掌編小説「夏の日の幽霊」
小学校五年生の夏休みでした──。
その日は、父は仕事に出かけ、母は買い物に出ていたので、ラジオから流れてくるサマーソングを口ずさみながら、マンガ本を読んで、ベッドの上でゴロゴロしていました。
そのうち眠気に襲われて、ウトウトし始めました。
どれくらい時間が経ったのでしょうか? 私は、ミシッと床が軋む音で目を覚ましました。
起き上がろうとしたのですが、どういう訳か、身体が動きません。
金縛りにあったのとは少し違います。頭の奥の方で、「起きてはいけない」と、もう一人の自分が叫んでいるようでした。
瞼を閉じたまま、じっとしていると、ミシッ、ミシッという音が、どんどん近付いて来ます。
とても怖かったのですが、私は薄く目を開けてみました。
いつの間にか、私の部屋のドアの前に、女の人が立っていました。
とても暗い目をしていて、骨張った手には、包丁のようなものを握っています。
思わず叫びそうになったのを慌てて堪え、寝たふりを続けました。
あの女の人は、幽霊に違いない。もし、ここで声を上げたりしたら、何処か遠いところに連れていかれてしまう。そう思ったのです。
私は、息を殺しながら、「いなくなれ。いなくなれ」と何度も心の中で唱えました。
そうすれば、幽霊がいなくなると、心霊番組に出ていた霊媒師が言っていたのを思い出したからです。
でも──女の幽霊は、私のそんな思いに反して、ベッドの脇まで歩いて来て、ずいっと顔を近付けると、耳許で囁きました。
「私の子どもは死んだのに、どうして、あなたは生きているの?」
言葉の意味は分かりませんでしたが、それが、とてつもなく怖ろしい呪詛の言葉のように感じられました。
私は、勇気を振り絞って女の幽霊を突き飛ばし、部屋を飛び出しました。
だけど、すぐに後ろから、髪を引っ張られ、転んでしまいました。
女の幽霊は、私の顔を覗き込むと、にたっと笑いながら、包丁を振り上げました。
私は、力の限り叫び声を上げました。
その後、どうなったのかは、今もはっきりと思い出すことはできません。
ただ、気付いたときには、母にお風呂で身体を洗ってもらっていました。その時、鏡に映る私の顔には、赤い絵の具がべったりと張り付いていました。
母に、泣きながら女の幽霊に襲われたことを話しましたが、夢を見たのだと言いくるめられました。
その日を境に、父は家からいなくなりました。「おれのせいで、ごめん」父は、最後にそう言っていました。ちゃんとした説明は受けていませんが、父の浮気が原因で、離婚したのだと思います。
あれから、二十年が経ち、先日、母が他界しました。
私は、遺品整理をする中で、奇妙なものを見つけました。
それは、錆び付いて刃がぼろぼろになった包丁です。雑巾のような布にくるまれたその包丁は、どういう訳か、天井裏に隠してあったのです。
私は、その包丁を見て、奇妙な既視感を覚えました。あの夏の日に女の幽霊が持っていたのと、同じ物のように思えたのです。
そして──包丁を手に取ると、忌まわしい光景が脳裏に浮かびました。小学生の私が、女の幽霊を滅多刺しにしているのです。
しかも──笑いながら。
これは、私の妄想なのでしょうか? それとも、私は人を殺してしまったのでしょうか──。
*初出:「小説現代」8・9月合併号「聴く百物語」
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