。しかし、ふとした時に目が合うと、その瞳には確かに僕が魅了された深くて暗い深海のような美しさがあった。
それから彼女は文演部のことを簡単に教えてくれた。噂で聞いていた通り、元々は文芸部と演劇部が部員不足となり、存続のため合併してできた部活らしい。ところが、しばらくして部員が十分に集まったことで再度分裂。その際にどちらにも属さず残った人たちがいたことで、この文演部自体もそのまま部活として残されたという経緯だった。
「結局何をやる部活なんですか?」
「その名の通り、文芸と演劇を混ぜた感じだね。自分たちで書いたシナリオを、自分たちで演じる。ただ演劇と違うのは、作者以外は誰もシナリオを知らないまま物語が進む。参加者は自分に与えられた設定と限られた情報だけを持って、物語の中の一登場人物として動いていくんだ。参加者の行動次第で物語も変化するし、結末だって変わり得る。出来上がったシナリオを演じるのではなくて、演じた結果生まれたシナリオこそが作品になる。今風に言うなら、マーダーミステリというものに近いかな」
小説や演劇とは異なるというのはわかったものの、言葉で聞いただけだとあまり想像がつかなかった。基本的には即興劇だが、その裏側に明確に意図されたシナリオがあり、その狭間で動いていくようなイメージだろうか。これは確かに、活動内容が周囲に理解されていないのも頷ける。
「そういえば自己紹介がまだだった。私は白坂奈衣。この文演部で副部長をしてる」
「一年の西村景です」
「景くんね。いい名前」
いきなり下の名前で呼ばれて、一瞬心臓が跳ねあがる。親か親戚にしか呼ばれたことがなかったので、彼女の綺麗な声で呼ばれるのがむず痒くて仕方なかった。
そんな風につい浮かれそうになり、慌ててかぶりを振って冷静さを取り戻す。こうして彼女と再び対峙することになったからには、まず僕は聞かなくてはならなかった。
「先輩はどうして僕に声をかけたんですか?」
偶然バス停で出会っただけの見ず知らずの後輩に、唐突にあんな意味深なことを言って、ましてや自分たちの部活に勧誘するなんて、いくら何でも突飛すぎる。それに、僕は彼女の気を引くような何かを持っている人間ではない。何の変哲もない、少し卑屈で無気力なだけの男子高校生だ。人を惹きつける不思議な魅力を持つ彼女とは違う。
だからわからなかった。彼女が僕に何を見たのか。それを知りたくて、僕はこの場所に来たのだった。
「……その目、かな」
彼女はあの時と同じように、じっと僕の目を見つめる。
「同じ目をした人を見たことがあったんだ。その人は結局自分で死を選んだ。だからもしかしたら、君もそうなのかなって思ってね」
「まさか、そんな死ぬなんて……」
予想だにしないことを言われ、僕は歯切れの悪い言葉を返すことしかできなかった。
「でも、死んでもいい理由を探してる」
相変わらず彼女の人形のように整った顔にはめ込まれた真っ黒い瞳は、こちらを深い場所へと引きずり込もうとする力を持っている。
「……買い被りすぎですよ」
「君がそう思うなら、それでもいいか」
彼女はじっとこちらを見つめていた目を逸らすと、あえてそれ以上踏み入ろうとしなかった。
「とにかく君にはこの文演部がぴったりだと思う。ちょうど部員が少なくて困っていたところでね。お試しでもいいから、入ってみてよ」
そんな風に半ば押し切られる形で、僕は文演部に入部することになったのだった。